8 さよなら共和国。そして……。

 六時間後、仮想都市ディラック。


 ほんの少し、実世界の時間では数分という間に仮想化された人々は長い長い夢を見ている。かつて彼らが実世界の人間だった頃に体験した記憶の風景が広がっている。大学の研究室の窓から入り込む木漏れ陽の気持ち良さ、そよ風に漂う草の匂い、徹夜で実験を繰り返したあとに助手や学生とたわいないおしゃべりをしながら過ごすティータイム、くだらないニュースやアイドルの歌を垂れ流しているグリッドメディアを眺めながら恋人や家族と過ごす午後、公園でチェロの練習をするハイティーンの少女の姿、相手の体温を感じながらリアルな体で触れ合った恋人、家族と過ごしたバカンス、なんでもないことで大笑いしあう友人と過ごす時間、そんなリアルな日常。

 リアル……。

 ディラックの基幹AIから放たれたプログラムが、仮想世界の数千万の人格と対話し、彼らの記憶の奥底に仕舞われていた実世界での体験を呼び戻していた。彼らからみれば数百年も昔の風景だ。リアルな世界に生きていたときのリアルな記憶。とても暖かく懐かしく心が落ち着く夢。

 人々の頰を、涙が伝った。


   *


 国連とディラックとの間で和解が成立し、仮想都市ディラックが実世界に対する攻撃を止めてから二日が経過した。以前に増して協力的になってた仮想世界の尽力もあり実世界の経済は持ち直し少しずつ平和な生活が戻ってきた。回復は早い。何事もなかったかのように、グリッドメディアがゴシップやスキャンダルのニュースを流し、ベーシックインカムや投資のゲインや配当で暮らす多くの働かない人々が、それらの情報をただただ消費していく日々が戻った。

 自分から仮想化を志願する人の数は増えたが、爆発的に急増したというわけでもなかった。普通に生きて死んでいくという昔ながらの暮らしのほうが、性に合っているという人もまだまだ多いからだ。なにより、ディラックの住民たちのように、高速で流れる情報をAIのように素早く処理しながら密度の高い不死の時間を過ごすのが「幸福」かというと、そうでもないということを知っている人のほうが圧倒的に多かったのだ。


   *

 

 その日、GMT正午。


 すべてのグリッドメディアが、ポゴリン共和国の国家葬を実況中継し始めた。

 予定通り、ポゴリン共和国の全国民は、納得とある種の幸福に包まれながら仮想化し、あとには、この小国の国土と国民の肉体が残った。グロテスクな話だが肉体は資源として利用される。国土は、近隣の共和インドシナ連邦が国連から買いとり領土化した。ここではディラックと協業による広大な自然な農地と牧場が展開される予定だ。野菜とフルーツづくり、そして米づくりと畜産にかけてはベトナム人に敵うものはいない。

 その新しい領土の片隅。

 この国で、もっとも美しい湖と熱帯雨林が広がる地域の片隅に、高さ二キロメートルに及ぶ巨大な塔が建設され、国家葬ではその序幕が行われる。それは、ポゴリン共和国の人々全員の名前が記されたメモリアルタワーだ。世界でも最高レベルの耐震、耐火基準で造られた塔の内部には、フィサリス博士率いるライラック社が用意した史上最大級の量子サーバが据えられていて、それがワールドワイドグリッドに繋がれている。

 そしてそのサーバのエンジニアリングコンソールには、このシステムの開発者であるチャゾコンサルティングと、三人の天才エンジニア、ひとりのAIの名前が刻まれていた。


   *


 チャゾコンサルティング側は、技術を盗むつもりはなく、ディラックと組んでこの案件を受注しようとしていただけだった。仮想世界のプラットフォームを築き上げてきた企業の戦略として、それがもっとも効率的で現実的な案だと考えていたのだ。

 一方ディラックは、自分たちが人類進化の理想形として信じている仮想化を急速に進めるために、このプロジェクトを利用しようとしていた。これまでとは段違いの多数の人々を一度に仮想化するには、最先端の仮想化プログラムが必要だと考え、フィサリスを利用して、開発環境と「量子もつれ」の状態にある量子サーバを調達した。

 フィサリスも単純に、ポゴリン共和国の人々のためにベストな選択だと考え、彼らに協力しただけだった。



   *


 三郷研究学園都市のマンション。


 リカコは、国家葬の様子を見ながら、いつか、すべての人々が仮想化する日が来るのだろうかと考えている。

「あなたが仮想世界にきたら、私も楽になるのに」と、ローザがいう。

「うーん。考えるわよね。仕事ももっと速く処理できるようになるでしょうし、ぶっ続けで考えても疲れないでしょうし……。なにより、ダイエットの心配をしなくて済むからね」リカコはニコッと微笑んだ。

「あら、あなたの健康管理は、私がしっかりしていますから、大丈夫ですよ」と、ローザ。

「なんか、お腹減ってきたわね。何かなかったかしら」

「リカコ、もう夜中ですよ」

 日本時間で夜の十時になろうとしていた。

 ひとつの国が消え、仮想世界にひとつの国が生まれた。

〈私の設計したAIは、みんなの不安を除くことができたのかしら。一人ひとりがちゃんと納得して希望を持って仮想世界に旅立っていったのかしら〉そんなことをリカコは考えていたかもしれない。

 もしかしたら彼女は、ポゴリン共和国の人々に嫉妬していたのかもしれない。

 広大で情報にあふれ、確実に一歩先の未来を体験できる世界に飛び込んだ人たちを。昨日まで普通の暮らしをしていた普通の人々が、リカコがいま体験できるよりもより多くの知識と情報の快楽に浸りながら、素早く考え素早く成長できる世界に行ったということに。


   *


「あら、リカコ。珍しい人からメッセージが入ってますよ」といったのは、ローザだった。「あらあら、こっわっ。この人は、ホント期待を裏切らないわよね」とリカコ。

 1時間後、素数階段の座標9631会議室に、リカコは出向く。

「どうして、私だけ呼ばれるのか、わかんないんですけど〜」リカコは不信感をむき出しにする作戦をとってみた。もちろん、この人にそんなことが通じるとは思えなかったが。

「リカコ・スミタニ。今回は、君のプランにやられたよ」

「結局、オッサンが、ディラック側の黒幕だったってことですよね。チャゾコンサルティングもフィサリス博士も利用されただけで……。XTCさん、本当、あの混乱でどれだけの人間に被害が出たことか……」

「僕らは、仮想世界にずっと住み着いていたから、実世界の人たちに対する想像力を持ったコミュニケーションっていうのを忘れかけていたんだろうな」

「さあ、どうでしょうね〜。面倒くさいことやってないで、初めから対話すればよかったんですよね」

「なるほど」

「あ、そうそう。そういえば、わかっちゃいましたよ、あなたの正体」リカコがニコッと微笑む。

「ほお、本当ですか」

「いえいえ、単純な話ですよ。あなたは最初のミーティングのとき、まさにこの座標9631の会議室で、『経営者をしていた』と言ってましたよね。シーオ223を紹介したときです。私、ずっと気になっていたんです。あなたの声と人格の色彩が誰かに似ていると思っていたんですよね。それで、こないだ、私の全記憶域を支援AIのローザと一緒にスキャンしたんですよ。ほら、しばらく休んでてやることなかったんで。そしたらですね……。出てきたんですよ。あの会議室でしゃべってたあなたの声とまったく同じ声紋の記憶が」

「ほお、それはそれは。どういうことでしょうね。私は以前あなたに会っていたということですか?」

「そうなんですよ。会ってたんですよ〜」

「ほお、私には記憶がありませんな」

「……聞きたいでしょ、その記憶。ねえ、聞きたい〜?」

「さあ、それほどでも」

「そうかぁ、残念だなぁ。じゃあ、勝手にしゃべりますけど、その声紋は、私がCALTECHに入るときに支援してもらったアラン・コンヌ財団の理事長の声と合致したんです。世界的な総合IT企業の経営者だった人で、五十年前の最初期に肉体を捨てて仮想化を選択した人」

「なるほど、そんなことがありましたか」

「ええ。考えてみれば、私は当時まだ十三歳で、とてもとても緊張した状態での面接のなかで、あなたに会っていますからね。深く深く心に刻まれていたんですよね。アラン・コンヌ財団理事長で、グローバルゲイン社のファウンダ、永世CEOのケン・ファイマン博士。ドイツ系アメリカ人だったあなたは、七十五歳のとき心不全で死にゆく肉体を捨て仮想世界に移り住んだ。そしていまは、仮想都市ディラックの全権代表も務めているんですよね」

「すごいな。あのシーオ223でさえ、私の正体には至らなかったというのに」

「いえいえ、それはどうでしょうね。彼女は最初から知っていたのかもしれませんよ。知っててあなたをなんとか止めようとしていた」

「どうだろうね」

「鈍いにもほどがありますよ、ドクター・ファイマン。女心っていうのは、そういうものなのです。なんなら、直接聞いてみればいいんですよ。AIも仮想化人格も同じ世界に住んでいるんですから、対話するのも簡単じゃないですか」


「弁解というわけではないんだけどね」と、XTCことケン・ファイマンは話し始めた。「今回、私は、ポゴリン共和国を見捨て仮想化するという国連の決定に失望したんだ。自分から望んで仮想化されるならまだしも、まだまだ健康な肉体を捨てて、こちら側の世界に強制的に送り込むというのはね。それがこの先幾度も繰り返される実世界の意思だとすると大きな間違いだと思った。仮想世界は素晴らしいよ。君も来れば気にいると思う。肉体という限界がないから膨大な情報と知識の海を自由に漂うことができる。思考のスピードも君たちがインプラントや支援AIを使ってもとても追いつけないほどに速い、それは素晴らしいことだよ。でもそれは、その生き方が好きな人にとってはいいっていうだけで、普通に肉体とともに生き、死んでいく生のほうがいいという人も多いんだなということも私たちは知っていた。私は、ポゴリン共和国の暮らしを観察した。何ヶ月もだ。そして、彼らのなかには単なる普通の人もたくさんいて、彼らは仮想化世界で暮らすことに対する想像力を微塵も持っていないことが気がかりだった。ならば、今後永遠に彼らを受け入れる仮想世界の力を使って、仮想化への不安を取り除いてあげたいと思ったんだ」

「フィサリス博士も、その考えには共鳴していたみたいですね。実世界に被害が生じるまではね」

「確かに、私たちの攻撃で、実世界には甚大な被害を出してしまった。それもあり、億単位の人々の仮想化を急ぎたかったんだ。金融操作程度のことで基盤がゆらぐ実世界に見切りをつけて、仮想世界に来た方が幸せに決まっていると信じていたからね」

「なるほど。まあ、でも人って『人それぞれ』ですからね」

「『人それぞれ』か。それが、君の『超多様人格AI』のアルゴリズムの基本だったね」

「いやいや、ホンットに多様ですから。特に、この二百年くらいですか? どんどん多様性が認められるようになって、個性的な自分自身を自己既定し肯定して、超多様性社会が生まれていきましたからね。みんながそれぞれにある種の万能感をもって、差別されず、承認され、自尊心を満たして暮らしている。そんな世界になってますから。本当に、バカみたいに能天気に多様なんですよ〜。そして、それが、実世界の素晴らしさなんですけどね〜」

「なるほど。そういうのは、理解してなかったかもしれないな。君たちが作り変えたディラックのAIと対話するまでは思いもよらなかったよ。リカコ、君が想定した何十億もの多様な人格を見るまではね。あれは、本当に素晴らしい仕事だ」

「ったく、誰が設計したと思っているのよ! 『超多様人格AI』は、仮想世界を含む全世界で私にしかデザインできないんだからね。国連もあなたたちも、ご老体はそろそろ一歩引くべきなんですよ」

「そうか。考えておくよ」

「そうしないと……」

「……??」

「若い子たちに、『老害キモ〜』っていわれるようになりますよ」


 そういい残して、リカコはログアウトする。


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