第二章 その七 高級マンション

「美玲ちゃん、最近ずっと大変でしょ?良かったら今日仕事終わったあとウチで飲まない?」


同じアパレルショップで働くスタッフ菜月(なつき)に誘われたのは麗華の事件が発生して8ヶ月経った頃だった。菜月は美玲の4つ年上の先輩スタッフで、美玲の勤めるショップが入っている商業施設の中でも『カリスマ店員』と呼ばれる部類だった。麗華の事件が発生した直後すぐに「落ち着くまでは休んでていいよ」と気遣ってくれたのも菜月だった。

報道やネット上でのデマが激化しマスコミや冷やかし連中が店にまで押し寄せた際も、いつも菜月が対応してくれていた。美玲が職場に復帰した時も、


「美玲ちゃん無理しなくていいんだよ、お店は大丈夫だから。今はご両親についててあげて。」


と、すぐに気遣いの言葉をかけてくれたのも菜月だった。美玲はそんな菜月に心から感謝しており、迷惑をかけた分今まで以上に仕事で恩返しをしようと働いていた。唯一信頼出来る先輩の為に没頭出来る時間、美玲にとって勤務中が一番事件を忘れられる時間となっていた。


「ごめんなさい、菜月さん。嬉しいんですけど帰って母の様子も見なきゃならないので。本当に嬉しいんですけど・・。」


菜月の誘いを本当に嬉しく思う反面、やはり家族が気になる美玲は申し訳なさそうに断った。


「一日くらい大丈夫だよ!そんなに遅くなんないひ、お父さんも同じくらいの時間に帰ってくるんでしょ?美玲ちゃん急いで帰ってもおんなじだよ!少しは自分の時間も作んなきゃ、どんだけ美玲ちゃん強いったって精神やられちゃうよ?」


菜月にそう言われるとそんな気もする。いや、元々自分でもそんな気がしていた頃だった。


「じゃあ、少しだけ。」


美玲は思わず顔がほころんでいた。「やった!」と喜ぶ菜月を心底ありがたいと感じた。


父ヂーミンに「先輩の家に寄るから少し遅くなる」とメールを入れると「たまにはゆっくりしてきなさい」と優しい返答がすぐ返ってきた。仕事が終わるのをこんなに楽しみに思うのは久しぶりだった。


勤務時間が終わり菜月と店を出る。菜月のマンションは徒歩圏内らしい。JRの駅を通り過ぎ、「ここでお酒を買おう」とコンビニに立ち寄り、買い物を終えて外に出た瞬間に「ここだよ」と言われた。目の前にはいつも遠くから見えているタワーマンション。


「え?菜月さんのマンションてこれなんですか?」


そこは美玲の住む神明ロードからJRの駅を挟んで見える高級マンション。芸能人やスポーツ選手も住むと噂されている有名なマンションだった。自分達家族が住んでいるアパート何十個分なんだろうと美玲は少し気が遠くなった。


「入ってー♪」


と菜月は屈託の無い笑顔で巨大なマンションの入口から招き入れる。落ち着いた照明に照らされた品のいい観葉植物と、行った事は無いにしろそれがリゾート風だと分かる籐細工のイスが並ぶエントランスに、美玲はただ言葉を失っていた。


自身の貧乏を恥じた事は無い。しかしこうも直接的に『セレブ感』を見せつけられると改めて自分の育ちと比較してしまい気負ってしまう。しかもそれが仕事の面でも人間的にも憧れる先輩の住まいだと知ると、自分の未来にも『この生活が未来に待っている』と幻想を抱いてしまう。


(私も頑張ればこんな所に住めるようになるのだろうか。そうすれば父も母もいつの日か笑顔を取り戻してくれる日が来るかもしれない。)


悲しみが癒える事は無いにしろ、それでも家族で笑える日が来る事を期待してしまう。そんな夢を見せてくれるような空間だった。


デパートの物よりも少し大きめに感じるエレベーターに乗り、着いたのは32階だった。初めて絨毯張りの廊下を歩く。間隔の広さが各部屋の大きさを物語る玄関扉が並んでいる。


「はい!ここでーす♪」


その中の一つの扉を開けながら菜月が笑顔で振り向いた。開く玄関扉から光が漏れる。ん?中に既に誰かいるのか?


「はい!入って入って!」


と菜月は美玲の背後に回り、急かすように室内に押し込んだ。ブーツを脱ぐ事すら急がせて、後ろから肩を掴んで廊下の奥の扉にどんどん押しやって行く。


「ちょっと菜月さん!あんまり押さないでくださいよ!」


大理石のような壁に挟まれた明るい廊下で背を押され、自分の居る空間の煌びやかさに一抹の高揚感を感じながら美玲は笑ってそう言った。しかし、リビングに通じるドアを開けた菜月の口から出た言葉と光景は、美玲にとってすぐには理解出来ないものだった。


「はーい♪『獲物』持ってきたよー♪」

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