#4 重ね合わせる卵(1)

「本当に、なんにも覚えてないんだね……」


 猫耳の少女が、消え入るような声で囁いた。それはたぶん、俺じゃない誰かへ向けられるべき言葉だった。


 俺たちはセオ博士の洋館をあとにして、森の小道をふたりきりで歩いていた。ひとしきり事情を説明し終わったあと、いまできることはもう何もないのでひとまず帰ろうとしたのはいいが、そもそも俺は自宅がどこにあるのかさえわからなかった。


 どうしようもないので送ってほしいと頼んだのだが、セオはなぜか洋館から離れるのをひどく躊躇い、その代わりに妹のニニィへ道案内を半ば強引に押し付けたのだった。


 すでに日は暮れ始めている。濃い夕焼けが樹々の隙間を縫って横向きに細く差し込んだ。ニニィと呼ばれたその少女の、柔らかい毛に覆われた猫耳や、たっぷり蓄えられた山吹色の髪や、ふさふさの太い尻尾が、火花を散らして燃え盛るように赤く輝いた。


「あのさ……夕焼け、きれいだね。送ってくれてどうもありがとう」


「……」


 沈黙を破った俺を、ニニィは不審そうな眼でちらりと一瞥し、しかし何も答えない。


 彼女はついさっき会ってひとこと挨拶を交わしただけで、俺の何かが変わってしまったことを察知したらしく、その瞳には警戒と混乱の色が隠せないでいたが、それでも俺を家まで送り届けることをしぶしぶ了承してくれた。


 断片的に話を聞く限り、もとのリクとニニィは親しい友達で、わりと頻繁に顔を合わせる仲だったようだ。それがいきなり記憶喪失になったというのだから困惑するのも当然だろう。


 セオは異世界と人格についての俺の主張を伏せて嘘の説明をした。「リクはあくまでも一時的な記憶喪失なんだ、いずれ元に戻る」と。


 確かに、いきなり異世界から来たなんて伝えたところで理解も信用もしてもらえるわけがないことはわかっている。たぶんセオさえ俺が異世界から来たなんて本当に信じてはいないだろう。


 だからニニィにとって俺は、龍の肝もどきの副作用で混乱しているとはいえ、やはり以前から仲良しのリクそのものとして映っているはずだった。


 でも実際にはそう簡単な話じゃない。現にいま、別の世界から来たこの俺によって、ここでのリクは上書きされてしまっているのだ。少なくとも俺にとってはそうだとしか思えない。それをニニィに正直に打ち明けるべきなのか、しかし言ったところで証明できないのだから伏せておくべきだろうか。


 そう逡巡し黙って横を歩きながら、俺は好奇心と物珍しさで彼女の姿を眺めずにはいられなかった。


 背は俺よりもいくらか低いが、顔立ちは整っていて幼くは見えない。さっき年齢を尋ねると、ふたりともこないだ十五歳になったところだよ、と呆れたように教えてくれた。


 手触りの良さそうなふわふわの長い髪、それと同じ山吹色のくりっとした瞳、つんと上を向いた小ぶりな鼻。見た目も仕草も小動物のようで可愛らしいが、しかし表情らしい表情をあまり見せようとしない。


 気持ちを顔に出さない子なのかもしれないが、様子がおかしくなった俺を前にして動揺しているのだろうか。やや伏せられた猫耳と、あてもなく空中を弄ぶ垂れぎみの尻尾にだけ、かろうじてその心情が時おり垣間見えた。


 何よりいちばん俺の目を惹いたのはその身なりだった。兄のセオと似た丸眼鏡をかけて、ささやかな装飾を施された品のある白い上着に、紺色の長いスカートをはためかせて歩く。知的で賢そうな、それでいて女の子らしい可憐な風貌だ……腰に差したいかついナイフを除けばだが。


 横目でちらちらとその武器を覗き見る俺の視線に気がついて、ニニィは丸眼鏡の隙間からこちらをじっと睨みつけた。


「……なに見てるの。そんなに可愛い?」


 どこか不満げにそう言い、答えを待たず前へ向き直る。感情を出さないだけで意外に豪胆な性格をしているのかもしれない。


「いや、すごいナイフだなと思って。それで戦ったりするの?」


「こんなことしなくたって誰もわたしに手なんか出さないよ。お兄ちゃんが何するかわからないからね」


 ニニィは兄の心配を余計なお世話だとでもいうふうに、やや苛立たしげにそう答えた。


「セオが? ずいぶん妹思いなお兄ちゃんだね」


「そんなんじゃないよ。お兄ちゃんはね、すっごく頭が良くて、すっごく優しいけど、すっごくいかれてるんだからね」


 どうやらセオはまだ俺の知らない顔を持っているようだ。あの澄ました笑顔からはそんな暴力的な様子など想像も付かないが、確かに底の知れない雰囲気があった。油断ならない男だ。


「自分の身は自分で守れって言っていつも持たせるんだ。先端に毒がたっぷり塗ってあるんだから。人なら五人は死ぬってさ」


 俺は再びニニィの武器に目を戻す。ナイフというより短剣に分類したほうが良さそうなその刃物は、革製のケースに収めて腰のベルトに装着してあり、清楚な雰囲気の服装や可愛らしい顔つきとの対比でひときわ異彩を放っている。護身用にしてはずいぶん殺気立った武器だ。


 洋館を出る際、セオはニニィに「何かあってからじゃ遅いからね。躊躇してはいけないよ」と容赦のない忠告をした。確かに、この魔物蔓延るファンタジーな異世界で生き残るためには中途半端な情けなど捨てるべきものなのだろう。しかし、そこまでするなら自分で送るほうが早い気もするが、セオはどうしても洋館を空けたくない理由があるのだろうか? 過保護なんだか放任なんだかよくわからない。


 もっとも、この森には魔物なんかもうほとんど出ず、街全体の治安もそれほど荒れてはいないそうだ。だからもし何か特に警戒すべきものがあるとすれば……突如異世界から現れたと自称するこの俺なのかもしれなかった。妹の友人がいきなり「異世界からやってきた」などと言い始めたら、確かに警戒もするだろう。


「ニニィ、面倒なことに巻き込んでごめん」


「無理して謝らなくていい。逆にむかついてくる」


 こちらを見もせず刺すように突きつけたその返事は、おそらくニニィが意図した以上に冷たく響いた。初めて口にした彼女の名前の呼び慣れなさまでを見透かされたような気がした。


「リクもいちおう勇者だから、自分で色々実験するのも仕方ないかもしれないけど」と、ニニィは"いちおう"を強調し、続ける。


「無茶しちゃだめだよって言ったのに、こんな……」


 ニニィはそこで言葉を切った。彼女を怒らせたリクはこの俺じゃない。俺はこの猫耳少女とついさっき生まれて初めて会ったのだ。だから俺が負い目を感じる必要など何も無いはずだった。


 いや……ふと、根本的な懸念が再浮上する。そもそも、いま起きているすべては幻覚じゃなかったのか。あまりに現実離れした現実らしさのせいで、すでにときどき忘れかけているとはいえ、ここはユイの作った物質が見せる幻の異世界に過ぎないのだ。なぜ俺は幻覚世界の出来事に一喜一憂する必要があるだろう? いずれ醒める夢の中で悲しむ必要なんてないじゃないか。


 それでも、だとしても、すぐ隣をとぼとぼ歩きながらやるせなく呟くニニィをこの目で見ると、締め付けるような罪悪感に苛まれた。感傷の理由は噛み合っていなくとも、目の前にいる少女の悲しげな姿を、ただの幻覚だと切り捨てて無視できるほど俺の心は冷淡ではないらしかった。


「大丈夫だよ、ちょっと混乱してるだけ。そのうちまた戻るから、きっと」


「よくないよ、ばかっ!」


 ニニィが俺の嘘を鋭く跳ね返した。思わず立ち止まり、彼女と向かい合う。それは怒りの声と形容するにはあまりに優しく響いたが、それでも彼女が本当に、しかも俺のために腹を立てているのがわかった。ニニィが初めて見せた露骨な感情だった。


「記憶喪失ならまだいいよ。死んじゃったらどうするの? 死んだら、何もかも終わりなんだよ。二度と戻れないんだよ。もうわたしとも会えないんだよ。わかってるの?」


 ニニィの目尻に涙が浮かんだ。俺は何も答えられず曖昧に頷くしかなかった。確かに彼女の言う通りだ。俺たちは、生きているものは死んだらそこで終わり。始まったときからの約束だ。


 でもこれは、いまいるこの場所はすべて幻覚なんだ。ニニィという猫耳少女など実在しないのだ。夢の中で死んだとて、現実の俺も死ぬわけはない。じゃあ、いまこの幻覚世界で死んでも、俺は元いた現実で目醒めるのだろうか?


 思考を滑らせ答えあぐねていると、ニニィはその沈黙を後悔や反省だと受け取ったらしく、優しいため息をついてふと寂しげな笑顔を見せた。記憶のない相手に何を言っても無駄だと悟ったのかもしれなかった。丸眼鏡を外し、袖でごしごしと涙を拭う。


「……怒ってごめん。でも怖いよ、リクがどこかに行っちゃったら、わたし死んじゃうかもしれない、怖い」


 ニニィが音もなく近づいて、俺の手を優しく、しかし強く握った。柔らかい皮膚の向こうに確かな体温と鼓動があった。ふわふわの髪から甘い匂いがした。


「死ぬまで一緒に居てくれるって約束したもんね? リクは覚えてないかもしれないけど、わたしは忘れてないからね、絶対って言ったよね」


 ふたつの大きな瞳がぐいっと目の前まで近寄り、丸眼鏡ごしに俺を覗き込んだ。俺は動けなくなった。可愛い女の子に見つめられたからというだけじゃない。彼女はこの眼を見ているが、さらに奥に隠された何かを直接手で探られているような感触がした。


「嘘は聞きたくないの。リクはリクだよね? 本当に戻ってくるんだよね?」


 痛いほど強く手を握りしめられる。この猫耳少女は、ニニィは、きっとリクを本当に大切に思っていたんだ。でも俺がこの子とどんな約束をしたのかなんて何も知らない。それを思い出すことは永遠にない。ふたりの約束はすでに異世界の狭間へ消え去ってしまい、ここにはいびつなリクだけが残されているのだ。


「あのさ」


 思わず口が動いていた。ニニィは覚悟を決めたように身じろぎせず俺を見つめる。言い始めてしまった以上、もう止めるわけにはいかなかった。


「例えばさ……こことは別の世界があって、俺と同じ顔と同じ名前のリクという人間が、そこで全然違う人生を送っていても、ニニィはそいつをリクだと思う?」


 ニニィは握っていた手をふと緩めて離し、じれったそうに眉をひそめて鼻を鳴らした。


「ねえ、何が言いたいのさ。やっぱりリクおかしいよ。まどろっこしいのはやめて」


 俺は目をそらして深呼吸し、もう一度ニニィの瞳をまっすぐ見て言った。


「俺、そこから来たんだ。ニニィから見て別の世界。身体も名前も同じリクだけど、送ってきた人生は違う。君と会ったのも、今日が初めてだ……」


 ニニィの瞳が揺らいで、力ない笑みがこぼれた。


「リクは、どこに行ったの?」


「わからない、もしかかすると本当にただ龍の肝でキマりすぎておかしくなってるだけなのかもしれない。でも、やっぱり俺は別のところから来たんだ、リクだけどリクじゃないんだ」


 ニニィは怯えきった狐みたいな眼で俺を見つめた。


「わかんないよ、わかるけどわかんないよ。じゃあ……あなたは誰なの」


「それでも俺はリクだよ、この身体も確かに俺のものなんだ、いるべき場所が違うだけで……」


 これ以上どう言えばいいのかわからなくなって言葉が詰まった。俺たちはもはや千日手状態で、それぞれのリクは決して交わらない平行線だった。


 俺はユイが合成した謎の幻覚剤を吸ってこの異世界にやってきた。しかし、この異世界でこの身体に宿っていたはずの別のリクは、龍の肝もどきを吸ってどこかへ消えたとされている。これらふたつの出来事のどちらが真実かなんてもはや俺には決められないじゃないか、どうすれば俺は俺であると証明できるんだ……


「ねえ、ちょっとだけ丘に寄っていこう」と、ニニィがふと決意したような面持ちで俺の腕を引っ張って歩き始めた。すぐに森を抜け、世界が急に明るくなって目が眩んだ。まっすぐ進んだところに城を囲む街が見え、右手には俺の目覚めたなだらかな丘がある。


「いいけど、何があるの?」


「少しだけ確かめたいことがあるから……それに、夕焼けがきれいだから」


 俺たちは街への道を逸れ、ゆるく傾斜のついた草原を歩いてのぼった。つい数時間前に気がついたあたりへ向かう。冷えはじめた風が背の低い草を揺らし、その姿を暗示しながらくるぶしをくすぐって過ぎ去る。この世界の空気にも、確かな匂いがあった。

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