瑠美の気持ち

「そういう事なら、私はここに居ても良いよね?」

「愛佳ちゃんは一度、浩司君のところに帰ったら? こうやって迎えに来てくれているんだし」


 私はせめてもと、愛佳ちゃんを説得してみた。


「自分がしない事を私に言わないでよ。私だって気持ちの整理がつかないのよ」


 愛佳ちゃんの立場なら、当然そう思うだろう。


「ごめん。愛佳ちゃんの言う通りだから、私には何も言えないわ」

「そんなあ、瑠美……」


 浩司君が泣きそうな声を出して私を見る。


「分かった、愛佳はここに居ろよ」

「おい、義人、何言ってるんだよ」


 義人の言葉に浩司君が驚く。


「仕方ないだろ。ただ、二人には信じて欲しい。俺は愛佳がここに来てから、一切手を出していないから」


 そう言う義人の表情は、普段と違い真剣だった。


「いや、今だけじゃない。結婚してからは瑠美以外の女を抱いたことは無いから」


 義人は真っ直ぐに、私の目を見てそう言った。


「私は信じるよ」


 浩司君は何も言わなかったが、私と同じく信じていると思う。


「ありがとう」


 義人は安心したように笑った。


 短い時間だったが、私と浩司君は愛佳ちゃんの説得を諦め、義人のアパートを後にした。結局、私が義人の元に帰らない限りは、彼女も義人を諦めないだろう。


「ねえ、どうして愛佳ちゃんの事を諦めないの? 浩司君ならもっと素直な良い娘見つかると思うよ」


 駅に向かって帰る途中、私は並んで歩く浩司君に、昔から思っていた事を聞いてみた。


「愛佳は素直な良い娘だよ」


 少し間を置いて、浩司君がぼそりと呟いた。


「そりゃあ、自分の気持ちには素直かも知れないけど、決して良い娘とは言えないでしょ? 私達三人とも昔から苦労させられてたじゃない」


 私がそう言い返すと、浩司君は足を止め私の顔を見る。


「本当にそう思う?」


 そう聞かれて、私は考える。確かに私達は愛佳ちゃんに振り回されてきた。現に今でも、彼女の言動で苦労している。でも、そんな愛佳ちゃんに助けられた事も多々あるのは事実だ。誰かが落ち込んだ時や悩んでいる時、素直な気持ちで親身になってくれる、彼女の励ましが一番心に響く。


「ごめん。確かに愛佳ちゃんは良い娘だね。私は何度も助けてもらったわ」


 私がそう言うと、浩司君はニッコリとほほ笑んだ。


「僕は愛佳の言葉が一番心に響くんだ。彼女に褒めて貰えると、本当に自信になる。慰めて貰えると、頑張ろうって気になるんだ」

「そんな、私だって浩司君の良いところを褒めたり、落ち込んでいる時に慰めたりしたよ」

「そうだね、ありがとう。瑠美にも感謝しているよ。でも、瑠美は優しいから」

「優しい?」

「そう、俺に悪いところがあっても、瑠美は見逃してくれるだろ。でも、愛佳は違う良いところも悪いところもストレートに言ってくれるんだ。だから……」


 浩司君はそこで言葉を途切れさせた。多分、だから信用できると言いたかったのだろう。浩司君に私を責める気は無いのだろうけど、信用はされていないんだ。でも、それは正しい。私は愛佳ちゃんほど素直になんでも言えてはいないから。


「そうか。じゃあ諦めずに愛佳ちゃんを説得するしかないね」

「そうだね……」


 それが難しい事だと分かっているからか、浩司君の表情が曇る。


「また協力してもらえるかな?」

「ごめん、もうこれ以上は、私に出来る事は無いと思う」

「そうか……」


 私達は気まずい雰囲気のまま、会話も無く駅まで歩いた。別れ際、「じゃあ」と短い挨拶でそれぞれのホームに向かう。私は少し歩いたところで振り返り、肩を落として歩く浩司君の後姿を見えなくなるまで見送った。



「はあ……」


 居酒屋のテーブル席でジョッキに三分の一程残ったビールを飲み干した後、私は思わずため息を吐いてしまった。


「おいおい、やっぱり、オッサンと飲みに来るのは辛かったのか?」


 織田さんにそう言われて、自分のしでかした事に気付いた。


「す、すみません、つい……あの、決して織田さんと飲みに来たのが嫌だからじゃ無いです。ちょっと思い出した事があって……」


 私は大慌てでため息の言い訳をした。


 私が記憶を失くしてから、一か月が過ぎた。未だに記憶は戻っていない。一か月の間に、仕事の面で織田さんには大変お世話になってしまった。そのお礼の意味で、私はご飯や飲み代を奢らせて貰っている。今回でもう三回目だ。


 織田さんと飲みに来るのは、お世辞抜きで嫌ではない。仕事や世間の話題でも織田さんの話は勉強になるし、面白い。飲み代が惜しいとは思えないくらいだ。


「冗談だよ。記憶が戻らないと、仕事は辛いだろうな」

「いや、仕事は本当に織田さんに助けて頂いて、順調に出来ています」

「仕事はか……じゃあ、仕事以外では悩みがあるのかい?」

「そうですね……」


 記憶が戻らず、ずっと中途半端な気持ちのままで暮らす生活にストレスが溜まっている。誰かに聞いてもらいたい気持ちはある。


「あのいい加減な旦那の事か? まだアパートには戻っていないんだろ?」

「そうですね。まだ実家です」

「それが良く分からないな。今の記憶でも旦那の事は好きなんだろ? あのアルバイトとの浮気が許せないのかい?」

「いや、あのラインは冗談だと分かっているんです。義人は浮気していないと思ってます」

「なら、アパートに戻れば良いんじゃないの?」

「あ、あの、私が義人の事を好きって、浩司君から聞いたんですか?」

「聞いたと言うか、なんと言うか……君はお見合いをするって津川に言いに行ったんだよ。でも津川がその理由を聞いても答えなかった。だから、津川は君が幸田義人に見合いの件を伝えて欲しいんだろうと考え、そうした。幸田義人は彼女、今の津川の嫁さんだな、その彼女を振って君にプロポーズした。で、君はそれを受けて、結婚したと聞いたよ」


 私が義人から聞いた話と同じだ。やはり、実際に起こった出来事なのか。


「津川の考え通り、幸田に見合いの話を知らせに行って、君たちは結婚したという事は、君は幸田義人の事が好きだったんじゃないのか?」

「それなんですよね。浩司君は誤解していたかも知れませんが、私、義人の事を男として好きだって思った事は無いんですよ」

「えっ、そうなの?」

「そうなんです。もちろん昔からの幼馴染で姉弟みたいに親しくしていましたから、いい加減なところは別にして、良い奴だと思うし、好きですよ。でも、男として見た事は無いですね。現に、中学生の時に義人から告白されて断ったんですから」

「そんな事もあったんだ」

「私には片思いの相手がいたんですよね……告白する勇気も無かったんですが。だから義人は断るしかなかったんです。それ以来ですね、義人の女癖が悪くなったのは。少し責任を感じてます」

「じゃあ、なぜプロポーズを受けたんだ? 中学時代から、何か気持ちの変化があったのか? いや、そもそもなぜ、津川にお見合いをするって言いに行ったんだ?」

「あっ、それはその……よく分かりません。気持ちの変化はないと思うんですけどね。でも、今の私にはとっては未来の出来事ですから」


 私はそう言って誤魔化した。


「そりゃそうか。今の君には分からない事情があったのかも知れないな」


 織田さんは納得したように、そう言った。


「じゃあ、今は恋愛感情が無いので、アパートで一緒に暮らすのは嫌だって事か」

「一緒に暮らすのが嫌だって程じゃないんです。ただのルームシェアなら、義人となら一緒に暮らせますよ。でも、相手は私を妻だと思っているんです。そのギャップが埋められなくて……」

「そりゃそうだな。配偶者と同居人ならえらい違いだよな。配偶者なら、その……求められたりはあるだろうしな」

「そうなんです。求められて、それを断って、一緒に暮らしていたら、必要以上に仲が悪くなりそうで……記憶が戻るまでは今の状態が良いのかと思っています」

「そうか、記憶が戻るのを待つしかないのか」


 そう言い終えると、織田さんはビールジョッキの残り半分を一気に飲み干した。


「次もビール頼む?」

「あ、ありがとうございます。酎ハイで……オレンジの」


 織田さんはお代わりの生ビールとオレンジ酎ハイをオーダーしてくれた。


「記憶を戻す薬が、案外早く出てきそうだと聞いたよ」

「そうなんですか?」

「ああ、製薬会社から連絡があった。既存の薬で効果があったらしい。今、承認手続きの為に厚生労働省が動いているようだ。被害の影響が大きいので、国も特例で早急に動いていると言ってたよ」

「そうなんですか」


 記憶が戻る。嬉しい反面怖い気もする。でも、今の中途半端な気持ちを考えれば歓迎すべきだろう。


「記憶が戻れば今の不安定な気持ちも解消するんだろうな……」

「ああ、一日でも早く、そうなって欲しいよ……」

「やっぱり、会社の方が大変なんですか?」


 織田さんから、会社で何人か記憶障害が出て残業が増えていると聞いていた。


「いや、会社は落ち着いてきたよ。言ってなかったかな? 妻も被害に遭って、記憶を失っているんだ」

「そうなんですか!」


 初めて聞いた話に驚いた。


「三年前は結婚されていたんですか?」

「ああ、それはしていたから、妻も覚えているよ。ただ、それ以外にもいろいろあってね……」

「三年間の出来事って重いですからね」

「そうだな……」


 ビールジョッキと酎ハイが運ばれてきた。


「暗い雰囲気になったから、仕切り直そう」

「はい」


 私達はもう一度乾杯して、話題を切り替えた。

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