32. エピローグ

 心臓がバスドラムのような重低音を高速で奏でている。何もしていないというのに、呼吸が荒くなってきた。

 颯空と美琴に連れられ、なんとか学校へとやって来た環であったが、ここにきて最後のハードルが現れた。そう『教室へと足を踏み入れる』という事だ。

 ここまでの道中、特に注目される事なく来れたのは、他の生徒達が環を見ても、同じ学校の生徒くらいの希薄な感想しか持ち合わせていなかったからだ

。だが、教室に入るのは話が違ってくる。同じクラスともなればそれだけで興味が出てくるし、それが不登校だった生徒ともなれば猶更だ。入った瞬間、間違いなく好奇な目を向けられるだろう。


 必死に覚悟を決めようとしていたら、誰かが自分の肩に手を置いた。後ろに顔を向けると、颯空が不敵な笑みを浮かべている。


「また脳筋の出番か?」


 何と心強い言葉であろうか。だが、ここまできて彼に甘えるわけにはいかない。

 環は小さく頭を左右に振ると、ぎこちない笑顔を颯空に向けた。


「これくらい大丈夫だよ。もっと大きくて巨大な壁の時に颯空君の力を借りる」

「そうか」


 短い言葉で颯空はあっさりと引き下がる。教室の扉に向き直った環は大きく深呼吸すると、勢いよくその扉を開いた。

 その瞬間、教室の視線がこちらに集まる。金縛りにあったかのように、環の体はその場で動かなくなった。

 甘かった。勝手に強くなれた気がしていた。半年以上も部屋の中で人目を忍んできた自分が、こんなに大勢からの視線を浴びて普通でいられるわけがなかった。

 視界が歪む。足に力が入らなくなってきた。この先、一体どうすればいいのか……。


 ドンッ!


 突然、パニック状態の環の背中に強い衝撃が加わった。よろめきながら振り返ると、迷惑そうな顔で颯空がこちらを見ている。


「邪魔くせぇな……いつまでも入口で突っ立ってんじゃねぇよ」

「え?」


 呆けた顔をする環を一瞥してから、颯空はクラスの連中へ目をやった。


「なんだよ、じろじろ見てんじゃねぇよ。喧嘩売ってんのか?」


 怒気をはらんだ颯空の声に、クラスの者達がサッと目を逸らす。ここにいる全員の耳に聞こえるほどに大きな舌打ちをすると、颯空は機嫌の悪そうに自分の席へと歩いて行った。

 呆然とその後ろ姿を見ていた環の背中を、ポンポンッと美琴が優しく叩く。目が合うと、彼女はウインクをして離れて行った。その段階で環はハッと気づく。

 さっきまで自分を見ていた人達が、今は誰一人としてこちらに注目していない。みんな爆発寸前の危険物を見るような目でチラチラと颯空を盗み見ていた。


 ……ありがとう、颯空君。


 環の心に勇気が宿る。不登校の生徒よりおっかない不良にクラスの注目が集まっている内に環は自分の席へと移動した。机の上に鞄を置き、椅子に座ったところで、ようやく息を吐き出す。どうやら、ここに来るまで呼吸をするのを忘れていたようだ。


「……藤代、環さんだよね?」


 口から心臓が飛び出るほど驚いた。壊れかけのロボットのように環が横を向くと、ボーウィッシュな女の子が頬杖をつきながらこちらを見ている事に気が付く。


「え、えとえとえーと……!!」

「あー、いきなり話しかけられちゃ困惑もするか。ごめんね、二年に上がってこのクラスになってずーっとお隣さんがいなかったから、なんか嬉しくって」


 頬をポリポリと掻きながらクラスメートの女の子が照れたように笑った。その笑顔は引きつったものでも取り繕うようなものでもない。とても温かなものだった。


「あ、あの……!! ふ、藤代環です……よろしく……」


 最後の方は尻すぼみになりながらも、何とか勇気を振り絞って環が自己紹介をする。クラスメートの女の子は少し驚いた顔を見せたが、先ほどよりも明るい笑顔を環に見せた。


「あたしの名前は道明寺どうみょうじあやめだよ。よろしくね」


 そう言って、あやめは手を伸ばし、ギュっと環の手を握る。少しだけ戸惑った環であったが、俯き加減で握手を返した。


 その様子を颯空の席で観察していた美琴がどや顔を見せる。


「ふふん。やっぱり学校に連れてきてよかったじゃない」

「まだ来て五分も経ってねぇだろうが。決めつけるんじゃねぇよ」


 颯空が呆れたようにため息を吐いた。その態度にカチンときた美琴が盛大に顔をしかめる。


「なによ? それじゃ、環は学校に来なきゃよかったっていうの?」

「そうは言ってねぇだろ。環も来たいって望んでたわけだし、学校に来ること自体は悪い事じゃねぇ。ただ、それが結果としてよかったのかよくなかったのかを決めるのはあいつ自身って話だ」

「……なーんかヤンキーのくせに難しく考えるわね。ヤンキーのくせに」

「ヤンキーじゃねぇって言ってんだろ。二回も言うな」


 不機嫌そうにそう言うと、颯空は机の上に突っ伏した。窓に寄りかかるように立っていた美琴は颯空の机の前にかがむと、両肘を机の上に置いて指を組み、その上に顎を乗せてじっと彼を見つめる。顔を自分の腕の中に埋めていたが、なんとなく気配でそれを察した颯空が、眉をひそめながら顔を上げた。


「……なんだよ?」

「そういえば前に聞かれた事に答えてないなって」

「前に聞かれた事だぁ?」


 すぐには心当たりに思い当たらなかったが、ここ最近の事を思い出し、颯空はつまらなさそうに鼻を鳴らす。


「誰のために必死になってんだ、ってやつか。それだったら答えは聞いたぞ? 自分のためだろ?」

「その事じゃないわ」

「あ? だったら何の事だよ?」

「強い人は誰が助けてくれるのってやつ」


 思いがけない言葉に、颯空は大きく目を見開いた。確かに言った。会う事すらさせてくれない環を学校に来させるために行った校舎の屋上での作戦会議の時に。美琴が『弱い者は誰かが助けてあげるのが当然』みたいな口ぶりだったので、少しイラっとして口が滑ったのを覚えている。


「っていうか、あんた自分が強いと思ってるわけ?」

「中学ん時は無敗だぞ? 文句あんのかこら」

「はいはい、すごいすごい」


 美琴が心底馬鹿にしたようにパチパチと手を叩いた。彼女は自分をイラつかせる天才なのかもしれない。これ以上の会話は自分の精神衛生上よくない、と判断した颯空は早々に話を切り上げようとする。


「話は終わりか?」

「はぁ? 終わりなわけないでしょ」

「なら言いたい事だけ言って、さっさと自分の席に戻れ」

「……そういう態度に問題があるっていうのよ。あなたみたいな人は自分から助けを乞おうとしないし、誰かに手を差し伸べられても頑なにその手を掴もうとはしないでしょ?」


 美琴の問いかけには答えず、颯空は窓の外へと視線を向けた。いや、答えられなかったのだ。彼女が言っている事が正しいと認めたくなかったから。

 だが、美琴は颯空が答えない事も答えたくない理由もすべてお見通しだった。


「図星を突かれるとだんまりを決め込む癖、直した方がいいわよ? まぁ、私としては変に食って掛かれるより楽だから助かるけど」

「……うるせぇ。だったらなんだって言うんだよ?」

「素直に助けてもらおうとしない人を助ける人なんて普通いないでしょ? 誰が助けてくれるのか考えるよりも前に、助けてもらう努力をするべきね」


 なんという暴論。なのに、返す言葉が見つからない。それがすこぶる気に入らない。

 苦虫を噛みつぶしたような顔をしている颯空に、その場で腕を組みながら立ち上がった美琴が勝ち誇った笑みを向けた。


「だから、あなたが助けて欲しい時は私が助けてあげる」

「…………は?」


 言葉の意味がまるで理解できず、颯空が間の抜けた声を上げる。それを見て、美琴は呆れたように笑いながらやれやれと首を左右に振った。


「あなたみたいに素直じゃない人は、私みたいな優しい人が無理やり手を差し伸べて引っ張り上げるしかないからね。仕方がないから助けてあげるわ」


 得意げに語る美琴を、ただただ呆然と見つめている颯空。生徒手帳の秘密を握られているからだけじゃない、なんだかんだ自分が彼女に付き合う理由を何となく実感した気がした。


「……お前に助けられる状況に陥ったら、いよいよ俺も終わりだな」

「ちょっと、それどういう意味よ?」

「そうなったら男らしく潔く腹を切るしかねぇな。うん、そっちの方が大分ましだ」

「な、なんですって!?」


 眉を吊り上げる美琴を挑発するように颯空はこれみよがしに欠伸をする。


「ふぁーあ……今日は早起きしたから眠気がやばいぜ。つーわけで、俺は睡眠に勤しむから、まだぺらぺらくっちゃべるつもりなら他所よそ行ってくれ」

「な、なによその態度!?」


 わなわな震えだした美琴を無視して、颯空はさっさと眠りにつく体勢を取った。


「ホント素直じゃないわね! この……ひねくれヤンキー!!」


 捨て台詞を吐くと、美琴は怒り心頭のまま自分の席へと戻っていった。颯空の方はようやく訪れた安息を噛み締めつつゆっくりと目を閉じ、夢の世界へと旅立とうとする。

 そんな颯空の口角が僅かに上がっていることに、美琴も彼自身も気づいてはいなかった。

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優等生の美少女に弱みを握られた最恐ヤンキーが生徒会にカチコミ決めるんでそこんとこ夜露死苦ぅ!! 松尾 からすけ @karasuke

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