19 日魚子、鍵を返す。

 爽がマンションの部屋を解約したことを知ったのは、東京で初雪が舞った十二月のはじめだった。

 その日、日魚子が朝から部屋の掃除をしていると、隣室がなにやら騒がしくなった。誰かが土足で出入りする気配に、物が運び出される音が続く。いぶかしんで、ドアを細くあけると、ちょうど目の前を見覚えのあるテレビラックが通過していった。

 はい階段気をつけてー、オッケー、声をかけあいながら、ナマケモノマークの引っ越し業者の作業員が爽の部屋から家具や電化製品を運び出していく。ドアノブを握ったまま、日魚子は固まった。いったい何が起きている?

「そうちゃん」

 作業員に何かを訊かれて答えている爽を見つけ、日魚子はパーカーの裾を引いた。

「……なにやってるの?」

「なにって、引っ越し」

「聞いてない」

「言ってないから」

 怒気をはらんだ日魚子の声に、爽は淡白に返す。

 奥飛騨温泉郷から帰って以来、爽の部屋にはほとんどよりついていなかった。爽に大地とのことをあれこれ訊かれるのがわずらわしかったのだ。日魚子自身も整理できていない気持ちをどう爽に説明すればよいのだろう。けれど、そのあいだに爽が引っ越しの準備をしていたなんて知らなかった。

「なんで? アパートの更新、まだだよね?」

 日魚子と爽は同時期に入居したため、更新時期は日魚子も知っている。

 爽は面倒そうに視線をそらした。

「べつになんだっていいだろ」

「よくないよ」

「コンロが二つじゃなくて三つついている部屋に引っ越したくなったんだよ」

「ばかじゃないの?」

 爽の言葉の適当さに、日魚子の口調はついきつくなる。

 部屋のまえでいきなり言い合いをはじめた男女に、引っ越し業者のおにいさんたちが声をかけづらそうにしている。ああ痴情のもつれか? 女のほうが重いやつ? ――そんな心の声が聞こえきそうだ。でも、そうじゃない。

「あのー、すべて運び出したので、いちおう確認を」

 そわそわと声をかけたおにいさんに、「ああ、はい」と爽がこたえる。

 部屋に一度引っ込んだあと、おにいさんが差し出した書類にサインを書く。

「では、引っ越し先に向かいますので」

「あーはい。俺も追っかけます」

 おにいさんたちが玄関口に置いていた板やブルーの養生シートを手際よく剥がして、引き上げる。マンションの駐車場にはナマケモノマークのトラックが止まっていた。爽の部屋にあった家電製品や家具が中に積み込まれている。さほど物が多くない男なので、あっというまに部屋はもぬけのからになった。

 状況のめまぐるしさについていけない。

 何が起きている。何が起きているんだ。

「そうちゃん、待って。待ってよ!」

 タクシーを呼ぶためか、スマホを取りだした爽にすがりつく。

「なんなの? わけがわからないよ。引っ越しってなに? ドッキリでもやってるの?」

「わけがわからないのはひなのほうだろ」

 端末をすばやく操作しながら、爽が言う。

「俺がいつ、どこに引っ越したってひなには関係ないだろ。なんで事前に相談しなくちゃならないんだよ。家族でもないのに」

「それは……そうだけど」

「あ、ひなに渡してたこの部屋の鍵あったよな。あれ返して。管理会社に返さないといけないから」

 電話をかけつつ手を差し出され、日魚子は眉根を寄せる。

 返す? 爽の部屋の鍵を?

 いやだよ、とちいさくつぶやく日魚子のまえで、ちょうどタクシー会社に電話がつながったらしい。「タクシー、一台手配お願いします。住所は――」と続ける爽の手からスマホを抜き取り、日魚子は通話終了ボタンを押した。案の定、爽が不快そうに顔をしかめる。

「返せよ」

「送るよ。引っ越し先ってどこ?」

「頼んでない」

「じゃあ鍵も返さない」

 スマホを握りしめて睨むと、「餓鬼かよ」と爽が頬をゆがめる。

「お世話になった深木くんを送ってあげるって言ってるんだよ。素直に乗ったら? タクシー代浮くでしょ」

 混乱していた。感情が千々に乱れて、いったい何から考えればいいのかわからない。とりあえず腹が立っている。こんなだまし討ちみたいに去る爽に対して。こんなのはルール違反だ。ルール? 爽と日魚子のあいだに、恋人のルールも、家族のルールも、友だちのルールすら何もないはずなのに、そんなことを思ってしまう。約束がちがう。約束なんて、なにも交わしていないだろう。でも約束がちがう。

 スマホを人質にして一度自分の部屋に戻り、爽の部屋の鍵と車のキーをつかむ。

 引き留めなければ、と思った。爽を引き留めなければ、絶対。

 ドアをひらくと、爽は不機嫌そうに廊下の壁に背を預けていた。爽の部屋の鍵をポケットに入れ、人質にしていたスマホは返してやる。指で車のキーを回した。

「行くよ」


 エンジンをかけると勝手に流れはじめたラジオを切る。

 爽がカーナビに入れた住所は、ここから車で三十分ほどのちいさな街だった。会社からも電車で三十分はかからない立地だが、今のマンションの最寄り駅とは線がちがう。引っ越したあとはまず会わないといっていい場所だ。そんな街を選ぶあたりにも、爽のかたくなな意志を感じる。

 アクセルを踏んで車を発進させる。

 助手席に座る爽を日魚子はちらりと盗み見た。外出用のバスケットから、きなこを出している。運転中だが、きなこに関していえば、爽の腕のなかで騒ぐこともなく静かに丸まっている。

 ――爽は、日魚子から離れたいのだろうか。

 離れると決めたのだろうか。

 これまで日魚子が何度みっともない失敗をしても、ドン引いた友人たちが次々離れていっても、爽だけは日魚子のとなりにいてくれた。罵ったり、文句を言ったりしながらも、日魚子から離れていくことはなかった。それがわたしたちのルールで約束だと思っていた。

 ……なぜ今になって離れていく?

 なにか、言わなければ。爽を引っ越し先に運ぶだけで終わってしまう。

「はじめさんと何か話したの?」

 思いつくのはそれだった。

 爽と大地はおなじ部署で働く同僚だ。日魚子と爽が隠していた関係について、大地から言及があったと考えるほうが自然である。あれから大地とは会っていない。だから、大地と爽が何を話したかは日魚子にはわからない。

「はじめさんに何か言われたの?」

「大地はひとのことに口出ししたりしない」

 窓ガラスの外に向けていた視線を爽は手元に戻した。

「わかってるだろ、ひなも」

「じゃあ、どうして?」

 だめだ。さっきとおなじ言い合いを繰り返している。

 赤信号で前方が詰まっている。長い列の後ろにのろのろと日魚子の車もつく。

「わたしのせい?」

 こごった息を吐き出すように日魚子はつぶやいた。

「だから、離れていくの?」

 車内の空気がしん、と張り詰めた。

 ハンドルに腕をもたせて、日魚子は爽を見つめる。爽も日魚子を見ていた。

「もうもとにはもどれないの……?」

 約束。ルール。日魚子と爽の。

 ――絶対、互いに恋に落ちないこと。

 それが暗黙のルールだった。日魚子が爽に恋に落ちないから、爽が日魚子を恋に落とさないから、ずっととなりにいられた。旅館の倉庫で、爽は日魚子にキスをしたかったからしたのだと言っていた。まちがえてないと言われて、日魚子は心底――……心底、ほっとした。ほっとしたけれど、不安にもなった。爽は日魚子がすきなのだろうか。それはとても、とてもいやなことだった。きづきたくない。考えたくない。日魚子は爽がすきなのだろうか。あってはならない、そんなこと。

 しばらく爽から離れていたのは、爽がきらいになったからではない。いつものように、もとに戻そうとしていたのだ。ちかづいては遠ざかり、遠ざかってはちかづく、だけど絶対に交差はしない。二十年以上変わることがなかった、わたしとあなたの安全な距離。でもあなたにはもう戻るつもりはないのか。

「ひなは」

 ふいに爽が口をひらいた。

「菫にはぜんぜん似てない」

 思わぬことを言われて、日魚子は瞬きをする。

 爽はふしぎな表情をしていた。機嫌が悪いのかと思えば、やさしげである。きなこに向けているのとおなじ、あたたかい凪にも似た表情だった。

「重なったこと、一度もない。ひながどういう風に思ってても」

 わからない。なぜ爽がこんな顔をするのか。

「青信号」

 爽に促されて、信号が変わっていたことにきづく。動き出した車の列に沿ってアクセルを踏む。

「大地と一度ちゃんと話せよ。別れるにしても、あの終わり方は無い」

 ごろごろと咽喉を鳴らすきなこを抱え上げ、爽が言った。

「……そうちゃんには関係ないよ」

「関係はないけど」

「ねえ、どうしてそうちゃんが引っ越さなくちゃならないの?」

 出ていけと言えばいいだろう。日魚子のほうに。

「コンロが三つほしかったからだよ」

 目を伏せて、爽はきなこの頭を撫でた。


 新しい部屋の鍵はもらえなかった。

 あとは話らしい話もできないまま車は新居にたどりつき、日魚子は約束どおり前の部屋の鍵を爽に差し出した。手から鍵が離れるとき、刺すように胸が痛んだ。思わずぎゅっと鍵を握りしめると、「返せってば」と爽が呆れた顔をする。

 このまま鍵を持って逃げたかった。日魚子が急に鬼ごっことかをはじめたら、爽は日魚子を追いかけて捕まえてくれるだろうか。しばらく鍵を握り込んだままでいたけれど、やがて日魚子はあきらめて、爽の手のうえに鍵を落とした。

 爽は新居のほうで荷物整理をするらしい。最後まで懐かなかったきなこに一方的に握手をして別れ、日魚子はカーナビの設定をホームに直す。

 マンションに戻る頃にはくたくたになっていた。

 嵐のように爽はいなくなってしまった。たった一日で。

 わたしはこれからどうやって生きたらいいんだろう。途方に暮れてしまう。

 爽が言うように大地に連絡を取ればよいのか? 大地と何を話す? 離れた気持ちは戻らないともうわかっているのに。すべてが無意味に感じられた。

 エレベーターは今日に限って点検中だった。重い足を引きずるように階段をのぼっていると、爽の部屋のまえに人影が見えた。はじめ、日魚子は爽が戻ってきたのかと思った。さっき爽を新居まで送っていったのは日魚子なのに、今日のことはぜんぶたちの悪い冗談とかで、実は爽は隣室から引っ越してなんかいなくて、ドアをあけたらいつものようにふたりぶんの夕ごはんを作っているんじゃないかって。

「そうちゃ……そうちゃん!」

 足早に階段をのぼりきり、廊下を駆ける。

 跳ねるようにドアのまえから立ち上がったのは、爽よりもずっと小柄な影。

 土屋美波だった。

「芹澤さん?」

 きょとんとした美波を日魚子は呆然と見つめる。爽ではなかったという落胆と、なぜこの子がこんな場所にという驚きがないまぜになる。

「ここって、爽くんの部屋だよね? 旅館で書いてたマンションここだったから。芹澤さんも爽くんに用?」

「あ、ううん……」

 美波は爽の隣室に日魚子が住んでいることを知らないらしい。

 首を振った日魚子をいぶかしげに見つめてくるので、「となり、わたしの部屋で」と短く説明する。ぱちくりと瞬きをしたあと、美波は急にわらいだした。

「ああ、なに? ふたりってほんとうにそういう関係だったの?」

「そういう……って?」

「それで大地くんともつきあってるのか。思ったよりも大胆だね、芹澤さん」

 勝手になにかを理解したつもりになったらしく、美波は腕を組んで爽の部屋のドアに寄りかかった。なんだか知っていた雰囲気とちがう、と思う。うさぎがかぶりものを捨てて、急に肉食獣になったみたいだった。

「そうちゃ……深木くんならもういないよ。引っ越した」

「あ、そうなんだ」

 あっさり流して、美波は手にしていた紙袋に目を落とす。

「爽くんが部屋に置き忘れたものを返しにきたんだけど。どうするかな。芹澤さんに預けていい?」

「……自分で深木くんに渡して」

 預けられても日魚子のほうが困る。

 えー、と愛らしく首を傾げて、美波は紙袋を持て余すそぶりをする。

「引っ越したってことは、芹澤さん、爽くんと別れたの?」

「わかれてないよ」

「なら、預かってよ。郵送とか面倒だし」

「わたしとそうちゃんははじめからなんでもないから!」

 苛立っていた。

 爽に急に引っ越しなんかされて、自分から言い出したことだけど新居まで車で送って、大切な休日なのにもうくたくただ。爽が帰ってきたのかと思ったら美波だった。最悪だ。

「なんでもない、ただの他人だよ。生まれたときからずっとただの他人だよ!」

 日魚子の突然の剣幕に、美波が呆けた顔をする。

「なんで急に怒り出してるんだか、わけわかんないんだけど」

 ドアから背を離し、美波は日魚子をのぞきこむようにした。

「芹澤さん、爽くんがすきなんじゃないの?」

「……やめて」

 疲れと怒りでこめかみがぎゅっと痛んだ。

 頭が痛い。つかれた。頭が痛い。

「やめて、やめてやめて、やめて!!! もううるさい! みんなうるさいっ!!!」

 大地も、美波も、なぜみんなして同じことを言う? 同じことを問う?

 どうしてわからない? わかってくれないのだ?

「恋に落ちたら! そうちゃんもいなくなっちゃう! いなくなっちゃうでしょ!!」

 なんで、こんな。

 こんな。恋はまがまがしい。

 ほんとうに落ちることなんて絶対にできない。

 母は恋に落ちて結婚したはずの父を簡単に裏切った。日魚子とのあいだにあったはずの愛も壊した。恋すること、愛し愛されること。きれいじゃない、尊くもない、ぜんぶ、ぜんぶ軽かった。

 ナナカマドの赤い実。雪の重みに耐えかねた枝が跳ね返り、さらさらと雪がこぼれ落ちる。

 あんな――……はかないもの。

「芹澤さんって……」

 日魚子の剣幕にのまれたようすでいた美波がふいに薄くわらった。

 悪意のこもった笑みを口元にたたえて、ゆるくウェーブがかった髪を耳にかける。

だね?」

 涙が滲んだ視線を跳ね上げる。

 美波は憐れみをたっぷりこめた眼差しで日魚子を見つめている。

「芹澤さんがどんな人生送ってきたかなんて興味ないけど、ずっと、ずーっと誰かにつけられた傷をひきずって、ほんとう、だね?」

 かわいそう。かわいそうな、九歳のひな。

 ナナカマドの下にうずくまって、そこから抜け出せないでいる。

 大事に傷を抱えて一ミリも動かない。だれも信じない。愛さない。

 ひとりでずっと丸まっている。かわいそうな、かわいそうな、九歳のひな。

 そしてきづいた。

 あの子をたすけてこなかったのは、だれでもない、わたしだ。

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