三節

 目が覚めると、昨晩の安易な返答が、二日酔いと共に蘇った。爽やかな朝日が、雷田の思考に影を作る。頭痛がして、眩暈のために視界は揺れ、気持ちが悪い。体調不良を理由に断ろうかな、と考えた。頭を押さえながら、ベッドから降りる。

 洗面所の鏡には、やつれた男が立っていた。雷田は寝癖だらけの頭を見て、苦笑する。やがて、起きがけの秋乃がやって来たので、部屋を後にした。キッチンにて簡単な朝食を作り、食事をした後に、秋乃は登校していく。外は雨だった。時刻は七時半。雷田は意を決して、身支度を整えた。

 トンネルまでは車で移動した。道路脇に駐車すると、雷田はトンネルへと歩いていく。空気が冷たい。レインコートが少し濡れて、寒気を覚えた。非常口前には、まだ春臣の姿はなかった。ピアスに確認すると、今は約束した時間の十分前と分かり、雷田は待つことにする。

「早いじゃないか、秋乃」

 数分と経たないうちに、彼はやって来た。音も立てず、春臣はいつの間にかトンネル内に入っていたので、雷田は些か驚いた。

「行くぞ」

 春臣は非常口を開けると、振り返りもせずに階段を上っていく。雷田は慌てて後を追いかけた。背後から扉の閉まる音がして、何故か、もう帰ってこれないような錯覚に陥った。階段を踏むふたつの足音が鳴り響く。それ以外には何も聞こえない。雷田は憂鬱だった。そうと知ってか知らずか、

「これから俺たちは人助けをする」と、春臣は前を向けながら呟く。

「交通事故に遭ったお兄さんを」

「そう。あれは──この時層の四年前の今日──十月十四日のことだ。その日は休日で、昼飯を食べた後に、俺と兄貴はゲームをしていた」春臣は思い出すように、訥々と語り出す。「確か、俺はゲームソフトを壊したんだ。兄貴のお気に入りの奴を。それで兄貴はかんかんに怒った。でも何故か、俺も反論したんだな。それで喧嘩になった」

 懐かしむように彼はふっ、と表情を和らげた。雷田は何も言わず、続きを待つ。

「そうしたら、母さんがやって来てな、兄貴を叱ったんだ。『お兄ちゃんなら我慢しなさい』ってな。理不尽だとは思わないか?」春臣は口角を上げる。

「それは確かに酷いね。でも、君はまだ幼かったんだろう?」

「俺はその時十歳で、兄貴は十二歳だった。ま、幼いと言えば幼いが、その頃の俺は自分を幼いとは思ってなかった」

「子どもは誰だってそうだよ」

「だが、それを未だに悔いているんだ、俺は」

 過去へ続く扉は目の前だった。そこへ来て、春臣は突然立ち止まって、雷田を見据える。

「俺は幼すぎた。兄貴は理不尽な目に遭って、怒り出した。家を飛び出して、道の反対側へと向かおうとしたんだな。その先には森があったから、多分、そこを目指していたんだろう。横断する途中、自動車が通って、兄貴を轢いた」春臣を目を伏せる。「即死だったよ」

 雷田は息を飲み、何か言葉をかけようとして、思い浮かばなかった。春臣は扉に意識を向け、ノブに手を掛ける。軋む音と共に扉を開けると、対して変わらないトンネル内の景色が、ふたりを待ち受けた。

 暗い中を、春臣は外に向かって歩き出す。

「なあ、秋乃。俺たちがこれからするのは人助けだ。死ぬ運命にあった兄貴を助け、そのまま元の時層に戻る。それ以上の関与はしない」

「ああ、だけど──」雷田はまだ迷っていた。「タイムパラドックスを生み出したら、どうなる?」

「俺の予想を言おうか。パラドックスにならないよう、整合性が取られるはずだ。未来と過去との間に、何ら齟齬が生じないように」

「それはどうやって」

「さあ、分からない。例えば、記憶を改変されたりでもすれば、そもそも俺たちには認知出来ないかもしれない」

 雷田は頭を掻いて、これは言うべきじゃないかもしれないけど、と前置きした。

「そもそも、過去の改変は成功しないんじゃないの? それこそ、整合性を取るためにさ」

 春臣は笑って首を振った。

「いいや。運命はねじ曲がる。俺にはそれが分かる」

「でも、一度失敗したって」

「一度じゃない。数えきれないくらいだ」春臣は鼻を鳴らして、そう言った。

「何だそりゃ……」

「心配するな。俺は運命の外側に居る男だ」と言って、春臣は歩き出す。

 雷田も彼を追いかけた。ふと、思い出したように春臣は止まると、

「ここでピアスを使うなよ。……昔にはなかった技術だ。未来干渉になるからな」

「今更だろう、そんなの」雷田は顔を顰めた。

「時間まではまだたっぷりとある」春臣は雷田を無視して、言った。「それまでは、ファミレスなんかでも入って、ゆっくりとしようじゃないか」

 春臣の提案で、雷田たちは一杯のコーヒーで数時間ほど粘った。その間中、ふたりは大した会話もせず、不穏な空気が流れていた。雷田は読書をし、春臣はどこで拾ってきたのか、携帯端末を弄っていた。予定の時間が来ると、眼前に春臣の家のある、道を挟んだ向かい側の木陰に、雷田たちは隠れた。

 これではまるでストーカーか何かだ、と雷田は思ったけれど、春臣は何も気にしていない様子である。彼の言うには、事故は昼過ぎに起きたと言うので、それまでじっとしていることにした。

 この間、雷田は春臣から今までに試した方法を訊ね、その度にすべて失敗したことを知った。雷田はやがて、改変は不可能ではないか、と確信するようになった。どれだけの手を尽くしても、不思議と了は助からない。これを、春臣は未来との整合性を取るためだと考えたと言う。

「もし、下の時層に兄貴が居なかったとしたら。当然だが、助かっていないのだから、生きてはいないことになる。だから、兄貴を見かけないことが、既に俺の失敗を裏付けることになる訳だ」そこで、と春臣は雷田を指差した。「未来から俺たちが来たことで、兄貴の不在は証明されない。観測されなければ、多分、それは存在しない」

「待て待て」雷田は目を丸くさせて、「だとしても、下の時層にはまだ人が沢山居る訳だろう。もし、その運命というものが沢山の人の観測によって成り立っているとしたら、僕がここへ来たくらいでは何も変わらないって」

「とは言え、観測は未来と過去の板挟みになる。良いか、未来は過去ありきだ。だが未来が変わらないと言うのなら、未来に合わせて過去の方を変えるしかない」

 雷田は狼狽えた。まじまじと春臣を見やり、

「一体、何を考えてる?」

「意味は後で分かる。さっきの観測論は忘れてくれ。まずは、どうするかを教えよう。俺は兄貴を庇って交通事故から助ける。お前は、俺と兄貴を連れて森まで向かう。……あれが見えるか?」少し離れた先に、黄色い車があった。「俺が用意した」

「どうやって」

「その質問は適切じゃない。話に戻るがね、森に入ったら、俺たちは湖に向かう。そして──」

 家の方から怒号がした。子ども特有の甲高い声だ。雷田と春臣は顔を見合わせ、始まったと頷く。春臣は雷田に車の鍵を手渡すと、木陰から姿を現し、助けに行く準備を始めた。

 暫くして、少年がひとり家を飛び出すのが見えた。恐らく彼が了なのだろう、と雷田は推測する。少年が道路を渡ろうとした瞬間、自動車が木々の隙間から見えた。ここは死角が多い。雷田は、こうして事故が起きたのだと理解した。

 運転手は了の姿を見つけて、減速させる。だが、距離が近い。了はブレーキ音に気付き、車の方へと顔を向けた。衝突は間近だ。そこへ、春臣が間に入る。間も無くして、破裂したような衝撃音がこだました。雷田は急いでふたりの元へ駆け寄った。了は気絶しているのか、目を瞑っている。春臣は、雷田を睨み付けて、

「車を出せ」と掠れ声で言う。「早く」

「分かった」

 雷田は車に乗り込み、ふたりの近くまで寄ると、介抱して座席に座らせる。

「森へ……」

「分かってる」

 雷田はアクセルを踏んだ。ルームミラー越しに、家から了の母親と思しき女性と、春臣らしい幼い子の姿が現れたのを見た。誘拐している気分になって、雷田は軽く苛立った。運転手が車から降り、携帯端末を耳に当て、こちらを睨む。警察に電話しているのだろうか。それが最後に見た光景だった。

 距離が離れていくにつれて、雷田の焦燥感も薄れていった。そのうちに、これも二周目の未来であるのだから、自分には何も関係のないことだと思い直し、溜息を吐く。

「僕はね、こんなことのために来た訳じゃないよ」雷田は後部座席に居る、春臣に向かって言った。「怪我はないかい」

「ああ、大丈夫。俺は丈夫なんでな」

「そっちは?」雷田は少年を見つめる。

「問題ない」

「僕らのやってることは十分に問題だけどね。それで、これからどうするの」

「手筈通り森に向かう。そして、湖に行く」

「どうして湖に?」雷田が訊ねる。

「分からないか? 湖は下の時層と繋がっているんだぜ」

「まさか」ハンドルを握りながら、雷田は背後を見た。「そこから落とす訳じゃないよね?」

 春臣はさして面白くもなさそうな顔で、まあなと肯定した。了を横目に、腕を組むと、

「それが最善の方法だからさ」

「最善?」雷田は前へ向き直る。

「さっき、未来に合わせて過去を変えると言ったよな。しかし実際には少し違う。重要なのは未来だ。出来事を変えるにしても、結果を変えることはしない。いや、と言うよりは解釈を変えるって言うべきだな。因果関係というのがあるだろ。原因があるから結果が生まれ、結果には必ず原因がある。しかしこれを同一視したらどうなる。原因もひとつの結果だ。結果は次の事象の原因になる」

「つまり?」と、雷田。

「本来なら兄貴は轢かれて死んじまう。そこを、俺は救った。だがそれじゃあ駄目なんだ。その後に大抵何かしらのことが起きて──やっぱり兄貴は死ぬ」

 春臣は顔を蒼くさせて、そう言った。思わず想像して、雷田も苦虫を潰した表情をさせる。森が見えてきて、車を停め、ふたりは降りた。春臣は了をおぶると、湖まで先導する。頑丈な身体をしている、と雷田は呆れた。

「で、続きだけど──」後ろから、雷田はそう話しかける。

「ああ。どうして普通に助けるのは駄目かと言えば、未来が確定している所為だな。秋乃が居た、下の時層には、恐らく兄貴は居なかったんだ。だから整合性を取るために、兄貴が存在しない理由を構築した。それが、交通事故だった」

「成る程」雷田は顔にかかる枝を掻き分けながら、「お兄さんの、その……死は運命的ってことだね。なら、どうするつもりなのさ?」

「いや、死ぬことは決定事項じゃないと俺は思ってる。だから、別の方法で兄貴には四年間行方不明になってもらう」

「まさかとは思うけど──」

「多分、その通り。兄貴にもタイムトラベルしてもらうんだ」春臣は雷田に向けてニヤリと笑った。「これが別解さ」

 視界が開けてきて、空間が広がった。青い湖が見える。春臣は桟橋から筏に乗り込むと、了を傍に寝かせ、オールを漕いだ。雷田は桟橋から、遠ざかるふたりを見つめていると、何故か不安を覚えた。本当に湖から下の時層へと落とせるのか、信じられない。

「なあ、春臣。これ死なせる訳じゃないよね……。つまり、彼の死は運命的なんだろう? 君の手で殺してしまう、なんてことになったら、流石に寝覚めが悪いぞ」

「安心しろ、お前は見ているだけで良い」

 春臣が了を見た。彼が起き出したのだ。雷田は必死に逃げるよう声を掛ける。了は寝惚けていて気がつかない。

「大丈夫なのか……!?」雷田は呼び掛けた。

「大丈夫だ」春臣の意識はもう了に向けられている。「湖の下に未来がある」

「え──」了は春臣に抱き抱えられた。

 真上に差し掛かる太陽で逆光になり、兄弟の姿が影になる。

 春臣が手を広げた。

 着水する音。

 了が水底へと吸い込まれていく。

 雷田は手を伸ばした。

 水面に泡が出て、何もなくなった。

 静寂が辺り一面を支配する。

 呆然として、雷田は湖を見つめた。

 もうそこに了の姿は見えない。

 春臣は筏の上で、数秒ほど立ち尽くしている。

 雷田は言葉を失い、その場に座り込んだ。頭を抱えたくなって、歯を食いしばる。自分の前で、少年が湖に沈んでいった。これに衝撃を受けない人間など居ないだろう。それはどう見ても──殺人にしか見えなかったのだから。

「これは……」雷田は絶句する。

 ゆっくりと漕ぎながら、春臣が桟橋まで戻ってくる。彼は落ち着いていたが、手首が異様なほどに震えていた。雷田は春臣に掴みかかった。

「春臣、彼は……本当に下へと落ちたのかな」震える声でそう問いかける。

 項垂れる春臣の顔が、小刻みに震えた。口から息が漏れている。雷田はびっくりして後退りした。彼は笑っていた。その表情には達成感が色濃く反映されている。

「秋乃、説明ならカフェテリアでしただろう。兄貴なら大丈夫さ」

「……僕にはまだ、信じられない」

「信じられないことならもう何度も体験しただろ、早速下の時層に帰ろう。見れば分かるさ。了が生きているかどうか、な。俺を信じろよ、秋乃。兄貴は四年後の未来──元居た世界で生きている」

「落下すると言うのは、空からだよね? 着地とか大丈夫なのかな」

「理論上はな」

 雷田は顔を青くさせて、

「僕たちもここから飛び降りよう」

 春臣は肩を竦める。

「好きにしろ。俺は非常階段から下りていく。行くなら急いだほうが良いぞ。そろそろ、警察なんかも俺たちを探しに来るだろうからな」

 反応しない雷田に、春臣は鼻を鳴らした。森を出て行こうとする彼に気が付き、雷田は地面を蹴飛ばす。後悔や恐怖で叫び出しそうになるのを堪え、彼は春臣と車の元まで走り出した。


 雷田は不可解なものを見ていた。空から降ってきたと言う了が、雪丘家に暖かく受け入れられている。彼は交通事故のために死んだのではなく、四年間の行方不明の後、当時の姿でまた現れたのだ。

 しかし奇妙なのは、どうしてあれだけ失敗を繰り返していた春臣が、湖に突き落としたときにのみ、過去改変は成功したのか、ということ。未来は定まっていた。だから未来に合わせて過去を変えた、というのは納得しかねるにせよ、理解出来る。けれど、それならば交通事故から救うのと大して変わりないような気がしてしまう。

 もっと別の理由──それも決定的な原因──があって運命は捻じ曲がったのではないか?

 疑念が浮かび上がってきて、これを隣に居る秋乃に悟られぬよう、雷田は努めていたが、どうやらそれは失敗してしまったらしい。

「何か知っているんじゃないですか?」

「え?」予期しない質問に、雷田は口を開けて呆けた。「いや──何も」

「そうですか──すみません、突然変な質問して」

 秋乃は早々に切り上げた。雷田は逃げるように家に向かう。実際、逃げていたのかもしれない。これはもう、自分ひとりで背負えるものではなかった。大事になっている。ピアスから晴村に繋いだ。数秒と経たず、彼女が出る。

「良かった。漸く繋がった」と、第一声に晴村は言った。「ずっとコールしてたんだよ」

「そうなの? それは知らなかった」

「今までずっとどこに居たの? 問題が起きたんだけど」

「それについて何だけどさ」

 雷田は早口で捲し立てるように、春臣と共に上の時層に行ったこと、そこで了を助け出したこと、彼が湖から突き落としたことを説明した。その間、晴村は何一つ口を挟まず、聞き役に徹した。言い終えると、晴村は暫く、

「なんてことを……」彼女は囁くように唸った。「彼が落ちてきたところは、私も居合わせてた。だから、何が起きたのか、大体の見当はついていたけど……。秋乃、怪我はない?」

「僕なら大丈夫だけど」

 晴村の安堵するような、嘆息する音。

「それなら良かった。ただね、嫌な予感がするんだ」

「嫌な予感って?」

「春臣と連絡が取れないの。了を落としたのも彼でしょう? 好き勝手するのは良いけど、繋がりが途絶えるって言うのは、少し怖いよね。何をするのか分かったものじゃないし……」

「そうだね」雷田は春臣に通話をしてみたが、確かに繋がらない。「本当だ、繋がらない。僕でも駄目だ」

「多分、他の時層に居るんだ。ねえ、秋乃も気をつけてね」

「ああ……そうだね」ホログラム通話に慣れてしまった所為か、雷田は誰にともなく頷いた。「気をつけるよ」

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