天狗と少女の家

いぬかい

天狗と少女の家

 ええか、こうやって根ぎわを持って、しっかりと腰を入れて引っ張るとな、ほら、するっと抜けっから。それの繰り返しや。何もむずかしいことあらへん。誰でもできる簡単な仕事やさけえ。

 徹さんはそう言って足元にあった蔓を一本ひっこ抜き、動物の臓器のようなそのピンク色の根っこを目の前でぷらぷらと揺らしてみせた。そう言われた私は只はあと答えるしかなく、徹さんはそんな私を意にも介さない様子で、ほなオレは向こうででっかいの切っとるからのう、あとは一人で大丈夫やな、とチェーンソーを持って林の奥へ消えてしまった。

 今日は風のない日で、立ってるだけでも汗が噴き出した。東京とは暑さの種類が違った。一人にされて少し不安だったが、山の向こうに三角形に切り出したような群青色の海が見えて、ああ私はいま本当に貝楼に来ているんだと改めて思った。林の方からうぃんうぃんというチェーンソーの音が聞こえてきた。私は気合いを入れ直そうとタオルで顔を拭い、水筒にひとくち口をつけてから、目の前にある濃緑色の蔓をつかんだ。

 貝楼諸島の中でも一番東側にあるこの蓬莱島は、平地がほとんどないので人は住まず、ほぼ全域が樹林か草地で覆われている。戦時中は高射砲の陣地があったらしく、その頃には爆撃やら伐採やらで禿げ山みたいになったそうだが、今ではもうすっかり緑の島だ。

 私をここに連れてきてくれた徹さんは、日に焼けたやけにガタイのいいおじさんで、本業は地元の観光ガイドだが、お客がない日だけこうしてこの島に来ているという。そこら中に生えているこの蔓植物――オッカアを駆除するためだ。はじめ徹さんがそう呼ぶのを聞いて、奥さまかお母さまのことかと漠然と思っていたらそうではなかった。今朝、船の上で徹さんから渡された資料に走り書きで『OKAHM』とアルファベット五文字が意味ありげに書かれてあり、説明を聞いていくうちにすぐ、それがオオキバナアシヒッパリモドキという妙に長い名前の植物の略称だということが分かった。

 オッカアの蔓はざらざらとした細かい棘で覆われている。軍手をはめていても手のひらがちくちくと痛み、植物にも敵意や悪意があるのかもしれないなと思った。それでも腰を落として力を込めると根は溜め息を吐くようにふっと土を掴むのを諦め、ぶちぶちとした感触を伴いながらその肌を地表に晒した。世界中で猛威を振るっている侵略的外来種といえど、これぐらいのチビなら私のような細腕でも相手になるようだ。でも問題はその夥しい数と、信じられないほど早い生長速度だ。私は背の高い草に隠れて地面をのたうつオッカアを見て、生命そのものの姿を見ているように思えて気が遠くなった。

 二時間ほど根を詰めて作業した後一息ついた。さすがに腰が痛くなり、うーんと言いながら背中を反らした。作業着の袖をまくった腕で額から滴る汗を拭う。軍手はオッカアの蔓から滲んだ紫色の汁でまだらに染まり、香料のようなつんとした匂いがした。

 抜いたオッカアは所々にまとめて積んであるが、まだ草地全体のごく一部が終わったに過ぎない。あんたのノルマだと言われたこちら側の斜面にはまだ蛙の手みたいな形の幼葉が至る所に残っていて、時々低木に寄りかかって腰ぐらいの高さまで伸びた蔓の先に黄色い花がぽつぽつ咲いているのも見えた。鮮やかな濃い黄色は毒々しいとか貝楼には似合わないという人が多いが、私は嫌いではなかった。

「そろそろ昼にすっかい」

 徹さんがチェーンソーと一緒にひと抱えもあるオッカアの束を抱えて戻ってきた。

「メシ食ったらよ、いいもん見せてやっから」

「いいもん、ですか」

「そや、蓬莱島来たんならいっぺんは見とかなあかんで。ここからなら三十分もかからんで行けるんよ」

 徹さんは汗を拭きながらそう言い、真っ黒な目尻に皺を寄せていたずらっぽく笑った。


 蓬莱島はそう大きな島ではないが、そこそこ高い山が二つあり、その間の谷間に分け入った先に鬱蒼とした樹林があった。この森は有史以来人手が入ったことがないという。

 道らしい道はなく、曲がりくねった蓬莱樹の幹にはどれも灰褐色の地衣類がびっしりとついて、景色が変わらないのですぐに自分がどっちから来たのかすら分からなくなった。徹さんは背伸びをして何度か周りを見渡すと、地図もコンパスも見ずに「あっちや」と斜面を登りはじめたので、私は息を切らせながら、黙って徹さんの後をついていった。

 徹さんはたぶん私の親ぐらいの年齢のはずだが、私より遙かに体力があり、急な山道も飛ぶように歩いていく。その様子や、彫りが深く鼻が高いところが絵本で見た天狗さまを思わせた。紺色の作業服の背中にくっついているオッカアの葉っぱが天狗の団扇のようにも見えたので、私はつい笑ってしまった。

 尾根を上がったところの林の下に、膝ぐらいの高さの丸い低木が群生していた。

「カイロウノボタンや。国指定の絶滅危惧種やぞ」と徹さんが言った。

 ちょうど花の盛りらしく、木は一面真っ白に彩られ、オレンジ色のしべとのコントラストがよく映えていた。思わず溜め息が漏れた。四枚の花弁は十字架のように水平に開き、それが木漏れ日に当たるとキラキラと輝いて、ちょっと神々しくも見えた。

「これが、貝楼諸島にしかないっていうあれですか」

「そや」

 徹さんは自慢げに鼻を鳴らした。「この辺りに百株ぐらいはあるんかな。でもそっだけや、貝楼諸島特産ゆうても、他の島のどこにもなくここにしかあらへん」

 私はしばらく黙ってその花を見つめていた。カメラを持って来なかったことにはたと気づいたが、帰りに絵葉書でも買えばいいかと思い直し、また花を眺めた。

 遠くから波の音が小さく聞こえ、それに混じってセミの声がじんじんと鳴り始めた。東京で聴くセミの声と違ってずいぶんと音量が小さく、あまりうるさくは感じない。

「カイロウゼミ、あれも固有種」と徹さんが言った。「この森におるのはほとんど貝楼の固有種で、絶滅危惧種や。近くにはカイロウオオコウモリのねぐらもあるで、うまくすれば姿も見えるかもしれん」

 そのうち、きょきょきょきょと甲高い声が聞こえ、どこからか薄緑色の小鳥の群れがやってきて数羽が近くの枝にとまった。人間をまったく恐れない様子で、枝から枝に飛び移っては餌か何かを探している。時折、触ろうと思えば触れる距離まで近寄ってきて、歌うように囀っている。

「カイロウウグイスですよね、なんか小さくてかわいいです」あの鳥は港に貼ってあるポスターで見て姿だけは知っていた。

 カイロウウグイスは内地のウグイスの半分ぐらいの体長しかないのが特徴だという。貝楼諸島と隣の西貝楼諸島にしかいなかったが、西貝楼諸島の個体群は戦時中の空襲や森林伐採で絶滅したらしい。

「フォスターの法則って知っとる?」

 そう言って傍にあった倒木に腰掛けた徹さんの肩に、ウグイスが一羽とまった。私の親指より少し小さいぐらいのサイズだ。

「いえ、知りません」

「島って土地が狭いから資源が限られとるやろ。だから島の生き物はみんな体を小さくして、なるべく狭い場所や少ない餌で生きていけるように進化してるんやって」

 徹さんが手を伸ばすと、ウグイスは肩から手にちょんちょんと移動し、そこでしばらく遊んだあと、また近くの枝に飛び移った。

「まあ、オレも大学の先生の受け売りなんやけどな」

「でも体が小さいと外敵が来たらすぐやられちゃいそうですね。力、弱そうですし」

 いつの間にかウグイスの群れは飛び去ってしまい、セミの声も止んでいた。太陽が雲に隠れたせいか林の中は少し暗かった。ふと気がつくと徹さんは何かを見つけたようで、倒木から下りて地面にしゃがみ込んでいる。

「オッカアが」

 木が倒れて光が当たりやすくなった場所に、芽生えたばかりのオッカアが二株、濃い緑の双葉をのぞかせていた。徹さんは忌々しげにそれを毟りとり、他にもないかと周囲を探している。私も一緒になって探したが、見つけたのはその二株だけだった。

 一株でも育って実をつけたら、やがてその森はオッカアの蔓で覆い尽くされ、貴重な生態系ごと失われてしまう。私のような素人でも、貝楼諸島がオッカアだらけになってしまうのが良いことではないことは分かる。

 こんなところまで入り込んでるとはなあ、役場に言うとかんといけんなあと、徹さんが眉間に皺を寄せて呟いた。


 予報より波高が高かったせいか、本島に帰り着いた頃には日没を過ぎていた。

 船を下りるとき、うちで晩飯でも食わないかと誘われた。特に嫌いなものとかアレルギーはないかと訊かれたので、何でも食べますと即答した。お腹が空きすぎて考えるのも億劫だった。

 七時ちょうどに徹さんの家に伺った。村はずれにある一軒家には玄関先に茶色っぽい子犬が寝そべっていて、暗がりで見たその顔には鼻先と額に三本の角が生えて、首のまわりに襟巻きみたいな飾りがついているように見えた。

 呼び鈴を鳴らすと奥さまらしき小柄な女性が出てきて、すぐ居間に通された。白いエプロン姿の奥さまは童話に出てくる少女のような印象だった。徹さんは風呂上がりらしく、浴衣姿で頭にターバンのようにタオルを巻いていた。写真立ての中で笑っている娘さんと息子さんはどちらも大学生で、今は東京にいるという。

 ビールを注いでもらい、三人で小さく乾杯をした。大したものがなくてごめんなさいと奥さまに謝られたが、十分豪勢な夕食だった。獲れたばかりの新鮮な刺身やふんわりした煮付けに加え、見たことのない小鉢が並んでいた。奥さまによればこれはオッカアの実の味噌和えだという。そういえば瓜に似た水色の実がぶら下がっているのを見かけたことがある。食べるとシャキシャキとした歯ごたえと仄かな甘みがあり、独特の刺激臭はいい具合に緩和されて、良い箸休めになった。

「これ、名物にしたら売れるんじゃないですか」と訊くと、奥さまは大きくかぶりを振り、「こんな田舎料理がそんな」と恥ずかしそうに言った。でも島では他にもチャンプルにしたり、味噌汁に入れたりと色々な調理法で食べられるという。徹さんは私たちの会話を聞き、顎に手を当てて少し考え込むと、これからはそういうこともしっかり考えていかんとなあと真剣な表情で言った。

 料理を楽しみながら、私は東京での大学生活を語り、徹さんや奥さまの話を聞いた。徹さんは大阪生まれで、元々飲食業をやっていたのだが、時世の波に呑まれて失業したのを機に、若い頃に観光で訪れたこの貝楼本島に渡ってきたという。

「そういう奴が多いんよこの島は」と徹さんは笑った。「だいたい、オレ自身が外来種みたいなもんやさかい」

 奥さまはこの島で生まれ育った方で、徹さんとは集団見合いで結婚したらしい。内地には学生の頃に一度修学旅行で行った切りで、特に楽しかった思い出もないので、もう島を出るつもりはないのだそうだ。

 玄関から犬でもなく鳥でもない鳴き声がして、ちょっと見てくると言って徹さんが中座した。子供が二人とも巣立ったので、今はあの子が大事でしょうがないみたいなのよ、と奥さまが苦笑いを浮かべた。

 もう一杯いかがと言われ、それじゃあ遠慮なくとビールを注いでもらっているときに、隣の部屋から掠れたような声がした。それを聞いた奥さまが、ちょっとゴメンね、オトウサン起きちゃったみたいだからと食卓を立った。盆に小鉢と茶碗をのせてふすまを開けた奥さま越しに、オトウサンらしき老人が布団からゆっくりと上半身を起こしたところがちらりと見えた。一瞬目が合った気がして、私は慌てて会釈をした。

 徹さんが戻ってきて、そっとふすまを閉めた。ゴローのやつ好き嫌いしおってと言いながら、台所のシンクで手を洗っている。オトウサマ、どこかお悪いんですかと尋ねると、向こうを向いたまま、まあもう年やからね、寝たきりってほどやないんやけど、と気まずそうに答えた。

 奥さまの父君だとしたら、やはりこの島に元からいらした方なのだろうか。それを訊くのは失礼な気がして少し憚られたけれど、きっとそうなんだろうなと、私は腑に落ちるものがあった。ふすまの向こうに見えたその姿が、何となく子供みたいに小さく見えたからだ。

 ゴローの甘えたような声がまた聞こえた。食卓についた徹さんにビールを注ぎながら、私は島の暮らしについて尋ねてみた。ビールに口をつけて、しばらくの間考えてから、「そやなあ」と徹さんは答えた。

「オレらにはもう、貝楼ここしかないでなあ」

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