織田友里

浩司と食事に

 私が記憶を失ってから一か月が過ぎた。七月に入り、服装は軽くなってきたが、心は重苦しいままだ。


 仕事に関しては慣れてきて、津川君の手を煩わせる事も少なくなってきている。だが、私の浮気相手の同僚が誰か分からず、落ち着かない。外見的に魅力的な男性がいない訳じゃないけど、かと言って裕君以上の人とは思えない。浮気したという事が信じられないくらいだ。


 裕君とは冷戦状態のまま。喧嘩はしないが、楽しく話をすることも無い。当然夫婦の生活も全くない。そもそも裕君の帰宅が遅いので、顔を合わす時間も短いから、まともに話も出来ていないのだ。今は記憶が戻るのを待つしかないと現状維持で耐えていた。



 金曜日のお昼休み。三井さんと昼食を食べる為に会社を出たが、気分が重く食欲が無かったので引き返した。会社に戻ると津川君が自分の席で憂鬱な表情を浮かべ、スマホを操作していた。声を掛けるのも憚られる雰囲気だったので、私は黙って自分の席に着いた。気になったが、他人の心配を出来るほど私自身も余裕が無い。


「友里さん、戻っていたんですね」


 余程スマホに集中していたのか、しばらくして私に気付いた津川君が声を掛けてきた。


「今日は早いですね」

「うん、ちょっと用があって引き返してきたの」

「そうなんですか……あ、もし食事がまだだったら、僕のお弁当食べます? 食欲無くて手付かずですから」

「ありがとう。でも気持ちだけ受け取るわ。それに、ちゃんと食べなきゃ奥さんに悪いわよ」

「ああ、あれ、僕が作っているんですよ」

「ええっ、あんなにマメなお弁当、自分で作ってるの?」


 津川君のお弁当は、いつも色取りや栄養を考えられていて感心していたのだ。


「ええ、お弁当だけじゃなく、朝夕の食事や掃除洗濯全て僕がやっているんですよ」

「そんな……奥さん仕事が忙しいの?」

「いえ、専業主婦です。いや、主婦とは違うかな」


 自虐的に笑う、津川君の目には光が無い。


「でも、そのままで良かったんですよ。何も望んで無かった。傍に居てくれるだけで良かったんですよ……」


 こんな不安定な津川君は初めて見る。私はどう言って良いのか分からず、「そうなの……」と相槌を打つしかなかった。


 昼休みの終わりを告げるブザーが鳴り、私達は仕事を再開した。津川君の様子が気になったので、私は横目で伺う。


 特に変わりない、いつもの津川君だ。だが、あんな話をしていたのに、そのいつもと変わらなさ過ぎる姿が、逆に不自然だと感じた。


 

 仕事が終わり、スマホを確認すると、裕君からラインが入っていた。今日も遅くなるから食事は要らないらしい。了解と短く返事を返す。


 今日の夕飯の買い物は済ませていたので、帰って作れば良いのだが、自分が食べるだけならやる気が出ない。お昼を食べていない分お腹も空いていたので、どこかで食べて帰ろうかと思い、会社を出て駅前に向かった。


 どこかで食べると言っても、女性一人じゃ店を選んでしまう。カフェで軽食でも良いかと思い、知っている店に行こうとしたら、居酒屋に入ろうとする津川君を見掛けた。


「津川君、先に帰ったんじゃないの?」


 津川君は、私の少し前に会社を出ていた。


「あ、友里さん。ええ、帰ろうとしていたんですが、晩御飯でも食べて帰ろうと思って」

「そうなんだ! それなら一緒に食事しない? 記憶を失くしてからずっとお世話になりっぱなしで、お礼がしたかったのよ。食事ぐらい奢らせてよ」


 私は良いタイミングとばかりに津川君を誘った。


「あっ、一緒に食事ですか……」


 津川君は困ったような表情になる。


「もしかして、女性と食事したら、奥さんに怒られちゃう?」

「いや、そういう訳じゃなくて……」

「じゃあ、私と食事が嫌なの?」


 ちょっと冗談めかして聞いてみた。


「あ、いや、とんでもないです。友里さんと食事が嫌なんて、ありえないです」

「じゃあ、行こうよ」


 私がそう言うと、津川君は決心がついたのか「じゃあ」と私の後に続いて居酒屋に入って行った。

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