第10話 因果、動き出す事態 ②

 放課後、リィンは廊下を一人で歩いていた。


 ララがオールボート公爵令息に用事があるというので、先に馬車止めまで向かおうとして。

 一緒に行けば良いとララは言ってくれたが、せっかく婚約者同士で会うのだから邪魔をしては悪いと言って、遠慮した。

 

 婚約者同士の逢瀬を邪魔したくはないというのが本音だが、それに加えて出来ることなら高位貴族の令息と余り接近したくない、というのもある。

 

 リィンとララが友人同士であるというのは学園内でも周知となっているけれど、穿うがった見方をしてくる人はどこにでもいるものだ。

 スペンサー侯爵令息とレリアの件は有名すぎて、その妹であるリィンも、関わらないようにしていたとしても周囲からは見たら姉妹であるという事実は揺らがない。

 仮に、オールボート公爵令息と会話しているところを曲解されて、下手な噂になるのは勘弁だった。

 

 そんな心配をしなければならない程度には、姉レリアの行動には問題しかない。

 

 そういえば、かつてはお母さまも同じことをしたはずよね……。

 

 歩きながらふと、リィンは思い当たる。

 母であるシェリー・ウィルコールは、十八年前にこの学園で、同じことをした。高位貴族の令息にすり寄り、レリアよりも更に多くの令息たちを陥落させ、その中には第二王子まで含まれていた。

 

 その事実は、グラフトン侯爵家によってもみ消されたに等しいが、同世代で学園に通っていた人々の記憶には残っているだろう。

 こんなみっともない事実、そう簡単に忘れられるはずがない。

 子どもたちにそれらを反面教師の教訓として伝えている家もあるだろうし、意外と十八年前のことを正確に知っている人も学園内にいるのかもしれない。

 

 突き刺さる視線には、悪意が込められていた。

 

「……何の御用でしょうか、エヴァット様」


 廊下を歩くリィンの目の前に現れたその人は、ひどく憎々しげにリィンを見ていた。

 皮膚がぴりぴりと痺れるような、そんな錯覚があるほどに、敵意と悪意を込めた視線だった。

 

 そして、それ以上に蔑みを帯びた視線でもあった。

 

「お母さまから聞いていた通りね……。男性に媚びることだけは上手いウィルコール家、と」

「それは……」


 それはあくまでも、母シェリーと姉レリアの話なんですが。

 

 リィンは学園内で、必要以上に男性とは接しないように心がけている。

 ララの婚約者であるオールボート公爵令息とさえ、会釈程度はしても会話さえも交わさない。

 それ以外の男子学生になれば、尚更だ。

 

 ウィルコール男爵家の評判が良いはずもないし、姉があの状態であるのだから、せめて自身は潔癖でいようと決めたからでもある。

 むしろ、まともに会話して交流がある男性なんて、兄とその執事と侍従、そしてマティスぐらいだ。

 

「本当はあの女をと思っていたのに、ランドルフ様から離れないから……。もう、あなたでいいわ。連れて行きなさい」


 忌々しそうにリィンを睨み付けたエヴァット侯爵令嬢が、背後に控える人たちに声をかける。

 侍従のような出で立ちの、しかし護衛を兼ねるマティスと大差ないような体格の、明らかに学園関係者ではない男性たちだった。

 

「え……ちょっと待ってください、エヴァット様……!」

「お黙りなさい! あなたに発言の許可など与えていません!」


 男性らに腕を取られ、リィンは身を捩る。

 だが、エヴァット侯爵令嬢は声を張り上げ、一喝した。

 

 咄嗟に周囲を見渡すが、先に手を回していたのか人影は見当たらない。

 学園内で人のいない場所などほとんどなく、常に安全が保たれているからという理由で下位貴族は従者も護衛も連れて入れないというのに。

 それは即ち、高位貴族がその気になれば、いくらでも下位貴族に危害を加えることが出来るということでもあるのだと、今さらながらにリィンは気付いた。

 

 せめて大声を上げられれば……!

 

 叫ぼうと、叫んで助けを求めようと、大きく息を吸ったとき。

 

 ガンッ!と大きな衝撃がリィンの後頭部を襲った。

 それが意識を刈るための衝撃であり、腕を取った男性の手によるものであることを、憎しみに燃えたエヴァット侯爵令嬢の碧玉の双眸に知った。

 

 この人は、リィンを許すつもりなどないのだ、と。

 

 

 ***

 

 

 この国の貴族子女は、幼い頃は殆ど外界に触れることもなく邸内だけで完結した暮らしを送る。

 それは、王都を拠点とする貴族であろうと、領地を拠点とする貴族であろうと変わらない、貴族子女の当然の育ち方だ。

 

 邸内で家庭教師からの教育を受けながら家族や使用人たちという限られた人とだけ接し、子どもたちを含めた社交などは行なわれないままに育つ。

 

 かつて、国内の治安が安定していない頃に多発した貴族子女の誘拐事件なども影響してそのような風習になったとも言われている。裕福な環境にいながら、自らを守る術を持たない幼い子ども。身代金目的の誘拐もあれば、時には領主への抗議の意味合いもあって誘拐される子女もいたという。

 前者の場合であれば、金を支払えば子どもは解放された。だが、ならず者に攫われたという事実は女児であれば特に将来に残る瑕疵とされ、その子の運命は閉ざされたに等しかった。

 後者の場合であったならば、境遇はもっと悲惨だ。領主の圧政に苦しむ領民の憎しみを一身に受けた子どもの行末など、想像するにも恐ろしい。

 

 だから、この国の貴族子女は学園に入学するまでを邸内でのみ過ごすことが一般化した。

 それほど、子どもを奪われる貴族が多かったのだ。

 

「誘拐って……重罪だった気がするんだけど……」


 がたことと揺れる馬車の荷台に押し込まれ、リィンはぽつりと呟いた。

 

 凄惨な状況に追い込まれる貴族子女が多発した際に、国は法律を定め直した。

 誘拐は、その理由を問わず重罪として扱われ、最悪の場合は死罪も有り得るような罪として定められたのだ。

 

「侯爵家が男爵家の娘を……なら、減刑されるのかしら……?」


 馬車の荷台に放り込まれてしばらくして意識を取り戻したとき、リィンの手足は縄でしっかりと縛られていた。

 これでは、罪人と同じ扱いである。

 身柄を拘束して連行することは、警邏隊が明確な罪を見定めた際にのみ許される。現行犯なり捜査結果なりと状況は様々だが、少なくとも罪があった場合だけ認められることだ。

 

 例外として、王族が何らかの理由で命じた場合、それが許される場合もある。

 もしかしたら、侯爵家も同様の例外となるのだろうか。

 

 そこまで考えて、リィンはぞっと恐怖に身体を震わせた。

 

 揺れる馬車が、どこへ向かっているのかは分からない。けれど、気を失う前に見たエヴァット侯爵令嬢の瞳は怒りと憎しみ、そして嫌悪に染まり燃えていた。

 あんな目をした人が、無事にリィンを解放するだなんて思えなかった。

 そして、侯爵家の人間である彼女が、男爵家の人間であるリィンに危害を加え、最悪の結果になったとしても、もしかしたら彼女は罪にさえ問われないかもしれない。

 

 それはつまり、助けが来ない可能性もあるということだ。

 

「何で、私が……?」


 そもそも、リィンはエヴァット侯爵令嬢にああも憎悪に染まった瞳で睨み付けられる心当たりがない。

 レリアの件で彼女が怒り狂っていたとしても、それはあくまでもレリアに対するものでしかないだろう。

 

 リィンには、攫われる理由がない。

 理由がないということは、攫われたという事実に気付いてもらえない、ということでもあった。

 

 単に行方をくらましただけ、となる可能性だってある。人目のなかった廊下での出来事、リィンとエヴァット侯爵令嬢を結び付けて考える人が、どれほどいるだろう。

 これがレリアであったなら、エヴァット侯爵令嬢が何かしたのではないかと、口には出せないまでも考える人はいるかもしれないけれど。

 

 意識を取り戻した直後は、ぼんやりとした頭で何も考えられなかった。

 

 けれど、考えれば考えるほど、今置かれている状況が絶望的であるように思えてくる。

 縛られた手足を動かそうと身を捩れば縄が食い込み、その痛みが更に絶望を煽り立ててくるような気になる。

 

 痛い、怖い、痛い、怖い。

 

「どう……して……? 何、で……?」


 恐怖と絶望が混じり合って、全身に広がっていく。

 動かない手足が小刻みに震え出し、喉の奥からせり上がってくる熱いかたまりのような衝動に、目尻に涙が浮かぶ。

 

 どうにかして、逃げないと。でも、どうやって?

 

 がちがちと、歯がぶつかって鳴る音がする。それが自分の震えによるものだと思い当たることさえ出来ず、リィンは混乱する頭で必死に考えた。

 どうすればいいのか、どうしたらいいのか。何も思い浮かばないけど、それでも必死に。

 何とか外そうと身を捩れば捩る程、手首を拘束する縄が擦れ、鋭い痛みを与えてくる。

 

 そして、自分には何も出来ない、という絶望にリィンが染め抜かれる頃。

 

「助けて……マティス……」


 リィンが呼んだのは、いつも傍らに立つ侍従の名だった。

 

 

 ***

 

 

 一旦目覚めたところに薬を嗅がされ意識を刈り取られて冷たい床の上に倒れ込む、まだ年若い少女の姿を見たクラーラ・エヴァットは口の端を引き上げて笑った。

 

「無様ね……ウィルコールの娘」


 石の床に散らばるのは、王家の血筋を引き継いだことを感じさせる淡い色味の金の髪。閉ざされた双眸はきっと、ペリドットのような、と表現するにはやや深い色味をしているのだろう。

 まだ幼さを残した頬はふっくらとしたラインを描くが、その目鼻立ちは整っていて、いずれは人目を引く容貌に育つのだろうと思わせる。

 

 まるで、あの男とあの女を、足して二で割ったかのような容姿だ。

 見ているだけで忌々しく、倒れ込んで石の床に押し付けられている頬を踏み抜いてしまいたくなる。

 このまま踏みにじって粉々にしてしまえたら、どれほど愉快だろう。そんなふうにさえ思う。

 

 そのような衝動を堪えるために、一度、肩がゆっくりと上下する程に大きく息を吸ってから、吐き出す。

 侯爵夫人として社交界を渡り歩く彼女にとってさえも、そうでもしなければ暴挙に及んでしまいそうな程の衝動が胸中に渦巻いていた。

 

「奥様……やはりこのようなことは……」

「お黙りなさい、ジェレミー」

「しかし、報告によれば彼女は妹の方です。今回の件には関係しておりません」

「だからどうしたと言うの?」


 躊躇いながらも言葉を述べる執事を、じろりと睨みつける。

 妹だから、どうだというのだ。そんなこと、関係ない。

 

「わたくしの矜持を二度も踏みにじったウィルコール家の人間なのだから、滅ぶのが当然でしょう」

「そんな……まだうら若い少女ではないですか。彼女は何もしていないのに……」

「黙りなさいと言っているでしょう!」


 パシィーン!と高く大きな音が、殺風景な石造りの部屋に響いた。

 扇で頬を打たれた執事はよろめき、呻き声を上げながら冷たい壁に寄り掛かるが、その様が実に不愉快に映る。

 

「勿論、あの姉もただでは済まさないわ。けれど、この娘もあの男とあの女の血を引いているのだから、当然許さない……」


 ゆらゆらと、碧玉の双眸に憎悪が燃える。

 爪の先まで整えられた白く滑らかな両手が、ギリリッと音がしそうな程に扇を握り締めた。

 

 許せる訳がないのだ。ウィルコール男爵家の人間など。

 

 あの時は、何も出来ない小娘だった。いつの間にか父が話し合いの席に着き、後から結果を聞かされただけだった。

 領地にある邸宅で静かに過ごすところへ届けられたしらせに、目の前が真っ赤になるほどの怒りに苛まれたのを覚えている。あれは、忘れられない記憶だ。

 しかし、父の決定に逆らうことなど出来ぬまま、言われた通りに従うことしか出来なかった。

 あの屈辱を、どうして忘れられようか。

 

 しかも、歴史は繰り返すとも言うが、これほど早く同じようなことを繰り返すとは思ってもいなかった。

 かつてを重ねてしまいそうな程に同じ表情で唇を噛み俯いた愛娘に、怒りも憎しみも屈辱も、全てあの時のままに蘇った。

 

 一度目は、何も出来なかった。無力な小娘でしかなかった。

 だが、二度目はそうはならない。

 屈辱を甘受することなど、もうあってはならないのだ。侯爵夫人たる身が、ただそこに甘んじてしまうことなど。

 

「ウェズリーを呼んできなさい」

「奥様、それは……ッ!」

「黙りなさいと言ったでしょう! 貴方はわたくしに大人しく従えば良いの!」


 使用人の分際で尚も口答えしようとする執事を、再度睨み付ける。

 この男は、使えない。使用人であるならば、如何なる場合であれ主人の思うがままに振る舞うべきであるというのに。主人の意に逆らうのであれば、それは不要な存在でしかない。

 

 後で解雇通知を出しましょう。

 当然ながら、紹介状なんて付与してやるものか。

 

 絶望なのか、落胆なのか。青い顔をして震える執事を一瞥して、彼女は辛気臭い部屋を出る。

 このような場所、長居すべき場所でもない。

 さっさと適役を配してなすべきことをなすよう、指示を出せば良い。あとはどうなろうと、それは実行した使用人の責だ。自分には関係ない。

 

「ふふふっ……楽しみね。あの男と同じ色の目が、絶望に染まるだなんて」


 その様を眺めるのが、実に楽しみで愉快だ。


「次は、あの女と同じ色の目を絶望させたいわね……あの子の為にも」


 記憶に焼き付いたかのような、ヘーゼルの瞳が脳裏に浮かぶ。

 どちらも絶望に染まった頃、きっとあの男もあの女も絶望を抱えてむせび泣くのだ。

 

 その時は秘蔵のワインを開けて、ゆっくりと鑑賞しようかしら。

 くすくすと笑いながら、地下牢から繋がる階段を登る。

 

 歓喜に酔いしれ零れ落ちる笑い声は、狂気の色を孕んで冷たい壁に当たり、同様の床に転がり落ちていった。

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