偏愛令嬢の恋びより

鈴花 里

偏愛の観察


「はぁ……。今日もなんて素敵なのでしょう……。私の愛しい人」


 うっとり…という言葉が合致する表情を浮かべ呟く。

 王城の敷地内で最大の高さを誇る大木の上から、愛しい人を眺めること一時間弱。

 剣の稽古をしている彼は、堅苦しい上着を脱ぎ捨てシャツ一枚というなんとも危うい軽装で、爽やかな汗を流している。


(これが黒ではなく、白いシャツであったなら危険でした。愛しい人の大事な部分が透けて見えてしまうもの。たとえそれを見るのが同性であろうとも、私は許しません。えぇ。許しませんとも)


 そんな当たり前のことを思いながら、腕のいいアイテム師に頼んで作らせた特殊な双眼鏡を手に、私は愛しい彼をレンズ越しに凝視する。

 私のいるところから愛しい人が稽古をしているところまでの距離は、約三キロメートル。一般的な双眼鏡では、表情や飛び散る汗を確認することは叶わない。

 だからといって、騎士でもない私が稽古場に入れるかというと、それは否だ。誰も許してはくれない。

 ならば、もう双眼鏡をどうにかする以外に道はなかったのだ。

 彼が努力する美しい姿をこの目に焼き付けるには、アイテム師を脅―――アイテム師にお願いするしかなかった。自分でも無茶なお願いだとはわかっていた。

 それでも、一日でも早く愛しい人の努力する姿を脳裏に焼き付けたい。

 その真っ直ぐな想いを、私はアイテム師にぶつけた。それはもう、アイテム師が音を上げるまで徹底的に。

 そして、その甲斐あってか、アイテム師は完徹の末、この特殊な双眼鏡を作ってくれたのである。


(これは本当に良いものです。目視距離が伸びただけでなく、指定された人物のみ鮮明化する機能がついていて。愛しい人をただひたすらに眺めていたい私にぴったりです)


 最早、家宝と呼んでもおかしくはない。

 私が死ぬその時まで、大切にしよう。


(………けれど、もしもの時のために、予備が必要ですね。今度、お願いにいきましょう)


 予備が出来上がれば、初号機が壊れてしまっても安心だ。この先一生、どこからでも愛しい人を視姦―――見つめ続けることができる。


(あぁ……。本当に、何をしていても素敵な人)


 うふふ、と上品に微笑み、剣を振り続ける愛しい人に想いを馳せる―――。

 私は、あなたさえいれば、他には何もいらない。綺麗なドレスも宝石も、高価な物も、家さえなくても構わない。

 あなたさえいてくれれば、他の人間なんてどうでもいい。私達の幸せを邪魔するのなら、消してしまえばいいだけのこと。それがたとえ、この国の国王陛下―――あなたの、父親だったとしても。


(………まぁ、彼の家族は私達の婚約を心から祝福してくださっているから、間違ってもそんなことはしませんけどね)


 クスッと小さく笑えば、愛しい人は振っていた剣を下ろし、服の裾で流れる汗を拭いだす。その仕草から、彼の鍛えぬかれた綺麗な腹筋が露になり………露に……。


(な、なんと………なんと無防備な……。そんな風に肌をさらしてしまっては、黒いシャツを着せた意味がありません)


 私がわざわざ彼には内密に、着替え担当の使用人に手を回したというのに。


(はぁ……。なんと無防備な……)


 この世に、男と女など関係ないというのに。

 個人の持つ性癖など数えられぬほどあるというのに。

 このご時世、女や子供だけではなく、男も充分狙われるというのに。


(………仕方ありません。彼の半裸を見た人間達の目を潰しにいきましょう。えぇ。そうしましょう)


 怒りのままに大木の幹を鷲掴めば、ミシ…ッと聞こえる木の泣き声。


(いけません。せっかくの視姦スポットを自らの手で壊してしまうところでした)


 ふと我に返り、幹から手を離せば、そこだけ軽く抉られたような傷跡が。あと少しで、抉り取ってしまうところだった。


(淑女にあるまじき行為です。反省せねば)


 ふう、と心を落ち着かせるように息を吐き、座っていた木の枝から降りるため、背中側からスルリ…と落ちる。枝と地面の中間辺りで体勢を整えれば、衝撃もなく音もなく着地。

 そして、木に登る際、邪魔で脱ぎ捨てたヒールを履き、そのまま何事もなかったかのように城内へと戻る。


(さて。あの稽古場には、一体何人いらっしゃったでしょうか)


 始めから終わりまで、愛しい人しか見ておらず、あの場にいた人数が把握できない。

 けれど、ちょうど稽古が終わったのならば、あの場にいた全員がこちらに向かって歩いてくるはずだ。その中で、汗の引いていない者は、おそらく彼の傍にいた。

 つまり、私の愛しい人の美しい肌を見たということ。


(あぁ……。想像するだけで、体の奥から黒くドロドロとした感情が、溢れ出そうです)


 私は今、上手く笑えているだろうか。

 彼と共にいる人間達を見て、冷静でいられるだろうか。

 この手が、赤く染まらずに済むだろうか―――。


「ん? こんなところで何してんだ、フェリシア」


 私の全身に響く、愛しい人の大好きな声。

 考え俯いていた顔を即座にあげれば、黒いシャツを着崩した、あまり見ることのできない魅惑的な彼の姿。そしていつもより露出の多い肌に視線を彷徨わせ、あわあわしていると


「どした?」


 首を傾げながら顔を近付けてくる彼に、私の体はピシリッと硬直。すると、そんな私の態度を不思議に思ったらしい彼が、


「大丈夫か?」


 と言いながら、私の頭を優しく撫でてくれる。

 この瞬間、私はすべてのことがどうでもよくなった。

 シャツという薄着で、城内を歩く無防備さも。彼の半裸を見たであろう人間達も。


(あぁ……。彼の瞳に、私だけが映っています)


 彼は、私の愛しい人。最愛の人。唯一無二の人。

 彼がいれば、私は他に何もいらない。


「フェリシア?」


 彼が私の名前を呼ぶ。

 私はそれだけで幸せだ。


「あの、殿下。この後、少し時間はありますか?」

「あぁ。あるぞ」

「でしたら、一緒にお茶などいかがでしょう?」

「お、いいな。すぐ着替えてくる」

「はい。薔薇園でお待ちしております」


 心からの笑顔を浮かべると、「おう」と返事をして頭を撫でていた手が離れていく。着替えをするために一度自室に戻る彼が、私に背を向け歩きだす。

 言葉を交わし、ほんの少しでも離れる時が何より寂しく思える。

 この後すぐに会えるというのに、私はなんと貪欲なことか。

 彼の姿を見ているだけいいと思っていた謙虚な自分は、もういない。


(私も、メイドにお茶の用意を頼まなくてはなりませんね)


 遠くなっていく背中を見つめ、自分もそろそろ行かねばと、彼に背を向けようとしたその時。


「フェリシア」


 大好きな彼の声が、私を呼んだ。

 すぐさま顔を向ければ、やはり彼がこちらを見ている。


「殿下、どうしました?」

「それ」

「え?」

「他人行儀に聞こえるから殿下呼びはやめろ。名前で呼べよ」

「………ジン様」

「おう。それがいい」


 ニッと笑った彼が、「じゃあ、またあとでな」と言い残して背中を向ける。その背中から、私は視線を反らすことができない。

 どうして、人は嬉しいを通り越すと泣きたくなるのだろう。嬉しいのに、涙が出るのだろう。

 私は、あなたから貰える言葉だけを聞いていたい。

 あなたが向けてくれる気持ちだけを受け取りたい。

 私の、あなたへの想いは―――。


「狂っているのでしょうか……」



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偏愛令嬢の恋びより 鈴花 里 @suzuca-sato

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