第6話 ナターシャの星――外国人の疎開




 戦争の末期、日本やアジア各地に住んでいた外国人が軽井沢に疎開しました。


 スイス、ソ連、フィリピン、トルコ、スペイン、ポルトガル、アフガニスタン、チェコスロバキア、フランス、アルゼンチン、ルーマニア、スウェーデンなど諸国の国際赤十字など大使館関係者が300人、宣教師など一般人が2,000人。不自由な戦時下を異郷で送ることになった外国人たちはどのように生き延びたのでしょう。

 

      *

 

 明治半ば、夏は涼しいけれど冬は零下20度以下に冷えこむ軽井沢を拓いたのはカナダルーツの宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーさんとその友人たち。

 当初は外国人だけの小さな村でしたが、そのうちに日本人避暑客が外国人の数をしのぐようになると街道に商店が並び、にぎやかな「軽井沢銀座」ができました。


 このころ、日本人と外国人の双方から「軽井沢の村長さん」と信望を集めていた名物ドイツ人がダニエル・ノーマンさんでした。カナダ人宣教師の子として軽井沢に生まれたノーマンさんは、母国カナダの大学を卒業して日本の外務省に入省し、カナダ公使館に赴任してから軽井沢を頻繁に訪れていたのですが、日米開戦を前に母国から帰国勧告を受け、カナダへ帰りました。

 

      *


 容易ならざる戦局を見て自国へ引き揚げた英米人にかわって軽井沢へやって来たのが、日本人およびアジア各地に住む中立国やドイツ・イタリアの人たちでした。


 昭和16年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃による開戦後、中立国を初めとする各国大使館も疎開したので、三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が置かれました。

 

 ――中立国の大使館があるから、アメリカ軍は軽井沢を空襲しない。

 

 当時、ひそかにそう言われていた軽井沢には、東京の政治家や資産家もこぞって疎開して来たので、別荘やホテルはかなりのにぎわいとなりましたが、そんな人の動きに鋭い目を尖らせていたのが特高(特別警察)や憲兵でした。分けても軽井沢の外国人には、日本人以上にきびしい監視の目が注がれていたのです。

 

      *

 

 外国人の疎開者にとっても食糧不足は深刻でした。なにもかもないない尽くしの乏しい暮らしのなか、満員の汽車に乗って買い出しにも行かなければなりません。


 ドイツ人の娘・ナターシャも、そんな買い出し外国人のひとりでした。

 ゆたかな金髪に青い目、絵に描いたような外国人なので、いやでも好奇の視線を集めてしまいますが、身体の弱いママに代わり、家族のためにがんばらねば……。


 ドイツ人の主食は馬鈴薯なので、おイモがなければ1日だって暮らせません。

 かっとばかりに熱い日差しが照り付ける真夏の炎天下、3つ下の弟・ダニエルを連れて近郊の村まで出かけて行き、農家の主婦とカタコトの日本語で交渉します。

 

 ――オバサン、バレイショ、ワケテクダサイ。

 

 どこの家でも暮らしに工夫を凝らしました。

 ミツバチや山羊を飼って自給自足を目指す。

 庭で野菜をつくったり、川魚を獲ったり。

 長くきびしい冬に備えて薪を蓄える……。


 一方、軽井沢は自然の宝庫ですから、その気になれば、食べ物がカクレンボしています。ツクシ、タンポポ、セリ、ナズナ、ワラビ、ゼンマイ、フキ、タラノメ、キノコ、アケビ、クリ、クルミ……。外国人と見てあからさまな高値をふっかけて来る農家を相手にしなくて済むので、ナターシャは好んで野山へ出かけました。


 これは内緒ですが、三笠ホテルの近くの森をドイツ人は「フン族(匈奴ルーツ、ゲルマン民族の大移動に大きな役割を果たした)の小さな森」と呼んでいました。この辛い状況から解放されるときを森の神さまに祈っていたのかもしれません。


 

      *

 

 そんな窮屈な日々を慰めてくれるもの、それは飼い犬のエミールでした。

 満足に食べさせてやれないので、かつてはあんなに真っ黒に艶々と輝き、上等なビロードのように滑らかだった毛艶も色褪せ、骨と皮だけに痩せ衰えた身体で風に吹かれて歩いていますが、どんなときも無垢な笑みを絶やしたことがありません。

 

 ――ありがとうね、エミール。🐶 (^.^)

   おかげで元気が出るよ、あたしたち。

 

 そして、ああ浅間山。

 この雄大な山のふもとに疎開できた幸運を、ナターシャは神に感謝しました。

 煩わしい人間社会とは無関係に、浅間山は白いけむりをのんびりと吐きながら「なあに、だいじょうぶ、だいじょうぶ」というように、いつもそこにいます。

 

 ――むかし、浅間山をひとまたぎしてしまうほどの大男がおってな、文字どおり猪突猛進して来るイノシシをつかまえては、大岩のかまどで煮て食っておったそうな。ほれ、あの雲場池スワンレイクはな、その大男、デーランボーの足跡だっちゅうこったいね。

 

 しんしんと冷えこむ冬の夜、ドイツルーツの子どもたちを集めて土地の昔話を語ってくれたのは、ナターシャの家の近所に住んでいた宣教師のお年寄りでした。

 

      *

 

 昭和20年の夏、長かった戦争がようやく終わりました。

 日本で一番早く終戦を知ったのは、短波放送を聴いた軽井沢の外国人でした。

 終戦より5日も前の8月10日、ポツダム宣言と日本の降伏を知ったのです。


 ナターシャの家でもパパ、ママ、ダニエル、いっせいに明るい顔になりました。

 犬のエミールにも終戦のうれしさが分かるのか、ユラユラ尻尾を振っています。


 じつは、ナターシャにはひそかに想いを寄せている幼馴染みの青年がいました。

 毎晩、南の空に輝く青い星に「どうかご無事で」と祈りを捧げていたのですが、家族と一緒に河口湖畔に疎開している青年に会える日も、そう遠くなさそうです。

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