第8話 兄妹、ウィルコール男爵家 ②

 扉を叩く音がする。ノックする、というような類のものではない、拳を激しく叩き付けるような音。

 

「早く出てきなさいよ! わざわざわたくしが来てやってるんだから!」


 マティスを下がらせ、ゆっくりと安静にしていろという兄の言伝に従って大人しく横になりうつらうつらとしていたリィンは、響く金切り声に音の正体を知る。

 外向きには決して響かせることのない、苛立った時の姉レリアの声だった。

 ドアに叩き付けられているのは苛立ちに駆られた彼女自身の拳なのか、それとも忠実な侍女であるヨハンナのものなのか。

 

 いずれにしても、ろくなことになる予感はしない。

 リィンは立ち上がると、部屋の隅に垂れ下がった紐を三度ほど引いて揺らした。

 

「開けろって言ってるでしょ、リィン! いつまで待たせるのよ!」


 いや、言われてないけれど。

 もしかしたら先に言ってるかもしれないけど、聞いてないから知りませんけれど。

 

 どうしたものか。

 扉を見ながら、リィンは考える。

 

 本音としては、開けたくない。だが、この様子だと開けるまで執拗にこれが続きそうな気がする。

 扉を叩いているのがレリアの拳であれヨハンナの拳であれ、放置していたら腫れ上がってしまうのではないだろうか。それはそれで、知ったことでもないけれど。

 

 だが、放置していて終わるようなものでもない気がした。

 

 このままだったとしても、両親が咎めに来るとすれば騒ぎ立てるレリアではなく、無視を決め込むリィンに対してだろう。たとえリィンが、安静を言い渡されているとしても。そもそもあの人たち、リィンが倒れたこと知ってるんだろうか。知らないかもしれない。

 

 放置していたら、余計に面倒なことになりそうだ。

 意を決して、リィンは扉を開くことにした。

 

「いつまで待たせるのよ、このわたくしがわざわざ来てやったのにっ!」


 このわたくしって、どのわたくしなんでしょう?

 

 来てくれと頼んだ覚えもないリィンは、何も返事をすることなく姉レリアを眺める。

 その後ろには、ヨハンナが薄い笑いを浮かべながら控えていた。

 

 母の血が濃いのか、兄アルベリクより濃い金髪がくるくるとカールしているが、念入りに整えられ愛らしく結わえられている。

 瞳も、父の血が受け継がれた緑ではなく、母と同じ色合いのヘーゼル。

 大きな瞳を吊り上げて怒鳴りつける様はヒステリックだが、それでも容貌は愛らしく、流石は学園時代に高位令息からちやほやされまくっていたという母似なだけはあった。

 

 リィンの容貌は父と母を足して二で割ったような外見であるので、たしかに姉妹なのだな、と姉の姿に思う。

 ただそう思うだけで、そこに何らかの感慨が生まれる訳ではないのだが。

 

「何の用でしょうか、お姉さま?」


 イライラとした様子のレリアに尋ねると、ギリッと睨まれた。

 そんな怖い表情ばかりしてると、外向きの愛くるしい表情が作れなくなっちゃうんじゃない?などと、リィンは関係ないことを思う。

 

「リィン、あなた告げ口したでしょう!?」

「告げ口? 何をですか?」

とぼけないで! わたくしはそのせいで、グレースから散々嫌味言われたんだから!」

「グレース……というと、エヴァット侯爵令嬢のことでしょうか?」

「そうよ、そのグレースよ!」


 そういえば、レリアはスペンサー侯爵令息にすり寄り、その婚約者であるエヴァット侯爵令嬢からお呼び出しを受けていたんだった。

 その話を聞いた後の展開が、余りにも怒涛すぎて忘れていたが。

 

「わたしは、エヴァット侯爵令嬢とお話をしたこともありませんし、お姉さまが何をなさったか存じませんので、告げ口など出来ませんが……」


 何をやったかについては、知らない訳ではないが、直接見た訳でもなく人伝に聞いた話なので何とも言えない。

 スペンサー侯爵令息に足元がフラついたフリをして抱き着こうとしたとか、そんなことをララが言っていたのを思い出すが、それは口には出さない。

 

「しらばっくれないでよ、お兄さまに王子さまのこと告げ口したのはあなたでしょう!?」

「あ、それはわたしです。下手をすれば不敬沙汰になりかねないので、ご相談しましたから」

「やっぱりあなたじゃない!」

「お兄さまへは伝えました。ですが、エヴァット侯爵令嬢の件は、わたしではありません」


 学園内で人目もはばからず婚約者のいる男子学生に抱き着こうとしたのであれば、それはどうやったって婚約者の令嬢の耳に入るだろう。

 ましてや、初日に第一王子と知り合おうと分かりやすい演技をして転んだ令嬢が同じようなことをしたとなれば、目撃した他の学生が速やかにエヴァット侯爵令嬢に伝えるのは何ら不思議ではない。

 要するに、例の令嬢があなたの婚約者をターゲットにしたようですよ、という報告が。それがお節介なのか親切心なのか、それとも他意のあるものなのかは知らないが、リィンがどうこうしなくともエヴァット侯爵令嬢は当たり前のようにレリアの行動を把握したはずだ。

 

 それが理解出来ないのか、それともリィンが告げ口したということにしたいのか、レリアは聞き入れようとしない。

 

「あなたのような妹は、反省すべきだわ。お父さまとお母さまも、そう仰ってたもの」

「何に反省しろと言うのですか。何もしてませんのに」


 むしろ反省するのは、あなたではないのか。

 いや、やってはならないことをやっているという自覚がないから、反省以前の話なのだろうけど。

 

 視線が冷めたものになるのは、もはや致し方ない。

 

 呆れきったリィンの視線の先で、レリアはにっこりと笑った。

 可憐な容貌での笑顔は、確かに大輪の華が花開くようで、それだけだったら実に見栄えのするものではあった。

 

 が、そこに込められた悪意は、流石に妹として生きてきたリィンにはしっかりと伝わる。

 

「反省が足りてないあなたから、侍従を取り上げます。今日からマティスは、わたくし付とするわ。良いわね、リィン?」

 にっこりと笑ったレリアと、その後ろでニヤニヤとした笑いを浮かべるヨハンナ。

 そういえばヨハンナは、やたらとマティスに執着していたな……と思いつつ、リィンは双眸をすがめて二人を見やった。



 ***

 

 

 ヨハンナという侍女は、レリア専属の侍女である。

 

 ウィルコール男爵家には複数人の侍女やメイドがいるが、専属となっているのはヨハンナと、あとは母の専属である二人の侍女だけだ。

 だからなのか、ヨハンナは自分自身を他の使用人より上位にいると思い込んでいる節がある。

 使用人というものはその役割に関わらず、全てにおいて家令と侍女頭の管理下にあるのだが、それらさえも失念しているようなところが。

 

 なので、専属ではない侍女やメイドたちに対して横暴に振る舞うところがあり、その評判は芳しくない。

 ただ、レリアにひたすらに忠実であるため、レリアのお気に入りではあった。

 

「取り上げると言われても、わたしはマティスしか使用人がいないのだけれど」

「そんなことは関係ございません、旦那さまの決定ですので」


 レリアのお気に入りであるから、主家の一員であるはずのリィンに対しても強気に出るのが、ヨハンナである。

 嫡子であるアルベリクにはまだマトモな対応を取るあたり、彼女にとってのリィンは自分以下の存在なのだろう。

 

 本来ならば、使用人の態度はあるじがたしなめるべきである。

 だがレリアは楽しそうに笑って、ヨハンナがリィンに言い返すのを見ているだけだった。

 

 マティスは農村出の平民だが、容貌が目立つ。

 ブラッドリー第一王子やオールボート公爵令息といった貴公子たちに比べれば、その美しさという意味合いでは大きく劣るのだが、整った目鼻立ちは男性らしい精悍な容姿を形づくり、護衛を兼ねるがゆえに自然と鍛えられた体躯は逞しい。

 王子さまを夢見るような女性らには敬遠されるかもしれないが、騎士のような風貌を好む女性にとっては好ましい部類の男性だろう。

 

 ヨハンナは以前から、マティスに執着していた。それは余りにも露骨であったせいで、リィンも把握するところである。

 ヨハンナとしては自分が好むマティスをレリア付きに変えることで、距離を縮めたい。レリアとしては、邪魔をしてくる妹に罰を与えたい。

 その両方を叶えるのが、リィンからマティスを取り上げるという選択だったのだろうけれど。

 

「無理です。お父さまに、その権利はございません」

「何を言っているのかしら、リィン? 男爵家の当主はお父さまよ。お父さまが決定なさったのなら、それで決まりじゃないの」

「いいえ、お父さまが男爵家の当主であってもマティスに対する人事権はございませんから」


 淡々と答えるリィンに、レリアもヨハンナも不愉快そうに顔をしかめる。

 相変わらず表情の取り繕えない主従だわね……。リィンは、貼り付けた仮面のような無表情の下で思う。

 

「まったく、リィンはいつもそう。ワガママばっかり。あなたのワガママにお父さまやお母さまがどれほど迷惑被ってるか、分からないのかしら?」

「本当に。男爵家の令嬢にふさわしくありませんね」

「ヨハンナの言う通りだわ。これ以上ワガママを言うようだったら、お父さまから修道院行きにされちゃうわよ?」


 その言葉、そのままお返ししても良いでしょうか。

 

 ワガママ放題のレリアと、それに追従することしか出来ない使用人。

 男爵家当主としての良識すら放り出したような父と、いつまでも夢見がちなだけの母。

 

 そんな家族に多大なる迷惑をかけられているのは、兄アルベリクだ。いっそ、まとめてどこかに閉じ込めておけたら、どれほど楽だろうか。

 

「そう言われましても、無理なものは無理ですので」

「まだそんなことを言うの!? いい加減、立場を弁えなさい!」

「立場を弁えた上で、無理だと言っているのです、お姉さま」

「いい加減にして、リィン! マティスだって、あなたのワガママに辟易してるに決まってるわ、わたくしの侍従になることを望んでるのよ!」


 徐々にレリアの声が高くなっていく。

 まさに金切り声という表現が正しい叫び声が邸内に響き渡り、リィンは思わず耳を塞ぎたくなる。

 

 ただ、その金切り声よりも、後ろでニヤついた笑いを浮かべるヨハンナの方が不愉快ではあったが。

 

「そう、じゃあ本人に聞いてみましょうか。どうなのかしら、マティス?」


 大きなため息を吐きたい衝動を堪え、リィンが尋ねる。

 それまでニヤニヤと笑っていたヨハンナが、ハッとした表情で背後を振り返った。


「聞くまでもないでしょう、そんなの」


 彼女たちの背後には、自室に控えていたはずのマティスが当たり前のような表情で立っていた。

 

 リィンにとっての使用人は、実質マティスだけである。

 家令や執事、料理人やハウスメイドたちといった専属使用人以外は用件を伝えれば果たしてくれるものの、リィンの私用を申し付けられるような使用人はマティスだけだ。

 だから当然、リィンの私室にある使用人を呼ぶためのベルロープはマティスの私室に繋がっており、鳴らせば彼が駆けつけることになるのだが。

 

 何でそんなに驚いているのかしら。

 もしかして、仕組みを知らないとかそういった話なのか。それとも、呼ばれたところでマティスが来る訳がないとでも思っていたのか。

 

 一瞬呆けた表情を見せたレリアとヨハンナの主従であったが、すぐににこりと笑う。

 そのあたりも、実に息の合った主従であった。褒める気はさらさらないが。

 

「そうよね、聞くまでもないわよね、マティス。こんな令嬢もどきに仕えてるより、レリアお嬢様にお仕えしたいのが当然だもの」


 にこにこと笑うヨハンナ。

 彼女はいつも、両親から気にかけられることのないリィンのことを、令嬢もどきと呼ぶ。男爵家の娘でありながら、男爵当主夫妻から冷遇されている令嬢でありながら令嬢らしくない、もどきに過ぎない存在である、と。

 

 ひとえに、レリアがリィンを下に見ているせいではあるだろうけれど。

 主人が下に見ている相手だからと言って、使用人が同様に下に見ても良いということにはならないのだが。

 

「えぇ、聞くまでもないです。自分はリィンお嬢様以外にお仕えする気はありませんから」

「……何ですって!?」


 きっぱりと言い切ったマティスに目を吊り上げたのはヨハンナもだったが、声を上げたのはレリアだった。

 何故、自分の方に仕えたいと思われて当然なのか、それこそ不思議である。

 

 何せマティスは。

 

「俺は、リィンお嬢様にお仕えするためにグラフトン前侯爵に拾われた身です。お仕えするのはリィンお嬢様だけです」


 そういう立場の使用人なのだから。


 ***


 悪態を吐きまくる姉レリアと侍女のヨハンナを追い返し、ル・ナン公爵令嬢へ茶会での失態を詫びる手紙をしたため手配した。

 それからしばらくして、馬車の音が鳴り兄が帰宅したのは既に日が暮れ、窓の外が薄暗くなり始めた頃だった。

 

「お兄さま、お帰りなさいませ」


 帰宅した兄をエントランスまで迎えに出たい気持ちを堪えつつ、大人しく自室で待機していたリィンは、呼び出しに応じて兄の居室へと足を運んだ。

 当然のごとくマティスが後ろに控え、先導したのは兄の専属執事であるマルクだった。

 

「ただいま、リィン。身体の調子はどうだい?」

「もう大丈夫です。心配かけてごめんなさい」


 出迎えたのは兄アルベリクと、テーブルの上に何やら簡易的な料理を並べている兄の専属侍従であるニーク。

 

「お兄さまこそ、無事のお帰り何よりですわ」

「ほんと……流石に今回は、色々覚悟したよ……」


 今、部屋にいる五人は、兄アルベリクの出生を把握している人間である。

 

 元々、兄は祖父侯爵の下にいる際に、うっすらと事情は察していたそうだ。

 その後、学園に通って疑念を深め、遠目から王弟を見かける機会を経て、確信へと変化した。

 

 その間ずっと兄に付き従っていたマルクとニークは、事情をしっかりと把握している。マティスも同様であるので、隠す必要性はなかった。

 

 両親がその事実に気付いているのかどうかは、定かではない。

 気付いているから兄の育児を放棄したのか、それとも気付いていないでただ育児が嫌だっただけなのか、それを確かめる術はないのだ。

 

「何か、またレリアがやらかしたんだって? リィンが夕飯に呼ばれてないって聞いたから、別で用意させたよ」

「ありがとうございます。お兄さまは夕飯は?」

「僕もまだ。流石にこの状態で、あの人たちと平然と夕飯なんて無理」

「確かに……」


 レリアが去り際に何やら喚いていたので、恐らく今日の夕飯は呼ばれないだろうとリィンも予想はしていた。

 

 とは言え、こうやって兄と簡単な食事を取ることも出来るし、兄が多忙だったり夕飯の席から逃れられない時はマティスが軽食を運んでくれたりもする。

 レリアは本気で夕食の席に呼ばれないことがリィンにとっての罰になると信じていて、両親も同様らしいのだが、何でそう思うのか理解出来ない。

 出来ることなら、同席しないで済む方が有難いのだけれど。

 

「で、アレは何をやらかしたんだい?」

「マティスを寄越せと言い出しましたねぇ」

「……父上はそれに何と?」

「承諾したようですよ」


 リィンが席につくなり、さっさとテーブルの上の生ハムとクリームチーズが盛られたカナッペに手を伸ばしたアルベリクが、はぁと息を吐く。

 

「使用人の雇用形態すら把握してないのか……あの人は」

「そのようで」


 マティスは、グラフトン前侯爵が平民から採用して使用人教育を施した侍従である。

 兄の専属執事であるマルクも、専属侍従であるニークも同様で、出自は平民だが侯爵家が雇い教育をした使用人だった。

 

 それは今でも続いていて、彼らの雇用主は未だ祖父であるグラフトン前侯爵なのだ。ウィルコール男爵である父ではない。

 

 彼らはそれぞれにアルベリクとリィンに仕えるために雇用されているので、異動させようとすれば祖父の許可が必要になる。

 そもそもが、雇用出来る使用人の人数が限られているにも関わらず、さっさとレリアに複数の侍女と護衛をあてがった両親を見て、致し方なく祖父が平民から募集して使用人として教育したのだ。今さら、ウィルコール男爵家の使用人として扱う訳にもいかない。

 

 ただ、リィンに侍女と護衛を、とはならずに侍従一人で護衛を兼ねろとするあたり、やはり祖父も祖父ではあるのだが。

 

「やはり、もうこれで正しかったんだろうなぁ……」


 椅子の背にもたれ、天井を仰いだアルベリクがぼんやりと呟く。

 思わずこぼれ落ちたといった感じの口調にリィンは怪訝に眉を寄せるが、追及はせずにクリームチーズに刻んだオリーブを混ぜ込んだカナッペに手を伸ばす。

 塩気のあるスモークサーモンを添えたそれは、僅かに垂らされた蜂蜜が不思議なアクセントになっていて美味だった。

 

 うん、あの人たちと席を一緒にするより、ずっと良い夕食じゃないの。

 

 味に満足しつつ食べ進めるリィンに、アルベリクは顔を戻して一度苦笑した後、同様に皿へと手を伸ばす。

 食べられるうちに食べる。それは、リィンとアルベリク、二人のウィルコール兄妹にとっては、絶対正義でもあった。

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