第15話  現役アスリート

 今年の新人達4人がこの夏山訓練で先輩らを驚かせ喜ばせた事があった。

 実は毎年、この訓練と実践が混在し始めるこの夏山では、言葉に出さなくても、あまりの過酷さに新人達らの心が折れかけになる様子が見て取れて、先輩連中を心配させる。

 何故なら、当の「先輩」達である自分達も皆そういう思いをして通って来た道だから、その様子、その状況、その表情の意味するものが手に取るようにわかるのだ。

 50キロのザックを背負うと言う事は、本当に生半可な事ではない。普段からかなりハードに鍛えていないと持ち上げる事さえままならない。普通の女性なら30キロだって持ち上げるどころか、足で押したって動かせない人も大勢いる。しかし、現実の遭難現場になれば遭難者の体重はそれどころの話ではない。人の体重で言えば、50キロは重めではなく軽めの部類である。だから想定としての50キロという重量は、なかなかではあるが、実はまだまだ最低限の条件と言える。


 今年は新人全員が現役アスリートで、皆身体がほぼ出来上がった状態で入隊してきた。しかも、面白いことに、体力、馬力だけでなく、山岳警備隊とは切っても切り離せないクライミングに関して言えば、4人とも例年と比べればケタ外れのレベルで上る事ができた。

 そもそもクライミングでは手足に掛かる負荷が少ないに越した事はなく、体重の軽い方が圧倒的有利だが、垂直な壁を登る場合、体重が軽いだけではなく、自分の体重を支えられる四肢の力、特に腕と指の筋力が要求される。その点、射撃のオリンピック代表候補だった赤木と、剣道で全国大会に常連出場していた谷川は競技の特性上、手足の指先の感覚が抜群に良かった。

 特に赤木は制服を着ていれば四人の中で最も華奢に見えるくらいの細身であったが、伊達にオリンピック代表候補に名が挙がったわけではない。

 射撃はオリンピックでは照準の精度を競う競技で、一見他の競技より運動量が少ないように見えるが、実は射撃の時に身体に伝わる反動は数百キロから1トン近くに及ぶ。その反動を身体で吸収するには、全身に柔軟な弾力性のある筋肉の鎧をまとっていなくてはならない。その為赤木は持久力に富んだしなやかな筋肉を持っており、シューティングという競技の特性上、足の裏の柔軟性と踏ん張りを追求してきている為、手足の指の感覚がとても繊細だった。靴を履いていても岩を足の指で岩の形状を把握し、しっかりと掴めるようだった。体重がそこまで重くないせいか、ロープもクライミングもおおよそ重さを感じさせることなくやってのけた。しかし、重い負荷をかけてのトレーニングには慣れていない分、50キロ装備を背負ってとなると、その負荷の重さになかなか苦戦しているようではあったが、貫徹のテツらしく、チャラ男っぽい見た目とは裏腹に、誰もが予想外の根性を見せていた。


 谷川も子供の頃からずっと剣の道に生きて来ただけあり、見せる筋肉を作りたがる男性達には見逃されがちな手指や手首を日常的に鍛えてきた。剣道の打ち込みは手首のスナップも大切だが、その際の指への負荷はとても大きい。そしてずっと素足で鍛錬してきた谷川もまた足の裏の強さと足指の感覚が研ぎ澄まされていた。また、剣道の動きは振りかぶりから踏み込みと同時の打ち込み、打ったと同時に構えに戻るという、一瞬の間に手、体、足を同時に発動する鍛錬を延々反覆してきた谷川は四肢の連動性がとても良かった。通常、クライミングの場合手を伸ばしている最中は足を止め、足を動かしている間は手は掴んでいるだけという、どこか一か所に集中すれば他は停止状態になりがちだが、谷川はロープクライミングでも素手でのクライミングでも、全身の筋肉を駆使して、まるで壁を伝うトカゲのように対角線上の手足を同時に使って淀みない登り方をした。それは荷物を背負ったままでも変わらず、それはまるで山道の凸凹にも大きな影響を受けない全輪駆動の車を思わせる安定感だった。

 四人の中でクライミング訓練に一番苦戦していたのは力自慢の須藤だった。体力も馬力も、ラグビーという球技で鍛えられた指の力も器用さも申し分なかった。そして、普段150キロのベンチプレスを持ち上げる須藤にとって50キロを「背負う」事はそんなに苦痛な事ではない。だがそれにプラス85キロの自重、それを足元の不安定な壁面で手足だけで支えるという状況は、背中を大地という揺るがないモノに支えられてのベンチプレスとは全くワケが違っていた。もちろん持ち前の馬力でガシガシと力強くよじ登ってはいたが、自分の重さと上半身の筋肉のデカさが、自分の中で少なからず邪魔に感じられた。

 確かにムキムキ隆起した筋肉は須藤の自慢で見た目重視な面もあったが、「見せる為の筋肉」ばかりを育んで来たわけではなく、ラグビーという競技で有用な筋力を作る為、全身のストレッチもちゃんと取り入れ、下半身もしっかり強化して来た。むしろ筋肉を育てる事に関して須藤は誰よりも真面目に取り組み、筋肉を増強してきていた。何をいつ食べ、どんなトレーニングをすればどこに筋肉がつけられるか、自らの肉体を実験体として誰よりもよく研究していた。柔軟性が足りないわけではないが、壁面を登る時に大胸筋、早い話が自分の分厚すぎる胸板や肩周りの筋肉の物理的な大きさが邪魔に感じられた。垂直に近い壁面やロープを登っている時は特に、須藤は自分の身体と壁面が鉄の鎧で隔てられているかのような、もどかしい不都合さを感じた。

 彼は今分岐点に立たされていた。「登る」という事に特化すれば、もう少し肩回りや胸板の厚みがない方がもっと都合がいいような気がした。筋肉を増強する事に真面目に向き合ってきた須藤は、最近の筋トレでは以前と少し負荷の掛け方を変え始めていた。負荷を少しだけ軽めにして回数を増やすやり方へと切り替えつつあった。それにしても今ある体力と馬力で訓練を乗り切るには十分ではあったが、誰に言われるでもなく、自分で変化の必要性を感じて早速肉体改造に取り組む姿は、暑苦しい見た目と違い、若者らしい爽やかさに満ち、先輩達を感心させた。

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