二節

 制服を着込んだ秋乃が、玄関から出て行くのを見送ると、雷田は彼との距離が縮んだように感じた。尤も、実際の所どうかは分からない。ふたりの間に壁は無くなったように感じられたが、さて、本人はどうだろうか。

「行ったね」

 背後から晴村が言った。

「最後まで律儀だね。僕でもそうしたのかな」

「終末まではまだ明日もある。今日くらいは、まだ余裕があるんでしょう」

「余裕って、何の?」

 晴村は何でもないことだ、という表情を浮かべた後に、「無駄なことが出来るんだよ」

「無駄ねえ……」雷田はテーブルの上に置かれた複数のマグカップを回収して、「コーヒーのお代わりは?」

「貰おうかな。飲み終わったら、少し散歩しない?」ソファに座りながら、晴村が提案する。

「散歩? ……良いね」

 コーヒーメイカーからマグカップを取り出すと、晴村に手渡し、雷田は隣に座った。穏やかな朝に微睡を覚えて、雷田は平和だと感じる。もう少し未来では、何も残らない、廃墟と化してしまうのに。何故だろうか。シンクに積まれた洗い物や洗濯物に目を瞑れば、優雅な時間と言えるだろう。それ以上に今この時は、実現されなかったひとときなのだ。

 仕事のために単身赴任して、夏莉は大学院で忙しく、会えるのはホログラムでのみ。知らないことだったが、雷田はこの世を自ら去り、夏莉は現実に置いていかれた。その時に、時間は止まったのだろう。後は、地球の自転に追いつくのが精一杯なのかもしれない。彼女は、現実にしがみつけなくなったのだ。

 心なしか、浮き足立って見える。小さなことに幸せを見つけようと、必死になっているのだろうか。恐らくここに居ても、夏莉のためにはならないだろう。雷田はぼうっとしながらも、そう思った。

 いつかここを去らなければならなくなった時、彼女は本当に、ここを夢の世界と割り切れるだろうか。現実では眠り姫になっていて、生命維持のために起きなくてはならないという。融通の利かない夢だ。マグカップから伝わる熱気も、舌に伝わるこの味も、隣に座る彼女の温もりも、何もかもが幸せな夢という訳だ。

 奇妙なほど、雷田には現実が受け入れられた。何故だろうと考えてみて、捻出された理由としては、何の過不足もないからではないか、とした。いずれ来る未来への恐怖も、この安らかなひとときのためであったなら、耐えられるかもしれない……。と、そう思ったのだった。

「穏やかに消えていきたいな」雷田は呟く。

 晴村はぎょっとした。マグカップを側に置いて、雷田を捕まえる。雷田はびっくりして彼女を見つめ直した。

「えっと、どうしたの?」

「もう私を傷つけるのはやめて」晴村は泣いていた。「醒めたくない」

 傷心しているらしい、と雷田は思った。彼女の精神は今、赤子に戻っているのだ。まだ覚悟が出来ていないのだろう。しかし、強要するのもおかしな話だ。

「大丈夫だよ、安心して」雷田は晴村の気を鎮めるように頭を撫でる。「もう誰も夏莉を傷つけない」

 言ってみて、この台詞は誰のものだろうと考えた。雷田は夏莉と春臣の夢から生まれたキャラクターだ。キャラクターに人格はあるだろうか。自由意志は存在するのか。自分の言葉に魂は宿っているだろうか──

 被造物は造物主を愛するように出来ているものだ。雷田は確かに彼女を愛しているし、もう二度と裏切るような真似はしないだろう。ただ問題なのは、彼女が外側の世界に戻れるだろうか、という点にあった。夏莉の未確定未来には希望があるのに、彼女自身がそれを否定して見える。自分のために犠牲になるべきではないのだ。

「そうか──」

 雷田は晴村にも聞こえない声で、独り合点した。

 これは本当の雨宮秋乃が犯した罪を、もうひとりの自分──雷田が、尻拭いさせられているのだ。だから、霧浜夏莉を独り立ちさせるため、ここから追い出す役割を与えられたのだろう。痛ましく、一方的な別れを描いたから、彼女はどこにも行けなくなった。縋れるのは過去だけ。そのために、未確定未来よりも確定した過去を、未来に演出してしまったのだ。

 過去に出口はない。

 ならば、自分が案内しなければならない。

 どうして、そんなことをする必要がある?

 寝ている人を起こしてはいけない。

 特に、幸せな夢を見ているならば。

 彼女は現実に生きるべきなのだ。

 何故?

 その現実に傷ついたからこそ、夏莉は目を瞑った。

 目覚めろというのは無責任ではないか?

 だが、そのままの君で良いんだと言うのも無責任ではないか?

 すべては彼女の自由意志だ。

 本当に?

 雷田は晴村の確かな感触に、存在を実感した。自分が仮想世界のキャラクターなら、彼女は今、晴村というアバターを着込んでいる訳だ。つまり、彼女も仮想世界の内側の人になっている。

 雷田が未来干渉を受けたように、彼女もまた、仮想世界の意思に影響されていないとも限らない。彼女の記憶や、観測が恣意的に歪められている可能性だってある。そもそも、本当に夏莉と春臣の記憶だけから夢が生まれているとする証拠はない。

 考え過ぎだ、と雷田は自覚する。ここまで来たらパラノイアだ。けれど、どうしてふたりが目覚めるタイミング──要するに終末──を記憶装置が指定したのか? 春臣が想定した終末の正体が正しいのなら、だが……彼女らもまた、運命に支配されていると考えられる。

「僕は幸せだ」雷田は囁くように言ってみせた。

 この幸せもまた、脳内にてセロトニンが分泌されている訳ではないのだろう。そんなものまでシミュレーションする必要はないのだから。恐らくきっと、そのように感じさせられているだけだ。

「私も幸せ」

 だから晴村がそう言った時、雷田は彼女を夢の中から現実へと帰る手伝いをしよう、と決めた。

 彼女に、心残りがないように。


 寒いというほどではない風がひとつ吹いて、落ち葉を蹴散らした。足音のない、幽霊が通ったのだろう。現に今、晴村は幽霊と歩いている。雷田は自己同一性を再構築させて、このセカイを受け入れた。適応能力だけは、昔からある方だった。

 周囲に期待していないのだ、と彼女に言われたことがある。適応したのではなく、自律するために自立した結果である、と。雷田は驚いて、咄嗟に「そんなことはない」と言い返したものだった。

「僕はきっと、自立なんて出来ていないさ。不器用だからね。多分、他の人を頼ろうとしているんだ。そうすれば、どんな場所でだって、生きていけるだろう? 僕は誰よりも僕の弱さを知っている。だから、せめて現実をしっかり観察して、受け入れようと努力しているんだ」

 それでも彼女は納得せずに、

「でも、離れ離れなんて嫌だよ……」と、遂には泣き出してしまうのだった。

 しかし単身赴任しない訳にもいかない。雷田はすっかり困惑して、後はひたすらに宥める一方で、この細やかな言い争いはお終い。傷を舐め合うように、お互いを大切に扱った。

 多分、自分は感情表現が下手なのだろう。雷田は晴村とふたり、町を歩きながらそう思った。自分の意思というものが薄弱だったから、特別何かしたいという欲求を持たず、また誰かに期待するようなこともしなかった。頼ることと、期待することは恐らく違う。もう少し、夏莉に甘えるべきだったのかもしれない。

 彼女もまた、感情表現が苦手な人だったから、気が付けなかったのだろう。本当は何を望むのか。何が欲しいのか。ホログラムよりも、もっと実感を。彼女は求めていたのだろう。

 自分は──距離を測り間違えたのだ。

「もう秋だ」

「え?」晴村は目を瞬かせた。

「ほら、夏とは言えない気温でしょう?」

「ああ──そうね。うん。違く聞こえた」

「何て聞こえたの?」雷田は聞く。

「ううん。忘れて」

 冷たい空気が死の予感を撫で付けた。宇宙のような浮遊感が、心を巣食っている。魂が身体から抜け落ちたようだ。彼女が、雷田をキャラクターとして観測したのかもしれない。今はもう、実感が薄れつつあった。

 あまりに幸せすぎるから、とても怖い。幸福を享受出来るほどの人間ではないと考えているから、雷田にはこの後待ち受けるだろう別れに耐え切れるか心配になった。

 一分一秒が愛おしい。

 自分は今、この時間に執着している。

 雷田は込み上げて来るものを堪えて、辺りを見回した。

 愛は捨て去らなくてはならない。何のために──それは、すべてのために。

「終末に行った時」と、雷田は始めた。「この町並みだけが残っていた。今と変わらない景色だった」

 聞いているかと心配になって、雷田は晴村を見やった。彼女は隣で、何も言わずに先を待っている。雷田は安心して、

「どうしてかはわからないけど、そこに人は居なかった。人だけが消えていた。何故なのかな──電気は動いていたし、ピアスだって使える。タイムトラベルだって出来たし、セカイは生きていたのにね。どうして、人だけが消えるんだと思う?」

「わからない」晴村は雷田の腕を掴んだ。

「いや、正直僕にもわかってないんだけどね。ひとつ思うことがあるんだ」雷田は目線を少し上げる。「帰るべき場所に、還っていったんじゃないかな」

「秋乃──」

「他のものと違ってさ、人だけは、唯一忘れられるでしょう? だからさ、夏莉は──」

「私に忘れろって言うの?」

 晴村は立ち止まって、雷田を必死に睨みつけた。雷田は首を竦めて、そうじゃないんだ、と言葉を続ける。

「帰るべき場所に帰った方が良い。僕たちに近づいても、そう簡単には──近づけないみたいだから」

「でも私は忘れたくない」

「忘れろとは言わないよ。そうだ、なら、思い出を作ろう」

 それから雷田は森に行こう、と提案した。湖の上で、ボートに乗るのだ。きっと誰も邪魔をしない。静かな空間を楽しめるだろう。晴村は二つ返事で了承して、車に乗り込んだ。

「聞き忘れていたけど、久しぶりに運転するのどう?」からかうように晴村は聞いた。

 雷田は笑って、「命を預かってるっていう責任感が芽生えるよね」

「崖に突っ込んで無理心中でもする?」

「物騒なこと言うね」雷田はどきっとして突っ込みを入れた。「この町に崖がなくて助かったよ」

「流石に冗談です」

「どうして敬語なの?」

「理由は必要?」

「さあ……」雷田は微笑んだ。「教えるのも、教えないのも優しさだろうね」

 森が見えてくると、雷田は車を端に寄せ、駐車させた。鬱蒼とした一本道を抜け、曰くのある湖畔に辿り着く。桟橋からボートに乗り込み、オールで湖の真ん中まで漕いだ。その後は流れに身を任せて、雲のように流されていく。

 誰も何も言わなかった。静寂を楽しんでいた。髪を靡かせる風のことも、水面に揺れる落ち葉のことも、澄み切った青空さえも、美しく感じられる。セカイはやはり素晴らしい。雷田は視界に彼女と景色とを収めて、脳裏に刻みつけようとした。果たして、記憶装置に情報が残るかはわからない。これはきっと、自分自身の意思なのだ。

「下の時層と繋がってなければな」と、水底を見下ろしながら雷田は言った。「もしも落ちたりしたら、洒落にならないね」

 晴村が両手を構えて、落とす振りをする。雷田は笑って、やめてくれとお願いした。

 楽しい時ほど、重力でも歪められてしまうのか、時間は早く過ぎ去ってしまう。これはセカイにおける、唯一の過ちだと雷田は思う。何故、嫌なことには時間の経過が遅くなり、幸福な状況はさっさと居なくなってしまうのか。

 空はもう夕焼け色に染まり、辺りは暗くなり始めていた。

「帰ろうか」雷田は聞く。

「帰りたくない」晴村は駄々っ子に成り果てていた。

「明日もあるからさ。今日は、家に帰ってゆっくりしよう。秋乃を交えて、三人で夕食か。こりゃ家族みたいだなあ」

 ボートから降りて地面に足をつけると、変な感覚がした。これもシミュレーションなのかと、雷田は可笑しくなった。


 夕食は外で済ませる、と秋乃から連絡があった。四季クラブで集まるのだと言う。雷田は状況も状況だからと、引き止めることはしなかった。彼にもまた居場所があり、収まるべきところに収まったのだろう。

 ふたりで映像を見つめながら、寄り添いあった。別れを前提とした馴れ合いだと言うには、彼女の温もりは優しすぎる。雷田は水を飲み込んだ。

「今日は久しぶりにはしゃいだ」晴村がはにかんだ。

「僕も、久しぶりにボートを漕いだな」

「それってはしゃいでるの?」

「僕にしては、かなり」雷田はひとり頷く。「後、運転もはしゃいだね」

「何かすることをはしゃぐって言ってるの?」

「それだけ楽しめたってことかな」

 中身のない会話ほど、楽しめることはない。無駄なことには、余裕があるから着手出来るのだろう。目的のない時間を過ごせるというのは、何と平和なことか。

 映画を観て、音楽を聴いて、ふたりの空間を描く。そのうちに、

「そろそろ眠くなってきた」晴村はぼんやりとした顔つきで言う。

「じゃあ寝ようか」

「眠りたくない」晴村が首を振る。

「二歳児かな」雷田は笑った。「なら、好きなだけ起きていよう。まだ僕らは若いんだし、徹夜くらい大丈夫だ」

 多分、と付け足そうとして、雷田はやめた。一日に八時間の睡眠は必要なのだが、そんなことを言う状況ではない。ふたりはベッドに横になって、数を数えた。それが何を意味するのか、どんな理由を持つのか、誰にも知る事は出来なかった。

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