織田友里

噛み合わない二人

 午後十一時、私はリビングで観てもいないテレビを点けながら、裕君が帰って来るのを待っている。今日も遅くなると連絡があったから、夕食は一人で済ませた。


 今日、会社で津川君から聞いた事が頭から離れない。今も瑠美さんと言う人と会っているんだろうか? もしそうだとして、私にそれを止める権利があるんだろうか? 浮気した私に……。


 十二時前、日付が変わる少し前に、裕君は帰って来た。


「お帰りなさい」

「ただいま。起きてたんだ」


 玄関へ迎えに行かず、リビングでソファに座って待っていた私を見て、裕君は少し驚いたようだ。普段はこの時間なら、私はもう寝ているからだろう。


「会社の人間と飲んでいたんだ。食事は食べてきたから」


 ラインで連絡があったから知っている。


「そう、大勢で飲みに行ったの?」

「えっ、ああ、そうだな。課の人間と行ったからな」


 私は立ち上がり、キッチンに行きがてら、リビングの入り口に立つ裕君の横を通る。例の香水の移り香を感じずホッとした。


「麦茶飲む?」

「ああ、ありがとう」


 私は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して、二つのグラスに注いだ。テーブルのいつも裕君が座る席にグラスを一つ置き、私はもう一つのグラスを持って、向かいの自分の席に座る。そんな私の動作を見て、裕君も自然な流れで自分の席に座った。


「飲み会は楽しかった?」

「ああ、気分転換になるからな」

「いつも遅くまで仕事で大変だもんね。お疲れ様」

「ああ、ありがとう……」


 裕君は居心地が悪そうな表情で、麦茶を一口飲んだ。


「今日、会社の津川君が話があるって言われてね」

「ええっ! 津川が?」


 裕君の表情が途端に険しくなる。


「津川君の友達に義人って人が居るの知ってる?」

「……まあ……」


 裕君は気まずい表情を浮かべて、小さく頷いた。


「津川君はその義人って人から、自分の奥さんが裕君と飲みに行ってるらしいから、もうやめるように言ってくれって言われたそうなの」


 裕君の顔色が変わる。


「瑠美って人を知ってる?」

「ああ……」

「飲みに行ってるって本当の事なの?」

「疑っているのか?」

「えっ?」


 いきなりそう言われて驚いた。私は裕君を疑っているのだろうか? そもそも疑うって何を? 裕君が浮気しているとは思わない。それは津川君もそう言っていたし、そう言わなくても、裕君が浮気するとは思えなかった。


「そうじゃないの。別に裕君が浮気しているなんて思ってもいないわ」

「じゃあ、どうしてそんな事を言ってくるんだ」

「いや、津川君から……」

「俺は浮気はしていない。幸田君と飲みに行っているのは事実だが、仕事の関係の付き合いだけだ」


 感情的になる裕君を見ているのは辛い。言い訳を重ねられるほど、心が冷たく重くなっていく。


 裕君からすれば、浮気していた私がこんな事を言ってくるのが許せないのかも知れない。どうすれば良いんだろうか?


「落ち着いて聞いて。私はあなたを責める気持ちは無いの。そんな資格が有るのかも分からないし……」


 私がそう言うと、裕君は小さくため息を吐いた。


「瑠美さんの旦那さんは、もう飲みに行くのをやめて欲しいって言っているみたいよ」

「あの夫婦も今は特殊な事情なんだ。幸田さんも三年間の記憶を失っている。結婚した記憶も失っているから、夫婦としては成り立っていないんだ」


 裕君は少し落ち着いたように話し、グラスのお茶を飲み干した。


「結婚の記憶を失ってても、結婚していた事実は変わらないわ。旦那さんの気持ちを優先するべきじゃないの?」

「結婚生活の記憶が全て無くなっているんだ。だからこそ、幸田さんは義人のアパートを出て実家に帰っている。旦那がなんと言おうと、今は二人にとって結婚の事実は消滅しているんだよ」


 裕君の言い分に、腹が立った。


「酷いじゃない、私が今どんな気持ちで毎日を送っているか、分かっているの?」

「どんな気持ちって、どういう事だよ」

「そんな事言うなら、私の浮気の事実も消してよ! 私は自分の記憶に無い浮気の事実で、毎日苦しんでいるのに……記憶の無い人間の思う通りになるなら、私の浮気も消してしまってよ……」

「それとこれとは別だろ」

「なにが別だって言うの! 旦那さんにとっては結婚は確かにあった事実。あなたにとっての私の浮気も確かにあった事実なんでしょ? 結婚が消せるなら、浮気だって消せるはずでしょ」

「お前は裏切った人間で、俺は裏切られた人間なんだ! お前が俺に意見が出来る立場じゃないだろ!」

「分かった。もう何も言わないわ……先に寝るね」


 私はそう言った後に、自分のグラスを流しに置いて寝室に向かう。


「ちょっと待てよ……」


 裕君は引き止めようとしたが、これ以上話をする気力が無く、私は聞こえない振りをして寝室に入った。


 先に眠ると言ったが、布団に入ってもなかなか寝付けない。


 もう駄目かもしれない。そんな思いばかりが頭の中に浮かんで離れなかった。

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