第8話 新たなる旅立ち

 三時間後、昼過ぎになって口座に三十万円が振り込まれていた。俊一は最低限の身支度だけ整えると、いつものポロシャツに、ジーパンを穿いて、家の前にある公園のベンチに腰掛けた。

 近くのコンビニで買った地図を広げ、電車の乗り継ぎ駅を細かく見ていく。

 三時を過ぎた頃から、ランドセルを背負った子供たちの下校姿が目につくようになった。三時半になろうかというところで、四人で下校している赤いランドセルを背負った女児たちの中に、小林雛子ちゃんの姿を捉えた。

 立ち上がり、近づいていく。

 家のアパートの階段を二階へと上がろうとしているところで、俊一は雛子ちゃんに声をかけた。

「おかえり雛子ちゃん」

 俊一と同じ高さの目線で雛子ちゃんが振り返る。頬に湿布を貼っている。

「今帰ってきたのかい」

 俊一の問いかけに雛子ちゃんがうなずいた。 

「いいかい。よく聞いて欲しいんだ。これは大切なお話だから」

 雛子ちゃんが黙ってうなずくのを確かめてから、俊一は話を切りだした。

「雛子ちゃんのママはしばらく家には帰ってこない」

「どうして?」

「部屋を留守にするって出ていったんだ。ある人に会いに行くって」

「パパのところ?」

 雛子ちゃんが小首を傾げた。俊一は答えた。

「そうかも知れない。雛子ちゃんはパパに会いたい?」

 そう尋ねると雛子ちゃんは、悲しそうな顔をした。

「じゃあ、雛子ちゃんはどこに行きたい?」

 そう言い換えると、雛子ちゃんは意外そうな顔になった。

「ママがいない間、お兄ちゃんが君を預かっておくって、約束したんだ。ほらお金ももらったよ」

 俊一は財布から一万円札を二三枚、引き抜いて見せた。

「美味しいものも食べよう」

「でも」

 家の方を振り返り、雛子ちゃんが躊躇った。

「それに向こうでママに会えるかも知れないよ」

 俊一が付け加える。

「家に一人でいたって寂しいだけだよ」

 雛子ちゃんは階段を急ぎ足で上りだした。俊一はその後を黙ってついていく。雛子ちゃんの家の玄関先にまでやってきたところで、俊一はもう一度、後ろから声をかけた。

「いかないの? 雛子ちゃん」

 雛子ちゃんは、んー、と難しそうに喉を鳴らして、ドアノブに手をかける。しかし玄関には鍵がかかっていた。

「鍵は持ってないの?」

 俊一が尋ねると、雛子ちゃんは首を横に振った。

「そうなんだ。じゃあランドセルはここに置いていけば大丈夫だよ」

「でも」

 雛子ちゃんはまた考え出す。俊一の方をふり仰ぎ、どうしていいのか分からない様子で、尻すぼみに声を発した。

「でも、知らない人にはついて行っちゃいけないって、先生が」

 俊一はその場でしゃがむと、雛子ちゃんの目をじっと見て、優しく微笑みかけた。

「お兄ちゃんは知らない人?」

「ううん。違う」

「そうだよ。お兄ちゃんは隣に住んでる人だ」

「うん」

「雛子ちゃんのことをよく知ってる人だ」

「うん」

「だからママに雛子ちゃんの面倒をみてくださいって言われたんだよ。ほら、行こう」

 ランドセルを降ろさせて、手を引くようにして、アパートの外へと連れ出す。家から遠ざかって行くにつれて、雛子ちゃんは自分の足で俊一の隣を歩き始める。雛子ちゃんは辺りを気にしていた。誰かを探している素振りに見えたけど、誰も二人を気に留める者などいなかった。二人はとても似ているような気がした。行く当てなど、どこにもない。

 交差点に差しかかり、赤信号を二人で待つ。並んで歩くとこんなにも小さいのだと、改めて気付かされた。

「ねぇ雛子ちゃん。ママから伝言を預かってるんだ」

 俊一が言った。

「雛子ちゃんのママは、ある場所で待ってるんだって」

「どこ?」

「約束してた場所だって言ってたよ。どこだろ」

 雛子ちゃんは首を傾げて、しばらく考える。そしてぽつりとつぶやいた。

「遊園地」

「そうなの?」

 今度は俊一が尋ね返す。

 雛子ちゃんは頷いて答えた。

「三人で行くって」

「じゃあ行き先は遊園地だ。きっとそうだよ。早くおいでって言ってたんだ」

「うん」

「夢のような世界が待ってるよ」

「夢のような世界?」

「そうだよ。雛子ちゃんのことを誰も怒ったりしない。誰も叩いたりしないよ。みんな雛子ちゃんのことが大好きだって言ってくれる世界さ」

 雛子ちゃんは前を向いて、俊一の手を少しだけ強く握った。それ以上の会話はなかった。

 雛子ちゃんの小さくて柔らかい手の感触に、胸の鼓動を高ぶらせながら、俊一は目頭に涙を浮かべる。

 二人の世界が始まろうとしていた。

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