第10話 謎の魔法陣

 靴箱の前で村越が市原に釘を指す。

「市原おまえ、あまりいらんもん触るなよ」

「承知しています」

 背筋を延ばし強気な返事がある。どうも心配でならなかった。市原は刑事になってまだ一年しか経っていないぺーぺーだ。通常であれば所轄の警察署でもっと経験を積むべき年齢である。それが一年で県警本部、しかも殺人や強盗などの凶悪犯を扱う捜査一課に異動してきたのだから、よっぽど優秀か、大きな事件を解決してその力量を認められたか、なにかしらの理由があるはずだと思っていたのだが、どうもそのような理由は村越には見つけられなかった。警察一家、勉強は優秀で頭もそこそこ切れる人間に違いはないが、どうも世間を甘くみている節がある。ここぞという時に大きなミスをしないか、村越は心配していた。顔つきだって刑事と言うより、二枚目俳優といった感じである。

「靴は脱げよ」

「もちろんですよ」

 ズボンのポケットに両手を突っ込み、用心深くシンク前を通る。風呂とトイレが一つになっているワンルームの六畳部屋。灯りは消えており、奥のベランダへと続く窓から、朝日が燦々と差し込んでいる。カーテンは開け放しにされていた。

「主任、これって」

 後ろの市原が声を詰まらせる。

 村越もその光景に、ただならぬものを感じ取った。

 部屋の周囲に並べられた人の背ほどの本棚。ガラス張りのキャビネット。そのほとんどすべてに、未成年とおぼしき少女たちの人形が、これでもかと言うほどに並べられていたのだ。四方の壁には目のくりくりしたアニメキャラクターのポスターが貼られている。スカートが風で捲れ上がり、縞模様のパンツが見えていたり、更衣室でスクール水着を脱いでいる最中だったり、牛乳を頭からかぶってドロドロだったりと、それが性的なイラストであることはすぐに見て取れた。

 部屋は一見荒らされた様子はない。村越が市原の耳元に顔を寄せて囁く。

「おい市原」

「はい」

「おまえの見立てを言ってみろ」

「誘拐だと思います。女児誘拐です」

「やっぱり、そう思うか」

 眉間にしわを寄せ、部屋へと踏み入る村越。

 背後の市原が戸惑いながら、つぶやいた。

「ここの住人、いわゆるオタクですね」

「そうなんです」

 答えたのは、玄関口に立っている母親であった。

「あの子ずっと漫画やらアニメやらが好きで、大人になっても見るの止めなくて。大学に入ってからは、女の子のいっぱい出てくるアニメばかり見てて」

 沈痛な面持ちで母親がそう続けた。

「僕もちょっとは漫画読んでますよ。村越さんは読んでないんですか?」

 市原が話しに乗る。

「俺は近代麻雀しか読んでねぇな。今はその話してる場合じゃねぇだろ。市原ちょっとこい」

 市原が駆け足で部屋に入ってくる。村越は母親に聞こえぬよう、耳元で小さく話しかけた。

「さっきの話の続きだがな、おまえどう思う?」

「どうって? 大変な事件じゃないですか。誘拐ですよ」

「まぁ待て。そうだと決めつけるのはまだ早いぞ市原。どうも筋の通らない点がある」

 村越が部屋を注意深く観察しながら続ける。

「もし誘拐だとしてもだ、母親にかけた電話はどう説明する気だ。証言と合わねぇ。男は誰に監視されてたんだ」

「それはブラフですよ。資金が欲しくて、話をでっち上げたんです。それで母親を騙して、現に三十万手に入れてる」

「おかしな話だ。計画的な犯行なら資金は自分で工面するだろうよ。突発的な犯行だとしても、わざわざ警察にヅカれるような連絡を身内に寄越すとは考えられん」

「そこまで考えが巡らなかったんじゃないですか? 衝動のままに少女を連れ去ったんです」

 市原の推測はもっともらしく思えた。しかし村越の中ではまだ引っかかるものがあった。誘拐などを企てる人間が警察に感づかれることに対して、そこまで配慮を逸するものなのだろうか。犯行の荒さは犯人の内面をよく表すと言われる。一見、無計画に思われるその行動からは焦りのようなものが伺えた。

 村越はポケットに手を入れた状態で、膝を折り曲げその場にしゃがみ込む。

「なら、これはどう見る市原」

 床を顎でしゃくり、尋ねた。

「この模様はいったいなんだ」

 村越のしゃがみ込んでいるすぐ目の前には、おかしな模様が浮かび上がっていた。それは赤マジックで描かれたマンホール大のサイズの丸い輪で、その中にどこの国の言葉か不明の文字列が円に沿って乱暴に書き殴られている。ところどころ手か足でこすった跡があり、円の外側に向けてインクが滲んでいた。

「これは、魔法陣というやつじゃないですか」

 市原が謎の赤い輪をのぞき込んで答えた。

「ほら、ゲームとかでもある」

「そんなものがなぜここにある」

「それは私にも分かりかねます。誰が書いたんでしょう」

「ここに指紋が残っている。調べる必要があるな。しかし第三者の関与という線もまだ否定できないんじゃないか」

「悪魔崇拝の組織とかですかね」

「いずれにせよ、意味の分からないものに変わりはねぇな」

 村越が話を打ち切って立ち上がる。ちょうど同じくらいのタイミングで、隣の部屋から話し声が聞こえてきた。

「誰かいますよ主任」

「静かにしろ」

 村越が壁に近づいていき耳をそばだてる。数人の人間が女児の部屋でがさごそ動き回っていた。男女の声がする。村越は連中が自分と同じ刑事であることを察した。

「おい市原。俺たちも向かうぞ」

「向かうってどこにですか?」

「所轄署に決まってんだろ」

 そう言うときびすを返し、入り口へ向けて歩き出す。市原も黙ってそれに付き従った。

 母親を外に送り出した後、他の警察官たちの行き交いで急に慌ただしくなったアパートの階段を、二人の刑事は足早に下りていく。

 アパートから距離を置いたところで、村越が重々しげに口を開いた。

「帳場が立つぞ。事件は未だ進行中だ」

「明日の休みは返上ですかね」

「市原。分かりきったこと聞く意味がどこにある」

「ですよね」

 市原の苦笑につられるかたちで、村越の心にもどことなく影が差した。

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