メビウスの迷宮

オダ 暁

第1話

メビウス・・・

それは時間や空間のない世界

はじまりもなければ、おわりもない


一瞬はたちまち永遠の時を刻み、空間は

多面鏡さながら幾つもの世界を映し出す

あなたが存在するのは一枚の鏡

しかし、もしも

鏡の向こうに足を踏み入れて

しまったら永遠に彷徨うことだろう

メビウスの迷宮を



 マンションの前でタクシーを降りた途端、私はうだるような熱気に包まれた。

 玄関の自動ドアを足早に通り、管理人室を横目にエントランスを抜けて、突き当りのエレベーターの前に立ち止まった。

 階数表示は最上階の8を示している。

 電飾の表示ではない。扉の上についた三角形の金属板が、1から8までの数字を、横に一つずつゆっくりと動くアンティーク調の作りである。

 エレベーターの内側の階数表示もやはり同様だ。昔は洋風建築の高級ホテルだった建物をマンションに改装したわけで、その名残が随所に残っている。

 例えばエントランス。天井は高い。

 真鍮の鎖からぶらさがったシャンデリアは派手な装飾は無く、シンプルな幾つかの電球が、いぶし銀に似た光を放っている。

 赤褐色のレンガ張りの壁にステンドグラスの小窓が不規則に並び、エレベーターホールにはダリの絵と大きな砂時計のオブジェが置かれている。

 ホテルを造ったのは外国人の好事家だったのだろうか?それとも大正浪漫風の家具や調度品に憧憬を持つ日本人なのか?その答えは知らないし興味もあまりない。このマンションに決めたのは妻が希望したから、その理由だけだ。ここに入居したのは、ごく最近のことだ。


「私、王子様が迎えに来てくれるのを、ずっとずっと待っていたのよ」


 彼女は、何度も私に言った。


「いろいろな人が私に近づいてきたけど、少し付き合ってみて、わかるの。ああ、やっぱりこの人じゃない。他に本当の相手がいるはずだって、いつか必ず巡り合うはずだって」


 その度、私は答えた。


「五郎は違ったんだろう、彼には気の毒だったけど仕方ないさ。運命の相手は私だったんだよ」


 まるで桃源郷にいるみたいな、花が咲きみだれ蝶が飛びかう楽園を手にしたのだ。

 彼女と出会い、一緒に暮らしはじめてからも、この思いはずっと変わらない。妻は私にとって全てだった。

 今も、そしてこの先ずっと。

 そんなことを考えながら、私は上へのボタンを押して、エレベーターが降りてくるのを待った。

 ひどく蒸し暑い。銀縁の眼鏡が曇ってぼやけているうえに、背中や脇の下に汗がにじんで、なんとも気持ちが悪かった。

 真夏の葬式はこりごりだ。あいつ、あてつけみたいに自殺しやがって、最後までめめしい奴だった。

 舌打ちをし、再び階数表示を見上げた。どうしたことか8の数字のところで止まったままだ。仕方なくボタンを連打したが一向に動く気配がない。誰かがストップさせているのだろうか。

 私はいらついた。何をぐずぐずしているのだ。一刻も早く妻に会って、礼服を脱いで、うっとおしい黒ネクタイをはずしたい。あまりにじれったく、気が付けば階段に向かっていた。そして住まいがある四階まで一気に駆け上がっていた。

 身を軽くはずませ、階段の踊り場から吹き抜けの通路にまわった。ほんの少し歩いたところで妙な違和感に気づく。いつもより何だか高い所にいる気がした。

 足を止め、通過しかけた部屋の番号を見ると五〇三号室。間違って五階まで上がっていた。

 私はすぐにきびすを返す。また階段を下りて四階に戻ればいいだけのことだ。至って単純なはずだった。

 が、このあとまたも四階のつもりが三階まで降りていたことに、愕然としてその場に立ち尽くしていた。


 私は・・どうかしちまったのか


 今日は中山五郎の葬式だった。

 五郎の死に私は負い目があった。彼の恋人に横恋慕し、殆ど略奪する形で自分の妻にしたからだ。彼の苦悩は予想できたが、それでも私はそうしたかった。

 彼女と出会った日のことは今でも忘れられない。五郎は照れながら、しかし誇らしげに恋人を私に紹介した。大柄な彼に抱き寄せられるようにして、彼女はいた。潤んだ瞳が私に小さく微笑みかけた。

 ほっそりしているのに、よく見ると肉感的な身体をした、透き通るような肌をした女だった。

 魅惑的な形をした薔薇色のくちびる。甘い声でささやき、何気ないしぐささえコケティッシュな彼女に、私は一目で恋をしてしまった。

 まるで魔法でもかけられたように。

 たとえ世界を敵にまわしてでも彼女が欲しくなったのだ。そして熱情のままに行動し、私は思いをとげた。あれほど女に夢中になったのは生まれてはじめてだ。

 おとなしく善良な五郎は何ひとつ恨み言を言わず、そして遺書も残さずに自らの命を絶ってしまった。

 妻はショックで寝込んでしまい、結局ひとりで通夜や葬式に行くことになった。良心の呵責も当然あったが、事情を知っている人間の冷ややかな視線が苦痛だった。

 どうにかやり過ごし、疲れ切った体を引きずるようにして帰り、そのあげくに階を二度も間違えるとは動揺を通りこし錯乱しているのだろうか。

 ここは三階なのだ。今度こそ注意して四階に戻ろう。

 私はまわりを見ながら、ゆっくりと階段を上がっていく。すぐに四階への踊り場が見えた。

 あと数歩というところで、足元がぐらりと揺れる。

 まさか地震?

 思わず足を止めたと同時に、遠くの夕焼けがひときわ濃い茜色に輝き、私は眩しさのあまり気が遠くなっていった。

 辺りが二重三重にとダブっていく。景色が四方に広がっていく。

 私はその場にうずくまった。意識がしだいに薄れていき、瞬間すごい力で体がどこかへ飛ばされ、それから先は記憶がない。

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