<5.兄と弟>

 深い闇の底をたゆたっていた意識に、軽妙なメロディーがうっすらと届いた。まるで釣り針にかかった魚のように、俺は眠りの海から引き上げられる。


 まぶたが震えて視界が開けた。白みはじめた空の色が、カーテンの隙間から部屋に忍び込んでいた。

 朦朧とした状態のまま手を伸ばし、ベッドをあさって音源をつかまえる。引きよせたスマホの画面を見ると、文字化けした意味不明の記号が並んでいた。


『おい、兄貴。聞こえてっか、兄貴!』

「うるさいなぁ。こっちは明け方なんだ、また今度にしてくれ……」


 あくびを噛み殺して、ぶっきらぼうに突っぱねる。

 でも、そんなことで陽介は止まらない。押さえきれない感情の高まりが、次元の壁を越えて伝わってきた。


『やったぞ、兄貴。ドラゴンを倒した。倒せたんだよ、ドラゴンを!!」

「は?」寝ぼけた頭に陽介の言葉がじわりと染み込む。「えっ、ドラゴンを倒した?!」


 思いもよらなかった展開に、眠気が吹き飛びベッドから跳ね起きた。何も考えず動いたせいで、右足の傷に響いて激痛が走る。

 しばらく唇を噛んで痛みがすぎさるのを待ち、どうにかうすれてきたところで、騒がしい声をあげるスマホに顔をよせた。


「ど、どうやってドラゴンを倒したんだ?」

『どうもこうもねえよ、兄貴が教えてくれたドラゴンの考察がバッチシはまったんだ』


 陽介によると――火を吹くドラゴンが相手では、通用しないと先入観で思い込んでいた火を使った攻撃を試したところ、予想以上の大きなダメージを与えることができたという話だ。放った火矢が偶然着火前の可燃物質に命中して、大爆発を起こしたらしい。


『口の中で爆発して、顔の下半分が吹き飛んでた。それでも、あいつらゴキブリ並みの生命力してるから、死にかけなのに暴れ回って、とどめを刺すのにだいぶ苦労したよ。何回か死にそうになって危ない場面もあったけど、なんとか倒せた。終わりよければすべてよしだな』


 早坂には強がってみせたが、実際ドラゴンを倒したという報告を聞くと驚きが上回る。

 ただただ感心して、うまく言葉を紡げない。


「そ、そうか、すごいな陽介……」

『何を言ってんだ。兄貴がドラゴンの謎を解明してくれなきゃ倒せなかったんだぞ。てっきり火に強いと思い込んでいたドラゴンに火で攻撃しようなんて、兄貴がいなかったら絶対考えもしなかった。すげぇのは兄貴だよ』

「あれは……早坂が考えたんだ。俺は何もしていない」


 スマホから陽介の笑い声が響く。


『兄貴がいなかったら、そのハヤサカが協力してくれることもなかったんだろ。それはもう、兄貴のおかげと言っていい』

「いや、早坂が協力してくれたのは、陽介のことが――」

『オレさ、時々思うんだ。もし転生したのが兄貴で、オレが生き残ってたらどうなってたんだろうって』


 俺も、同じことを何度も考えていた。俺と陽介の生死をわけたのは、ただの運だ。運命とか宿命とか、そんな大げさなものではない。

 ほんのちょっとした偶然が、二つの道を選ばせた。何かが違っていたら、入れ替わっていてもおかしくなかったはずだ。


『もし兄貴が勇者になっていても、ドラゴンでつまずいていたと思うんだ。そんとき、オレに助けを求められても、きっと兄貴みたいにうまくやれなかった』

「そんなことないだろ」

『あるさ。だって、オレってバカだもん。何をすりゃいいのか見当もつかなかったと思う』


 それは、俺だっていっしょだ。早坂がいなければ、もっと早い段階でサジを投げていたことだろう。

 あのとき図書室に行かなかったら、きっとドラゴンを倒すことはできなかった。


『ホントのこと言うと、なんでオレだけ死ななきゃいけないんだって、悪くもない兄貴を恨んだこともあったんだ。我慢して平気なツラしてたけど、兄貴と入れ替わりたいって本気で思った。勇者なんて、別にやりたくもなかったしさ。でも、いまになって思うよ。兄貴が死ななくてよかった。兄貴がそっちで生きているから、俺はこっちでやっていける』


「陽介……」

『あっ、そろそろ通信が切れる。早くドラゴン退治の報告がしたくて、急いでかけたもんだから、魔力マナの練り込みが足らないんだ。すぐ尽きちまう』


 かすかなノイズが混じり出し、弟の声が遠ざかる。

 俺は口を開くが、思うような言葉が出てこない。ただ熱っぽい吐息だけが、音もなくもれていく。


『じゃあな、兄貴。また電話する――』


 通話が切れて、部屋に早朝の静けさが落ちていく。

 俺は短く息をついて、スマホを握りしめたまま、ぼんやりと座り込んでいた。視線の先には、空っぽのベッドがある。使用者を失い、もう役目を果たすことのないベッドは、どこかさびしげなたたずまいをしていた。


 ふいに、ツンと鼻の奥を刺激する淡い痛みが駆け上ってきた。


「何が、だ……。やっぱり時間のズレがあるんだな。弟のくせに、兄貴の俺より、よっぽど大人になってる」


 事故から一カ月以上たち、ようやく日常の端に舞い戻ろうとしていた。何もかも元通りとはいかないが、悲しみに包まれていた家族も生活の安寧に踏み出そうとしている。


 痛む右足をさすり、強く唇を噛む。自分のことで手いっぱいだった時期に、終わりが訪れたのだろう。

 俺は空っぽのベッドを見ながら、弟を想い、はじめて泣いた。


※※※


 足を引きずる遅々とした歩みで登校中、いきなり担いでいたカバンを奪われた。

 高校生にもなって、いじめか――と、うんざりしながら振り返ると、つい最近知り合ったメガネの後輩が笑顔を浮かべて立っていた。


「おはようございます、ゼンパイ。カバン持ちます」

「早坂、ちょうどよかった。会いたかったんだ」


 ビクッと肩を震わせた早坂は、「えっ?!」と普段の慎ましい印象からはかけ離れた、にごった声をもらす。

 微妙にメガネがズレて、それを両手で整えている間も、動揺で目線が激しく飛び回っていた。何か勘違いするようなことを言ってしまったのか、少し申し訳ない気持ちになる。


「どうしたんだ?」

「いえ……」と、含みのある返答のあと、早坂はおずおずと俺の右側に回った。


 親切な彼女は、不自由な右足の支えになってくれようとしている。ありがたい話だが、さすがに多数の生徒が行き交う通学路で、くっつき介助されるのは気恥ずかしい。苦笑と身振りでやんわり断り、痛みをこらえて大きく踏み出した。

 どことなく不満げな表情で、早坂は歩調を合わせて隣に並ぶ。


「今朝、陽介から連絡があった。ドラゴンを無事倒したってさ」

「本当ですか?!」

「ああ、かなり苦労したみたいだけど、早坂の考察がハマったって言ってた。マジでありがとうな、早坂のおかげだ」


 早坂はレンズの奥で目を丸くしていた。事実であるのに、何やら意外そうな顔をしている。

 まったく役に立たなかった俺としては、早坂の反応が少し歯がゆい。


「わたしなんて、何も……」

「謙遜しないでくれよ。役立たずがよけい惨めになる」


 冗談めかして言ったつもりが、思いのほか声に後ろめたさが乗っかってしまった。早坂のハッとした表情を、目の端にとらえる。

 俺は気まずい思いを誤魔化すために、無理に笑顔を作って話を変えた。


「陽介のヤツ、すごい喜んでたぞ。きっと早坂に感謝してる。よかったな」

「――よかった?」


 再び意外そうな顔をした早坂は、少し間を置いて、メガネを支えながら眉間にしわをよせていく。

 またよけいなことを言ってしまったのかと、俺はハラハラしながら様子をうかがう。彼女はこれまで見せたことのない、ツンと尖った顔をしていた。


「ずっと、気になってたんですけど、ゼンパイ勘違いしてませんか」


 返しの判断に悩み、俺は口ごもる。

 すねた早坂は一歩分踏み出して、少し演技っぽい苛立ちの気配をまいて先を行く。


「わたしがセンパイに声をかけたのは、倉本くんのお兄さんだからって思ってませんか」

「えっ、違うの?」

「因果関係が逆です。倉本くんより先に、センパイのこと知ってたんですよ」

「えっ、ええっ?!」


 俺は困惑して、戸惑いうろたえた。慌てて追いすがろうした結果、ズキンと右足が痛む。


「案の定おぼえてないんですね。入学式の日、わたし達会ってるんですよ。間違って二年の校舎に入っちゃったわたしを、センパイが一年の教室まで案内してくれた。クラスメイトにセンパイの弟がいることを知ったのは、もう少しあとになってからです」


 まったくおぼえていなかった。どれだけ掘り返しても、早坂の顔は記憶のどこにも埋まっていない。

 誰かと間違っているのでは?――とも考えたが、俺と違って聡明な早坂が、記憶違いを起こすとは思えない。


「そ、そうだったのか……」

「やっぱり、センパイと倉本くんは兄弟ですね。よく似ている。人の顔をおぼえないところなんて、そっくりです」


 そう言われると、ぐうの音も出ない。

 俺は苦笑して、いい加減な記憶力を取り繕う。事故のせいかもしれないと、頭のなかで自己弁護したりもした。


「あれっ、そうなると、早坂が俺を助けてくれたのは、俺だったからか?」


 わずかに首をかしげて振り返った早坂の横顔は、得意げな笑みが咲いていた。


「さあ、どうでしょうね」


 俺は肩をすくめて、足を速める。右足は痛むが、我慢して踏み込んだ。

 事故の影響は、そう簡単になくなってはくれない。傷が癒えるには、きっと時間はかかるだろう。それでも止まるわけにはいかなかった。新しい日常は、その先にあるのだから。


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