第50話:【アーシェ】知る勇気─3
分かりたくない。ということは、分かっている。意識的に拒否している。ベッドの上で毛布をかぶり、二度と出ないと言っているようなものだ。
優しいお母さんなら。真っ直ぐ育った娘なら。ちょっとした言葉のかけようで出てこられるのだろうし、他にいくらかの選択肢もあるんだろう。
……でも、あたしには思い付かない。
「分かったわ」
自然と、声が低まった。伝わる温度も下がったはずだ。ベスのうなじが、びくっと動く。
「分かり合えないってことが、ね。これから先、あたしとあんたが顔を合わせることはない。それがいいと思う」
蹲るベスを見据えたまま、腰の小袋を探る。独特のつるつるとした感触が、手に黒曜石を握らせた。
「大地の意志。怒りと冷徹を両手に持つ者――」
かけようとしたのは、感覚に働く魔法。あたしとショタァとが目に映っても、居ると認識できなくする。
こうすれば、彼女があたしのことで悩む必要はなくなる。これが唯一、最良の解決策だ。ベスもじっと、抗う素振りがない。
「あっ、あの。アーシェさん」
それなのに、詠唱を止められた。既に形を失いつつあった黒曜石が、そのまま崩れていく。臼で挽いたような細やかな砂が、サラサラと指の間を流れ落ちる。
「どうしたの?」
裾を引っ張る小さくて華奢な手を、上から握った。高い体温に、溶かされてしまいそう。逆に彼は、きゅっと縮こまった。
「その、ええと。一つだけ、聞いてもいいですか。ベスさんにです。すみません」
「謝る理由なんて、なにもないわ。あたしこそ、狙われたのはあんたなのにごめんなさい」
もじもじと。ともすれば俯きがちな視線を、懸命に前へ向かせる。
それほど意気込んで、今さらなにを聞きたいのやら。もちろん当人に言った通り、なんであろうと止めはしない。
「あの、ベスさん」
固く閉じた貝の目の前へ、ショタァは立った。子どもの彼の腕でも、伸ばせば背中まで触れられる。
それでも呼びかけに、反応は無かった。身じろぎひとつ、咳払いさえも。
「僕のことが気に入らないのは、よく分かりました。だから答えたくなかったら、そのままでいいです。それが答えなんだなって思います」
下手をすると煽り文句ともとられかねない。いい歳の男が場末の酒場なんかで言えば、ほぼ確実にケンカになる。
しかしそんな意図のあるはずがなく。ベスを見つめる視線は、ただただ真っ直ぐで熱い。次の言葉を探す表情は、迷いながらも真剣そのものだ。
「なぜ、聞かなかったんですか。どうして嫌いな人間を傍に置くのかって。それよりもっと、自分と仲良くなってほしいって」
それはたった今、ベスが言ったのを繰り返しているだけ。と、割って入るのは簡単だ。
でもショタァが聞けば、また別の答えがあるのか。聞いてみたいと思った。
「……虫も殺さないみたいな顔して、随分なことを言うのね」
「えっ? あ、いえ違います。最初がなんだったか分かりませんけど、行動する前にです。そうすれば、違う結果があったんじゃないかなと」
貝は閉じたままだ。殻の内側から、声だけがした。少年は困惑の表情のまま、口角を少しだけ上げる。
「なぜそんなことを問わねばいけないの? あなたは道を歩くのに、いちいち問うの? この砂粒は踏んでいいかって」
「ええと、僕が砂粒ってことですね」
「気に入らなければ、花を枯らす害虫よ」
「いえ。僕なんて砂粒なんでしょう、ベスさんにとっては」
ショタァは自分という存在の価値を知らないから、どんな評価でも否定する根拠がない。
時間を共有してきたあたしには分かるけど、ベスには伝わらない。
「無様に目論見を潰えさせた私には、なんと言われても平気というわけね。ええ、仕方ないわ」
「そんな、違います。僕はずっと、誰かに言われるまま生きてきたから。アーシェさんやベスさんみたいに、進む道を自分で切り拓くのを凄いと思うんです。だから、勿体ないなって」
ああ……。
ショタァはベスを、自分と重ねているんだ。自身の意にそぐわない、誰かの意図。
片や翻弄されるばかりで、きっと逆らう選択肢にさえ気付いていない。
片や自分を通すことばかりで、意図を持った誰かを気遣う選択肢が無い。
「勿体ない? 事前に聞いたら、どうだと言うの。害虫を放っておけば、花を枯らす。取って潰すのに、躊躇う時間だけムダというものだわ」
「ええ。自分ではよく分かりませんけど、害虫と言われるなら否定しません。でも、花はどうですか?」
問うように見せて、自分がどんな位置に立っているのかたしかめようとしている。それはたぶん今でなく、この世界へ来る前の。
「どうって、どういうこと」
「花にも要望や都合があると思います。害虫を取るにしても素手で触れるなとか、実はその花にだけは役に立つとか。もしかするとその花は、花でないとか」
当事者の意思を無視しないでよとは、根本の話。あたしが説くならともかく。排除しようとしたショタァが言ったのでは、聞けるものも聞けない。
案の定、ベスはまた黙り込んだ。
「ええと……」
聞きたいこと、が尽きたらしい。可愛い使い魔は、口を開きかけては閉じてを繰り返す。
彼の気が済むまで、待ってあげようと思う。のに、お節介な吸血鬼が口を挟む。
「ああっと、お呼びでないのは分かってる。だが二つだけ言わせてくれ」
ショタァがダメと言うはずがない。ベスは黙ったまま動かない。残るあたしにも、特に止めるだけの理由がない。
好きにすれば? と、投げやりに視線を向けた。すると女誑しは胸に手を当て、恭しく頭を垂れた。
「丁重かつ静粛に、場を譲ってくれてありがたい。早速だがお嬢さん、ベスと呼ばせていただいていいかな」
答えはない。しかしヨルンは満足げに頷き、なにに対してか「ありがとう」と礼を言った。
「ではベス。余計な世話だろうが、この少年について言わせてほしい。彼は幼く、それだけに経験が乏しい。しかし立場の違いを受けいれる度量は、誰よりも大きい。俺などは、はちきれないか心配で夜も眠れない」
甘い言葉は、女にだけじゃないらしい。当人は「そんなことないです」と頑なに否定しているけど。お世辞だとしても、あたしは嬉しい。
「いいこと言うじゃない。で、もう一つは?」
ショタァの弁護をして、次はベスにかなと予想した。女好きの吸血鬼らしく。
けれど、違った。
「もう一つはだな、あまり悠長に話している猶予がない。見れば分かるが、魔女を狩ろうと兵士が隊列を組んでいる」
参ったなと頭を掻きつつ、ヨルンの青白い指が町の方向を指す。建物もサイコロくらいに見えるけど、街の出口に兵士が居るのは分かった。
それはなにしろ、百を超える数が並んでいたから。
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