第46話クナイ13


「私を初めて見かけたのは、諜報員として潜入した時と言っていたわよね……クナイは何歳からその仕事をしていたの?」


「十に満たないころからもう戦闘員の一人として頭数に加えられていたよ。母親が死んですぐに軍の養成所に入れられたから、そこで訓練を受けて、十二の歳にはもう諜報員として活動していた」


「あ、お母さまが亡くなられて……ごめんなさい。そんな頃から……」


「謝るな。今更だ」


 母の話題に触れてしまったことに対してハンナは謝罪したが、生きてはいないと予想がついていたのだろう。それ以上母のことは訊ねてこなかった。


 魔術師として家にはほとんど帰れなかった父に子どもの養育などできるはずもなく、母を亡くしたあとは国から半ば強制的に軍が運営する養成所へ行くよりほか選択肢はなかった。同じような境遇の子どもたちと共に、人殺しの訓練を受けさせられ、職務に就くまでに地獄のような経験をした。

 十歳から頭数に加えられていたと聞いて、それだけでその頃の俺の状況を察したのか、ハンナの顔色が悪くなる。


「私を見かけた時、綺麗なドレスを着て、飢えとは無縁の贅沢な生活をしている姿を見て、どんな風に思った?」


 自分だけ逃げ出して、労働とは無縁の環境で教育を施され幸せに暮らしていたら怒りを覚えたのでは? と問われたが、首を振って否定する。


「お前に対しては怒りも憎しみもなかった。俺とはもう別の世界で暮らしているんだと気付かされただけだ。幼馴染だった『ハナ』はもういないのだと、あの時理解したんだ」


「そんなこと……もし、声をかけてくれたら、違った未来があったかもとは思ってくれないの?」


「無理な話だ。染み一つない綺麗なドレスを着て真っ白な手袋をしているお前が、泥と血に塗れた汚い姿の男に近づけるか?」


「あなたが名乗ってくれたのなら、きっと私は昔のように手をつなげた。手袋が汚れるなら外せばいいもの。泥がついたなら洗えばいい。そんなことで私は幼馴染を拒んだりしない」


 もう幼馴染ではないという俺に対し、今でも幼馴染だときっぱりと言い切るハンナに、そうなんだろうと今は素直に思える。

 だがあの頃にもし同じことを言われても信じられなかったはずだ。高みから綺麗ごとを語るなと切り捨てるはずだ。

 たとえ表向き拒否しなくとも、心の中では汚れた俺を嫌悪すると思い込んでいた。それが俺の間違いだったと今更気付いても何もかも遅い。


「呪いに侵された夫にもためらいなく触れるくらいだからな。本当に拒まなかったんだろう。それに気づければよかったが、後悔しても遅いな」


 顔をあげると、まっすぐに俺を見つめる彼女と目が合った。

 取り繕うこともできずにその瞳を見つめ返してしまうと、丸裸にされた気分になった。魔力で武装しようと、長い時間一緒にいることで彼女の心眼を拒めなくなっている。

 じっと見つめる瞳は、俺を通してもっと遠く、奥深くまでを見ているように感じた。


「クナイは……何を後悔しているの? あなたの本当の後悔は何?」


 問われて、ここが潮時だろうと決心がついた。すべてを告白して、彼女を手放す。きっと今がその時なのだ。


「あの賭けは、最初から俺が勝つと分かっていて持ちかけた。お前は勝てるはずのない賭けに乗せられたんだよ」


 目を逸らしながら罪の告白をする。だが彼女からの返事はない。


「あの男にひとつ呪術をかけておいた。自白魔法のひとつで、理性が薄れ、感情のコントロールが効かなくなるだけの簡単な術だ。だが、呪いに侵され精神的に追い詰められていた奴には効果的に働いた」


 死の呪いから生き残った男を見た時、醜悪な見た目になった夫をハンナは嫌悪するに違いないと考え、とどめを刺すのを止めた。

 愛する妻に疎まれ絶望しながら死ねばいいと願ったが、もしもハンナが夫を見捨てられなかった場合の可能性を考えて、小さな呪いを仕込んでおいた。


 かけられた本人も周囲も気づかないほど、些末な呪いだ。解呪しなくとも、自浄作用で消せてしまう程度の効力しかないが、これを受けた者は本音を隠すことができなくなり、怒りの制御ができなくなる。

 たったそれだけの呪いだが、集団の統率を崩すのに十分な効力を発揮する。そのため敵陣に潜入して上官にその呪いをかけて内部から部隊を壊す目的で使われたりしていた。


 これをあの男にかけたのは、もしハンナが男を見捨てない選択をした場合の保険だった。

 実際、男は怒りを抑えられなくなった。

 醜い見た目と絶え間なく続く痛みに精神が不安定になり、面倒を看てくれる感謝すべき妻にも暴言を吐くようになる。


 それでもハンナは夫を見捨てなかった。

 暴言に加え、暴力を振るわれてもハンナの意思は変わる様子がない。

 使用人ですら近づくのを嫌がる夫の世話を献身的に続け、呪いを祓う方法を必死に探し続けた。


「すぐに逃げ出すと思っていたのに、お前の献身は変わらなかった。だから『賭け』を持ちかけたんだ。死の呪いから解放された男が、どんな行動に出るか予想はできたからな」


 理性の働かなくなった男の行動は読みやすかった。

 健やかな体を取り戻した自分と、呪いに侵され醜くなった妻。

 呪いを引き受けてもらった感謝よりも嫌悪が上回った男は、簡単にハンナを突き放した。そして欲望のままに女と関係を持ち、肉欲におぼれ、ますます妻を疎み最終的に遠い地の別荘に追いやった。


「理性が効かなくなるだけの呪いだというのに、こんなにも分かりやすく最低な人間に堕ちるのかと笑ったよ。せいぜい、他に女を作るくらいだと踏んでいたのに、死ぬことを期待して遠い地に追いやるまでになるとはさすがに思っていなかった」


 一人語りをするようにペラペラと喋るが、ハンナからは何の言葉も返ってこない。


「だからハンナが賭けに勝てるはずがなかった。最初からお前は、俺に騙されていたんだよ」


「それがクナイの後悔?」


 ようやく、ぽつりと呟くような声で問われる。小さいが、嘘を許さない凛とした声だった。


「後悔しているのは……お前の本質を見誤っていたことだ。呪いを引き受けてやったのに、その感謝も忘れてあっさりと他の女に乗り換えお前を遠い地へ追いやった男のことを、恨んで憎むようになると思っていた」


 裏切った夫を許せない、復讐したい、殺してやりたいとハンナの口から怨嗟の言葉が出てくるのをずっと待っていた。美しい顔を醜くゆがめ、夫の裏切りを罵り、穢れの知らないその白い手を血に染めてほしいを願っていた。


 だが俺の願いは叶うことなく、ハンナは夫の裏切りも仕打ちも全て受け入れ、独りきりのあの別荘で静かに死のうとしていた。


 俺は本当の賭けに負けたのだ。

 心から信じていた人間に裏切られたら、どんな人格者であっても憎まずにはいられないと俺の考えに彼女を当てはめた時点で負けていた。


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