#3 受容をみちびく果実(2)

 空腹だったせいか、タヤの汁は全部飲み切らないうちにもう効果が現れた。水の中を歩くみたいに思考がもったりと遅くなり、ざわざわした不安と焦燥が凪いでいくのがわかった。


 決して不快な沈鬱さではなく、むしろ心地良い静寂だ。セオの言う通り頭は回らなくなるので考え事には向かないかもしれないが、非現実世界に引きずり込まれたことをひとまず受容できるくらいには落ち着きを取り戻せた。まあ、とにかくなんとかなる。無条件の肯定が脳を優しく満たした。


「ねえ、セオさん。さっき言ってた龍の肝の模造品、あれってもう無いんですか? 俺の元いたところが幻覚か現実かはともかく、あれを吸えばまた戻れるのかなあ」


 相変わらず紙に何かを書き記しているセオは、ふと顔をあげて考え込むそぶりをした。


「おそらく君には耐性がついてしまっている。すぐに使ってもたぶん効果は落ちるだろうし、君の言う『現実』へうまく戻れるかどうかわからない。仮に戻れたとしても不完全なトリップになるかもしれない。つまり、ここでも『現実』でもない場所に飛ばされたらどうする? そもそも、なぜこんなことが起きているのかすらよく分からないんだしね。どうしても試したいと言うのなら止めないけど……少し待ったほうが賢明だと僕は思う」


 確かに一理あった。いや、そもそも、俺は現実世界にさんざん嫌気がさしていたんじゃなかったのか。あそこからの脱出をいつも待ち望んでおいて、いざ異世界に来たら戻りたがるというのもおかしな話だ。あまりにも異様な出来事だから動揺するのは当然だ、しかし、せっかくこうなったのだからいましばらくはここに腰を据えるのも悪くない、むしろ面白いじゃないか……タヤの実の鎮静効果を支えにして、俺は自分の置かれた状況をどうにか肯定的に捉えようと努めた。


「セオさんは俺で人体実験でもしようとしたんですか。あの龍の肝もどきの効果を確かめたかったとか」


 俺は自分がここに来る以前の俺について尋ねてみた。冷静な表情を崩さないセオを試してみたくもあった。しかし彼はまた得意の人当たり良さそうな微笑を浮かべるのみだった。


「ふふ。信じられないかもしれないけど、そして証明する手段もないけれど、あれは君が望んで使ったものだよ。むしろ僕は止めたくらいさ」


「そうなんだ。どうしてそんなものを使いたがったんだろう。俺はなんて言ってたんですか?」


「うん。いくつか順を追って説明しなきゃならない。まず、君は勇者と呼ばれる人間のひとりなんだ」


 突然の宣告を聞いて思わず笑ってしまった。勇者ってあの勇者か? そんな典型的な英雄譚があるだろうか? いま俺は異世界に引きずり込まれて、しかも勇者にまでされてしまったのだ! そんなのまさに夢物語じゃないか。


「そんなばかな。もしかして俺って最強の魔法とか使えるんですか? それとも伝説の勇者の血を引く家系に生まれたとか」


「ふふ、それこそ作り話の世界だね。勇者に求められるのはただひとつ、どれだけの『強化投与』に耐えられるかだ」


 聞き慣れない言葉だった。


「きょ……?」


「文字通り、脳と肉体を外からの物質で強化することさ。投与された物質へ敏感に反応し、どれだけ耐えられるか。これが勇者になるために必要な唯一の素質とされている」


 言っている意味がよくわからない。


「たったそれだけ? なんでそんなジャンキーみたいなやつばっかり」


「もちろん、戦うためだ。強化投与に耐えうる人間を集めた特別な部隊が編成されていて、そこに所属する資格のある人間は勇者と呼ばれている。彼らは特別な物質をいくつも投与されて魔族との戦場に送り込まれる。君はそのひとりに選ばれたってわけだ」


「それって……聞こえはいいけど軍隊みたいなものじゃないの? 勇者なんて名ばかりでさ」


 要するに、戦うためにドーピングをしろということじゃないか。


 セオは眼鏡をくいと押し上げる。


「その通り。でも、そうでもしなきゃ僕たちは滅んでしまう。いまだってあの山脈を越えたところに魔族の軍と激突する前線がある。ここはいま、戦時中だよ」


 驚きはしなかった。たぶん俺の生きていた現実が平和すぎただけだ。でも少し悲しくなった。異世界だろうがなんだろうが、俺たちはいつでもどこでも戦わずにはいられないみたいだった。セオは続ける。


「それと、がっかりしないでほしいんだが、君は勇者の中でも落ちこぼれだった。それもかなりのね。強化投与基準もぎりぎりでパスしたくらいだし、剣術も武術もてんでダメ」


 一瞬だけ期待した主人公願望を手厳しく打ち砕かれ、俺は騙されたような気分になった。


「……まあ、どうせそんなもんですよね」


「だからというわけじゃないが、君はいつも逃げ出したがっていた。ここじゃないどこかにね。君に渡した龍の肝の模造品もそのために作ったんだよ。本物の龍の肝は、人に醒めない夢を見せると言われているんだ。正確に言うと龍の牙につながる毒腺由来の成分だけど……」


 セオは本棚から枕みたいな分厚い本を取り出し、ペラペラとめくり始めた。


「"龍の保護及び管理に関する法律"によって、毒腺に有効成分を持つ四種は狩猟や取引を厳しく制限されている。オオヨロイリュウ、トゲアカリュウ、ヒョウモンドクリュウ、ベッコウリュウモドキ。それに、肝やその抽出物自体も同様に"怪物由来薬取締法"によって所持さえ許されていない。緊密な生態系を弄るのは自然と文明の崩壊に直結するから、という名目だけど、王室とギルドからすれば、醒めない夢に耽る人間がたくさん現れるのが嫌なだけだろうね。実際のところ、自生する植物や辺りに生息する野生獣由来の軽い薬は取り締まりが追いついてないのが現状だけど」


 セオはそう言ってテアの実の入った瓶を指さした。この程度ならお目こぼしされている、ということだろうか。


「でも、龍由来の成分は比較的罪が重いんだ。だから僕がその物質をまねて少しだけ変化させたものを君に作ってあげた。それなら取り締まられることはないからね……普通の人間ならこの物質でも脳が耐えられないはずだけど、君は腐っても勇者だからって言って聞かなかったんだよ。でも結局、君は夢から醒めてしまった。偽物の見せる夢は、やっぱり偽物だったってことだ」


「はあ、なんか面倒なことしてすみません……じゃあ、もう俺が現実に戻るのは無理ってことなのかな」


 聞いておきながら自分の未練がばかばかしかった。あんな現実どうでもいいはずなのに、帰る可能性が消えてしまうのはなぜかひどく怖かった。そのひとすじさえ切れてしまえば、もはやこの俺は異世界へ宙ぶらりんになってしまう。


「魔族との戦争に貢献すれば特例で狩猟の許可が降りるかもしれない。もし直接は無理でも、まとまった報奨金は貰えるはずだ。それを使って密猟者たちに頼めばなんとかなるよ。いくら勇者と言えどひとりで龍を狩るのは物理的に難しいから、闇ルートに頼るしかないだろう」


「龍の肝もどきの影響で、何かすごい能力みたいなものは備わったりしないのかな。特殊な能力とか剣術の達人になるとか」


 常人を凌駕するような力を手に入れるのは、いわゆる異世界転生物語ではお約束のはずだ。いまはまだ明らかになっていないだけで俺にも何かしらの能力が備わっていてもおかしくはない。むしろそうであってほしい。そうでもなければ、俺はただ異世界へ手ぶらでのこのこやってきた間抜けじゃないか!


「それはわからない。でも強いて言えば、倫理感かな」


 セオは意外なほど冷ややかな口調でそう答えた。


「……どういうこと?」


「君はもともと別の世界で生きてきた。少なくとも、そう信じ込んでいる。だからこの世界には愛着なんて別にないだろう? 夢の中でなら何をしたって良いわけだ。だから、君はある意味で、すでに誰よりも無敵なんだよ、そうじゃないかい」


 なんだか目が回るような気がした。この男の話し方には催眠術師じみた得体の知れない引力があった。


「ま、だからといって変な気を起こさないほうがいい。捕まったら火炙りか串刺しだ」


「お兄ちゃん、入るよ」


 何の前触れもなく女の子の声がして、きい、と静かに扉を開ける音がうしろで鳴った。セオの表情が一瞬曇ったのを俺は見逃さなかった。


 振り返ると少女がひとり立っていた。俺はその姿を見て思わず「わえっ!?」とまぬけな感嘆をこぼした。


 少女の頭頂部に近いところに、尖った三角形の動物的な耳、いわゆる猫耳がちょこんと生えていた。おまけに腰からはふわふわの長い尻尾まで伸びている。それらはひくひくぷるぷると自在に動き、安いコスプレなんかじゃなくて血の通った本物であるのは明らかだった。


 ゆるくカールした髪はセオと同じ山吹色で、背中までボリュームたっぷりに蓄えられ、猫というよりはライオンのたてがみみたいにも見える。そしてこれまたセオと似た丸眼鏡をかけている。ひと目見て兄妹だとわかった。おそらくいまの俺と同じくらいの年齢だろう。


 あまりにいかにもなザ・猫耳少女を前にすると、思いのほか感動より驚きが遥かにまさった。生物学的にこんな形態がありえるのか、どう進化したらこうなるんだ……耳が人型のものと合わせて計四個もついているんだから、さぞ立体的に音が聞こえるんだろうな。


「リク……来てたんだ。また悪い話?」


 彼女の姿をぼうっと眺めていたので、それが俺の名前なのだと気づくまで数秒かかった。ここでの俺と少女はもともと顔見知りのようだ。


「ニニィ、起きたのかい」


 セオがわずかに慌てたような口調で声をかけた。


 俺が戸惑いながら「どうも、こんにちは」と笑いかけると、ニニィと呼ばれたその少女はぴくりと猫耳を動かして眉をひそめた。


「……何かあったの?」

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