夕空の記憶

 朱里と矢部が席に戻った時には定時を過ぎていた。通りすがりに社員達が顔を上げたが、矢部が平然とした顔でいるのを見るとがっかりしたように視線を下げた。朱里に叱られてもっと落ち込んでいると思ったのだろう。

 矢部は時計を確認すると、いそいそとパソコンを閉じて退社した。元気よく挨拶をする彼女におざなりな返答をした後、社員達は再びキーボードを叩き始めたが、そこで池田が声を上げた。


「あれ、落合さんもう帰るの?」


 周囲の社員が一斉に顔を上げた。いつもは20時頃まで残っている朱里が帰り支度を始めている。


「はい。私、今までは仕事一筋でしたけど、これからは自分の時間も大切にしようと思うんです」朱里が答えた。


「へぇ……そうなんだ。何か趣味でも始めるの?」


「うーん、趣味っていうほどじゃないですけど……私にとっては大切なことなんです」


 朱里はそう言ってにっこりと笑うと、挨拶をして颯爽と歩いていった。晴れやかな光が差したその顔は、いつもの朱里のものとは少し違っていた。

 普段の朱里の笑みは、例えるなら画家を前にしたモデルのような洗練された微笑みだったが、今の朱里の顔に浮かんでいるのは、偶然通りがかった路地裏で、あられもない格好で眠っている猫を目にした時のような笑顔だった。

 その飾りのない笑顔は見る者の心に不思議と静穏をもたらし、淀んでいた社内の空気が少しだけ和らいだように感じられた。


 ビルの扉を潜った途端に日が差し込み、朱里は思わず手で目元を覆った。目が光に慣れるのを待ち、そろそろと目を開ける。

 その光景は、昔と変わらぬ姿をもってそこに佇んでいた。桃色と紫色が溶け合う空。紅霞こうかの間からは飴色の光が差し込み、姿を現した黄金色の日輪が灰色のビルを照らしている。電線に止まった鳥が音を立てて飛び立ち、燃え盛る炎に飛び込むように黒い影となって消えていく。立ち並ぶビルの窓から漏れるどの光よりも強く、それでいて優しいその光を見ているうちに、朱理は自分の内側から何かが解放されていくような気がした。

 公園の砂場で遊んでいた頃の記憶が蘇る。斜陽の差し込む公園内を、服を砂で汚した少年達が笑い声を上げて駆け抜けていく。感情の赴くままに生きることが許されたあの頃。

あの頃は見上げれば当たり前に夕焼けはそこにあった。朱里の心を慰め、暖め、そして明日への希望を与えてくれた空。

 だけど社会人になり、人の坩堝るつぼの中で生きることを余儀なくされる中で、朱里は自分を見守ってくれていたものの存在を忘れていった。茜色の空は白黒の記憶となり、煩瑣はんさな出来事に埋もれて灰燼と化していった。

 もう二度と振り返ることはないと思っていた記憶。だけど、その記憶がなおも燻り続けていたのは、それが落合朱里という人間を形作る礎であったからなのだろう。

 子ども時代の自分にはとっくに別れを告げたつもりだった。赤裸々な感情を表出することなど大人の振る舞いではないと思い、他者に許容されるような言動だけを注意深く選んできた。

 だけど今一度、本来の自分を取り戻してみてもいいのかもしれない。処世術として身につけてきた仮面を脱ぎ捨て、裸の自分を抱き締めてみてもいいのかもしれない。

 過ぎ去った過去は二度と戻らない。でも、かつての自分と今の自分がそっくり作り替えられてしまったわけではない。そうだ、大人になったとしても、忘れてはいけないものはあるのだ。

 朱里は空を見上げると、夕焼けが照らす道を歩き始めた。母親が幼子を連れて帰るように、ゆったりとした足取りで。今日はコンビニではなく、スーパーに寄って食材を買って帰ることにしよう。自炊なんて長らくしていなかったけれど、今日を機に習慣づけるのも悪くない。そんなことを考えていると自然と足取りも軽くなり、気がつくと朱里の顔には笑みが浮かんでいた。

 紅霞こうかなびかせる空とよく似た、虚像ではない笑顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

茜色の再会 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ