18 爽、弁明する。

 奥飛騨温泉郷から帰ったあと、日魚子が爽の部屋に訪ねてきて言った。

 ――はじめさんにぜんぶ知られてしまった。

「ぜんぶって、どこまでだよ」

 眉をひそめ、爽は訊き返す。

 日魚子はいつものように靴を脱いで爽の部屋に上がらない。ドアをひらいた爽のまえで、「ぜんぶだよ」と低い声で言った。

「そうちゃんとわたしが同じ街で生まれた幼馴染だってこと。夏に一緒に帰省していたこと。そうちゃんがこのマンションに……わたしの部屋のとなりに住んでいるってこと」

「なんで」

 ……日魚子が大地に話したのか?

 胡乱げな目をした爽に、日魚子は首を振った。

「台風の日に、そうちゃんと森也さんをエントランスで見たって言ってた」

 あの晩か、と爽は舌打ちする。

 余計な被害だけ残しやがってあのクズ男。百害あって一利もなかった。

 けれど、今は森也のことよりも、日魚子の投げやりな言い方のほうが気になった。

「それで」

 爽は慎重な声を出す。

「大地はなんだって?」

「わかんない」

「わからないってなんだよ」

「別れるかも。でもそうちゃんには関係ないでしょ」

 日魚子は視線をそらして、部屋に帰りたがるそぶりをする。

 爽が大地と同じ部署で働く同僚だから報告に来ただけで、相談する気は毛頭ないらしい。部屋にも入らず、丁重に一線を引いている。しらじらしい。

 ふたりがこじれた理由なら、どうしたって想像がついた。ただ同郷の幼馴染だとばれただけで、大地が別れを切り出すわけがない。そんな狭量なやつじゃない。

 きっとばれたのだ。あの日、旅館の倉庫で起きたこと。

 結局何にも至らなかったけれど、あの日、はじめて爽は日魚子に対して明確に自分の気持ちを口にした。

 ――熱出した晩も、俺まちがえてない。日魚子が欲しかったからキスした。

 なぜそんなことを言ってしまったんだろう。今となっては、もうよくわからない。……どうだろう、ほんとうはわかっている気もする。爽はずっと終わりにしたかった。この関係を続けるのが苦しかったのだ。だから、日魚子がドン引いて、確実に去っていきそうなことをぶちまけたのに、なぜか日魚子はいなくならなかった。自分の母親と不倫した男の息子が言ってるんだ。きもちわるいって、ありえないって言えばいいのに。日魚子の本心はわからないままだ。

 たぶん大地は、美波とおなじように日魚子と爽の関係をとりちがえたのだろう。

 ほんとうは爽が一方的に日魚子を想っているだけなのに。

「よくないだろ」

 こめかみを押して、爽は息をつく。

「大地ともう一度話してみろよ。あいつは前の男たちとちがって、ちゃんと話せば、聞くだろ」

「いいよもう」

「ひな」

「もういい。はじめからわたしがだめだったんだよ」

 日魚子は始終投げやりである。

 ひな、と苛立った声を出すと、「ねえ、そうちゃん」と日魚子が急に口をひらいた。不意打ちでかちあった視線が透明で、吸い込まれそうになる。

「わたしの顔、おかあさんに似ているでしょう?」

 思いもよらない言葉に、爽は一瞬反応を遅らせた。

「……似てなくは、ないけど」

「昔からこわかった。わたしの顔、おかあさんに似てる。どんどん、おかあさんとそっくりになっちゃう。それがこわくて、認めたくなくて、わたしはおかあさんみたいにはならないって……運命のひとに出会って、恋して、そのひとだけを大事にするんだって思って……でもいつもうまくいかなくて、わたしはだめで、でも心の奥ではそういうのはぜんぶ、おかあさんのせいだって思ってて、おかあさんのせいでわたしはゆがんでだめになったんだって思っていて」

「ひな」

「でもちがくて、おかあさんじゃなくて、ほんとうはわたしがだめなの。今回もそう。わたしがぜんぶ自分でめちゃくちゃにしたんだよ」

 壊れた蛇口みたいにまくし立てたあと、日魚子はまた急に黙り込んで、「帰る」と言った。ちがう、おまえはわるくない、と爽は言えなかった。日魚子もよりにもよって爽には慰められたくないだろう。

 ――これで満足か?

 ひとりになった部屋で、爽はソファに沈み込む。端で寝ていたきなこがちいさく抗議の声を上げたので、腹のうえに抱き上げた。老いて、昔より毛艶がわるくなった老猫をいつものように撫ぜる。

 大地と日魚子はめちゃくちゃになって、日魚子はまた彼氏をなくした。

 満足か、これで? ……まんぞく。まんぞくだよ。ずっとあいつら壊れちゃえばいいのにって爽は内心思っていた。あっけなさすぎてむしろ肩透かしを食らったくらい。ぜんぶ壊れてせいせいした。せいせいしたな。

 いつの間にか止まっていた手に、きなこがもっと撫でろというように頭を押しつけてくる。眉をひらいて、爽はすこしわらった。

「あー。なんでこうなるかな……」

 重い息を吐きだす。

 そして充電中だったスマホを取ると、大地の番号を呼び出した。


 指定されたのは、大地のアパートだった。

 爽は友人がいないし、同僚と親しくする性格でもないので、男の部屋に遊びにいったことなどほとんどない。女の部屋なら月イチで上がり込んでいるけど。

 オートロック機能のないアパートの呼び鈴を押すと、「おー」といつものテンションで大地がドアをあけた。長袖のトレーナーにスウェットといういかにも部屋着というかんじで、髪もワックスで固めていない。……なんとなくドアをあけるなり殴り飛ばされてもおかしくないと思っていたので、気が抜けた。

「はい、これ」

 靴を脱いで部屋に上がると、手にしていたビニール袋を大地に突き出す。

「え、なに?」

「つまみと酒」

「気が利くじゃん」

 からりとわらって、大地がこたつの天板に袋を置く。

 こたつ布団のなかで寝ていたコーギーが目を覚まして、興奮したようすで大地の足にまとわりつく。確か日魚子が言っていた。若いコーギーのオスで、名前はキャラメル。「はいはい、おまえはこっちな」と大地は骨のかたちのガムをキャラメルに与え、ビニール袋からビールをふたつ出した。

「荷物そこらへん適当に置いて。あ、深木、からすみって食える?」

「食えるけど」

「よかった。こないだ、ばあちゃんに持たされたんだけど、ひとりで大量に食べられるもんでもないしさー」

 冷蔵庫からからすみが入ったタッパーを取り出すと、大地はこたつに入った。

 大地のテンションがまるで会社と変わらないせいで、爽は一瞬会話の糸口を見失う。日魚子は大地はぜんぶ知っていると言っていた。日魚子と爽が同郷の幼馴染であることも、同じマンションのとなりの部屋に住んでいることも、ふたりで新潟に帰省したことも、ぜんぶ。……それで?と爽はいぶかしむ。ぜんぶ知って、今どういう風に考えている? そこが大事で、わからない。

「で? 深木、なんか俺に話したいことがあるんだろ?」

 ビールのプルタブを開けつつ、大地が尋ねた。

「俺に訊きたいことあるの、大地のほうなんじゃないの」

「言いたいことはすこしはあるけど、深木のほうが話したそうだし、お先にどうぞ」

「――日魚子のこと」

 うだうだ腹の探り合いをしていても時間の無駄だ。

 爽はここに来た理由でもある女の名を口にした。

「別れるの?」

「たぶんね」

「なんで?」

 間髪入れずに尋ねた爽に、大地は軽く目を瞠らせた。

「それは、深木に説明しないといけない?」

「……日魚子がどう説明をしたかは知らないけど、確かにあいつと俺は入社前からの知り合いだよ」

 プルタブをあけたままのビール缶を横に置き、爽は言った。

「ふたりとも、いろいろあって親とうまくいってなかった。それで、大学進学と同時にこっちに出て、なりゆきで同じマンションの隣室を借りた。会社でそういう事情を伏せておこうって言ったのは俺のほう。昔のこととか故郷のこととか、会社のやつらに詮索されるのがわずらわしかったから。――それだけだよ。あいつと俺の関係はほんとうにそれだけ」

「っていう説明をしに、深木はここにきたの?」

 大地の言い方に微妙なものを感じたが、「うん」とうなずく。

 説明をしにきた。あるいは弁明を。

 日魚子は説明が下手だ。あいつの言葉を鵜呑みにしないでほしい。まだ見限らないでやってほしい。

「深木がそう言うならそうだって、俺は思うことにするけど」

 空になったらしいビール缶を、大地はテーブルに置いた。

「でも深木は、あの子のことが好きだろ」

 まっすぐ放たれた言葉に、声を失する。

 なぜ? どうして? 大地は爽のことを何も知らない。爽が抱える過去や背景をなにひとつ知らない。なぜ、いまの短いやりとりからそういう結論に達する?

「それくらいわかるよ」

 爽の間抜けた顔がおかしかったのか、大地は苦笑した。

「だって、ぜんぜんらしくないもん深木。ひとの事情に、ましてや男女の事情に横から首を突っ込んだりしないだろ、普段。休日に連絡まで寄越して、なにごとだろうと思った。それではじめるのが、自分じゃなくて日魚子の弁明なんだな」

 骨ガムに飽きて鼻を鳴らしたキャラメルを抱え上げ、「深木はさ」と大地が言った。

「ひとは自分のことなんかわかってないって思ってるだろ。ぜんぶ隠せてるって。確かに聞かないとなにもわからないし、実際知らないことも多いけど、でも深木が思う以上にわかってたりもするよ。もうすこし他人を信じていいんじゃない?」

 出会った頃から、爽は大地が苦手だった。

 いいやつ。ただのいいやつ。天然培養のいいやつ。

 こういうやつがごくまれにこの世には交じっていたりする。こういうやつは無敵だ。

 ここで罵声を浴びせたり殴るようなやつだったら楽だったのに。

 楽、だったのになあ……。

「俺がひなをすきなのはほんとう」

 爽は息を吐きだした。

「いつから?」

「ずっと。ずっと……子どもの頃から。ずっとだよ」

 物心ついた頃には、もうあの子がすきだった。

 ずっと。そう、ずっと。あの子のことだけがすきだった。

 きづけば、なぜか涙が頬を伝っていた。なんでだ。なんでここで泣く? 爽は誰のまえでも絶対に泣いたことなんかなかったのに。

「でも、一方的に俺が想ってただけ。あいつが俺に振り向いたことなんか一度もない。ただの一度もないんだ。うそじゃない」

 なんだこれ、ほんとなんなんだこれ。

 泣きながら男にぶちまけるとかどんだけみっともないんだ。

 もう絶対やらない。二度とやらない。勘弁してくれ。

 顔をしかめて涙を拭うと、爽は大地に向き直った。

「だから、もう一度日魚子と話をしてやって。たのむ」

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