友里の言葉

(浩司君、義人から聞いてる? 愛佳ちゃんと連絡取れた?)


 電話に出た途端に、瑠美はこちらの言葉も聞かずに、続けざまに聞いてくる。


「愛佳に連絡取れたんだけど、今は橋の上にいると言われたんだ。でも、橋の上がどこか分からないんだよ」


(橋の上……もしかしたら、高速道路の上を走っている道路じゃない? 中学の通学路にあった)


「あっ……あれか……」


 きっと瑠美が言っているのは、高速道路の上を横断する道路で、高速道路を川に見立てれば橋に見える。僕たち四人が中学生の頃、毎日通学していた道路だ。


(愛佳ちゃん、あの道路の事「橋」って呼んでたし)


「そうだな、あそこから下の高速道路見るの好きだったしな……今すぐ、行ってみるよ」


(私も義人に連絡して、向かうわ)


 僕たちはお互いに橋に向かう事にした。


「私も付いて行くわ」


 友里さんはすでに帰る準備を終えてそう言った。


「えっ、でも……」

「冷静な第三者が居る方が良い。もうタクシーは手配したから、表で待ってる。早く帰る準備して来なさい」


 手際よく冷静な友里さんの存在が有難かった。


「ありがとうございます」


 僕は礼を言って、更衣室に荷物を取りに向かった。


 急いで会社を出ると、すでにタクシーが到着していて、友里さんが乗り込んでいる。


「じゃあ、お願いします」


 僕が乗り込むと、友里さんはすぐに運転手を促す。友里さんに大まかな場所を伝えていたので運転手にも行先が伝わっているようだ。運転手は「はい」と返事をしてすぐに車を発進させた。


 この時間だと、三十分ぐらいで着くだろう。少しでも早く着いて欲しい。気持ちばかり焦ってしまう。こうしている間も、愛佳にはラインで「もうすぐ行くから」とかメッセージを送っている。既読が付く間はまだ大丈夫と安心できるのだ。


「すみません、こんな事に付き合わせちゃって」


「私が勝手に付いて来ただけだから、謝る必要は無いわ。それに今日は津川君が手伝ってくれたから早く帰れるようになったんだし」


 何故だか凄く惨めな気持ちになった。自分の妻にさえ必要とされず、尊敬する先輩に心配かけて、本当に情けない。必死で考えられなかったけど、こんな僕が愛佳に会っても意味があるんだろうか?


「妻から、僕は彼女の事を何にも分かってないと言われました……」

「えっ?」

「何でもして欲しかった訳じゃ無い、自分を認めて欲しかっただけだって……」

「そうなんだ……」

「僕は自信が無かったんです……」


 弱気に流れた気持ちが口を突いて出てくる。


「愛佳の気持ちなんて考える余裕も無かった。ただ、顔色うかがって、ご機嫌取りしていただけだったんです……僕なんか……」


 下を向き、両手を握りしめ、声が震える。


「私は良いと思うな」


 友里さんは握りしめた僕の手の上に、自分の手を置き、優しそうな笑顔を浮かべてそう言った。


「良いと思う?」

「そう、津川君の長所は一生懸命で真っ直ぐなところよ。だからあなたは卑下する必要なんてない。変わる必要さえ無いわ。私が保証する」

「友里さん……」

「私の言う事、信用ならない?」

「いえ、そんな……」

「じゃあ、自信を持って。奥さんを救えるのはあなただけよ」


 そう言って友里さんは優しく微笑んだ。ドキッとするほど美しい女性だ。浮気して、体の関係を持った時より、今の友里さんの方が輝いて見える。あの時はただ流されただけだった。自分に自信が持てず、相手を見る余裕さえ無かった。今の友里さんの方が何倍も僕に自信を与えてくれる。


 そうだ、友里さんがここまで言ってくれているんだ。これ以上弱音吐いてちゃ失礼になる。


「そうですね。妻を救えるのは僕だけです」


 僕は自分に言い聞かせるように呟いた。



 タクシーが目的地に到着した。橋の上は停車出来ないので、少し手前に停めて貰う。


「支払いしておくから、先に行って」

「ありがとうございます」


 友里さんに支払いを任せてタクシーを降りる。すると、すぐ後ろに別のタクシーが停まった。


「瑠美!」


 後ろに停まったタクシーから瑠美が飛び出してくる。


「浩司君!」

「急ごう!」


 駆け寄って来た瑠美と一緒に、橋へと向かう。


「義人が先に着いている筈だけど……」


 義人のアパートはすぐ近くだ。瑠美の言う通り、一番先に来れるだろう。


 片側一車線の橋には両サイドに十分な広さの歩道があった。その歩道、橋の中央部で揉めている男女が居る。義人と愛佳だ。


「だから帰ろうって!」

「嫌! 放してよ」


 橋の欄干にしがみ付いている愛佳の後ろから、抱きかかえるように引っ張っている義人。その姿を見て、義人が愛佳に言った「当てつけで付き合っていた」との言葉を思い出し、怒りが甦ってきた。


「義人ー」


 僕は怒りに任せて義人に殴りかかった。非力な僕の拳は小学生でも避けられそうだったが、見事に義人の頬を捉えた。奴が全く避ける動作をしなかったからだろう。


 義人は地面に尻餅を付く。


「もう止めろ」


 追撃しようとした瞬間、僕は後ろからがっちりっと抱きかかえられた。


「織田さん……」


 首を回して後ろを見ると、なぜか織田さんだった。


「義人君になんて事するのよ!」


 愛佳が手を広げて、僕と義人の間に割って入った。僕はその姿を見て体の力が抜ける。と同時に織田さんも手を放してくれた。


「良いんだよ。気が済むまで殴れよ」


 義人が愛佳を押し退け、僕の前に立つ。自分の罪を認めて、進んで罰を受けようとしているみたいだ。


「浩司君やめて。殴るなら私を殴りなさいよ」


 愛佳がまた、義人の前に立つ。とその時、バチンと音が鳴り響いた。


 瑠美が愛佳の頬をビンタしたのだ。


「あんたいい加減にしなさいよ! 誰の心配して、みんな集まっていると思っているの」


 こんなに怒る瑠美を初めて見た。愛佳も頬を叩かれた痛みより、驚きの方が勝った表情をしている。


「だってー」


 愛佳が泣き出す。


「浩司君の事も考えなさいよ。これだけ一途にあんたの事を愛しているのに」


 今度は瑠美まで泣き出した。


「ごめん、瑠美、僕は一途な人間なんかじゃないんだよ」

「えっ?」


 突然の僕の告白に、瑠美も愛佳も驚いて動きが止まる。


「僕は浮気したんだ」

「嘘でしょ?」


 瑠美は信じられないのか、引きっつった笑顔を浮かべている。


「嘘じゃない。僕は自分への自信の無さから逃げ出す為に、愛佳を裏切って、ある女性と浮気したんだ。勝手なものだよ。相手の旦那さんを傷付けているとか思いもよらなかった……。その女性に対してもそうだ。悩んで自棄になっているのに気付かず抱いてしまうなんて……。尊敬している人だったのに。もっと違う形で力になれた筈なのに……。僕は弱すぎて都合の良い方に流れてしまったんだ……」

「どうして、そんな……」

「やめろよ」


 なにか言おうとした瑠美を義人が手で制した。


「愛佳、本当は記憶を失っていないんだろ?」


 俺の発言に、愛佳も瑠美も、恐らくこの場に居た全員が、みんな驚いた顔をしているだろう。


「ど、どうして……」

「やっぱりそうだったんだ……二回目に義人のアパートに迎えに行った時に、僕たち二人だけの時があっただろ。その時に分かったんだよ」

「どうして? 私は完璧な演技した筈なのに」

「愛佳が悲しそうな顔をしてたから……」

「えっ?」

「毎日一緒に暮らしていたんだから、あの顔を見て分かったよ。結婚前には無かった、僕に対する情を感じたから。それに、さっきの電話で確信したよ。あれは結婚してからの事だろ」

「あっ……」


 愛佳は感情的になっていて、演技を忘れていたのだ。


「でも認めたくは無かった。記憶を失っていて欲しかった。だって、あれだけ酷い振られ方をしたのに、まだ義人が好きだったなんて認めたくなかったんだ……。あんな振り方をした義人より僕の方が下だと認めたくはなかったんだ……」


 目から涙がこぼれてきた。こんな惨めな事を言いたくは無かった。


「私が浩司君の自信を失わせて、苦しめていたんだね……」

「愛佳、一生傍に居てくれ。強くなるから、義人を忘れさせてやるから……」


 僕は愛佳を抱き締めた。


「絶対に幸せにする。好きにさせて見せるから、僕に付いて来てくれ」

「浩司君……」

「尊敬する大切な人が勇気をくれたんだ。僕は絶対に変わって見せる。愛佳を幸せに出来るのは、僕しかいないんだ」

「浩司君は私で良いの? 私、自分勝手でわがままだよ」

「それで良い。僕は今のままの愛佳が好きなんだ!」

「浩司君」


 僕たちは、瑠美、義人、織田さんや友里さんが見守る中、歩道の上で強く抱き締め合った。


 何か解決した訳じゃない。全てこれからだ。でも僕は気ままで素直な愛佳が好きだ。きっと僕を好きにさせて見せる。一生懸命に……。

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