織田友里

浩司の怒り

 木曜日の朝、私が目を覚ますと、裕君はすでに出勤していた。昨日の口論のわだかまりが残っているので、顔を合わしたくなかったのだろう。私もその方が良かった。


 もう私達夫婦は駄目なんだろうか。記憶が戻ったとしても、仲直り出来る気がしない。


 重い気持ち、寝不足の体、最悪のコンディションで出勤の準備をしてマンションを出た。


 出社すると、津川君はすでに自分のデスクで仕事の用意に取り掛かっている。裕君と口論になったので忘れていたが、肝心の津川君の友達の件は解決していない。


「津川君、おはよう」

「あ、おはようございます」


 まだ始業前で人もまばらだ。昨晩の話をするなら今だと思った。


「あの、昨日の瑠美さんって人の話だけどね……」


 私は津川君に顔を近づけ、声を潜めて話し始めた。


「あ、旦那さんに話してくれたんですか?」

「うん、話したんだけどね、仕事の話もあるしって、会わない約束はしてもらえなかったわ……」

「そうなんですか……」


 津川君が明らかに落胆した表情になったので、申し訳なくなった。


「力になれなくて、ごめんね」

「あ、いえ、とんでもない。話して貰っただけでも有難いです。でも、友里さんは良いんですか?」

「えっ、良いって?」

「いや、旦那さんが女性と二人っきりで飲みに行ったりしていても」

「ああ……」


 もちろん気にならない訳じゃない。でも、私にはそれを言う資格は無いから。


「もちろん、良い気はしないけど、仕事の関係なら仕方ないよね。浮気するとは思わないから大目に見るわ」

「そうですか……」


 と、話しているうちに、業務開始のブザーが鳴った。みんながそれぞれのデスクの前に立ち、課内のミーティングが始まった。



「おい、織田。ちょっと来てくれ」


 業務を開始して二時間ほど経った頃、自分のデスクで仕事をしていた私は高宮課長から呼ばれた。


「はい」


 私は課長のデスクの前に向かった。


「これ、お前が処理した書類だよな」


 そう言って課長は私の目の前にA四の用紙を三枚、バサッと投げ出す。私はその用紙を手に取り、内容を確認した。見たところ初めて見る書類で記憶にはない。日付は二か月半前になっていて、処理担当者は私になっている。


「すみません。たぶん記憶を失う前に処理した物だと思います。これが何か問題になっているんですか?」


 初めて見るフォーマットで、今の私には何が問題なのかさえ分からない。


 私がそう言うと、課長はチッと舌打ちした。


「記憶を失ったから責任ございませんってか? こんな雑な仕事しといて知りませんじゃ済まないんだよ。盆休み前で時間が無いんだ。今日中に作り直せ」


 そう言われると、何も返答は出来ない。私は「はい」と返事をして、書類を手に取り、席に戻った。


 自分のパソコン内のフォルダから元のファイルを探し始める。書類の内容に該当するフォルダからファイルを探し出すのだが、結構面倒だ。


「どうしたんですか?」


 横の席の津川君が心配そうな顔で声を掛けてくれた。


「うん、どうも記憶を失う前に私がミスしちゃったみたい」

「どんな事ですか?」

「えっ? これだけど……」


 私が書類を手渡すと、津川君の顔に赤みが帯びてくる。


「これは……友里さんのミスじゃない」

「えっ、そうなの?」

「僕は覚えています。これは課長が指示して作らせた書類で、友里さんはこれじゃ駄目だと抗議していたんですよ。でも、課長が責任は持つから作れって……」

「おい、津川!」


 と、その時、津川君が課長に呼ばれる。津川君は「はい」と返事をして、書類を持ったまま課長のデスクに向かった。


 何事かと思い、自分のデスクから様子を窺うと、課長と津川君は言い争いを始めた。あの大人しい津川君が課長と言い争いうなんて、ただ事ではない。私は急いで課長のデスクに向かった。


「お前は余計な口出ししなくて良いんだよ」

「でも、これは課長の指示で作った書類じゃないですか。記憶を失くしたからって、友里さんに責任を被せるなんて、黙ってられませんよ」


 これだけ興奮している津川君を見るのは初めてだ。ましてや相手は高宮課長だ。課長は口煩いから、多少理不尽な要求でも、今までは黙って引き受けていたのに。


「誰の指示なんてお前に関係ないだろ。どうせ課の事は俺が責任取らなきゃいけないんだ」

「いい加減な事を言わないでください。どうせ課長は上の人間に友里さんの責任だと説明する気でしょう。今まで何度もあったじゃないですか!」

「お前、誰に向かって……」

「課長」


 私は自分の事で戦ってくれている津川君の姿を見て、堪らず割って入った。


「今の話は本当ですか? 実はもうすぐ記憶の治療薬が配布されると聞いています。私の記憶が戻れば、真実が判明します。話が嘘であるなら、当然上に報告しますがよろしいですか?」


 私は課長の目を見て一気にまくし立てる。課長は気まずい表情で、チッと舌を鳴らした。


「ああ、そういやあ、俺が指示したかもな。少し記憶違いしてたかも知れん。まあ良い、改めてこの書類の修正を、織田に指示する。今日中にやっとけ」


 課長は書類を手に取りそう話すと、また私達の前に投げ出した。


「あなたって人は謝る事も出来ないんですか?」


 津川君が怒りに震えている。


「津川君、もう良いよ」


 私は書類を手に取ると、津川君の腕を引いて、課長のデスクから離れた。


「ありがとう、津川君。私の為に課長に抗議してくれて」

「いえ……どうしても黙ってられなくて」


 私達は自分のデスクに戻ると、声を潜めて話し始めた。課長はまだこっちを見て様子を窺っている。


「本当にありがとう。でも、もうこれ以上はやめて。課長の性格からして、あなたが恨まれるわ」

「わかりました……」


 津川君はまだ、怒りが収まらないようで、憮然とした表情をしている。その表情が少年のようで、見ていて顔が熱くなった。普段は大人しく、温厚な彼だが、イザという時には正義感があって頼もしい男性なのだと見直した。


「津川君があれだけ言ってくれたから、私は救われた。後はこれを修正して叩きつけてやるわ」


 私がそう言うと、津川君の表情が少し緩んだ。

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