第48話:【アーシェ】知る勇気─1
殺したくはなかった。
散々の嫌がらせも、憎いとは思っていない。他の魔女、他の人間にされていれば、こんなものでは済まさなかったと思う。
もちろん、腹が立った。ベスの持つあたしの知識は、ほとんどがあたしの話したこと。それをどうして抉り出すのかと。
五十年くらい前、初めて出会って。噂に聞く極悪な魔女と知って、はしゃいでいた彼女。
ここ七、八年が最も距離を近しくしていた。新しい住処探しのタイミングが同じで、物理的な距離が近くなったからだ。
なんだかんだ、月に一度くらいは顔を会わせた。年に一度くらいは泊まりに来るようになった。
あたしを全肯定してくれるのが、むしろ危うげで。見ていてあげなきゃと不安にさせる子だった。
それがどうして、こんなことをしてくれたのか。よりによってショタァを狙うなんて。
もう一度話せるのなら、まず問いたいのはこのことに尽きる。
「どうして……?」
ベスを飲み込んだ大地に、目印はない。あまりに平らで、石ころ一つの凹凸さえなくて。目を逸らしたら、もうどこだか分からなくなる。
だからじっと、見つめ続けた。答えのあるはずもない問いを、呟きもした。自分の耳にさえ、かすれて聞こえなかったけど。
「少年。どうにも派手なことだな」
ベスの声でない。男だ。
かと言ってショタァでもない。少し離れた後ろからで、誰なのかくらいはすぐに見てみるべきだ。
でも、その気になれない。きっとショタァが代わりにたしかめてくれる。うちの使い魔は、優秀なんだから。
「よ、ヨルンさんどうしてここに。って、それ」
ほら。
ユリアを看ているはずの吸血鬼が、なにをしているのやら。それは分からないけど、まあ警戒する必要は無いらしい。殺気に類する感覚も無かった。
「ユリアが目を覚ました。礼を言うのと、宿泊賃の精算をしようとしたら、主が居ない。捜しに来たというわけだ」
「えっ? いや、まあ。お代は十分に貰ってますから、大丈夫ですけど。それより――」
なにか気になるらしいのに、はっきりと言わない。先走って身勝手なことをしないのが、ショタァの美徳だ。
それでは収まらないこともある。大胆に振る舞ったほうが、互いに納得出来ることも多い。とは、これから覚えればいい。彼にはまだまだ人生の先があり、あたしが教えてあげられる。
そんなことを考えると、振り向くくらいの気力は戻った。
「こんなところまで追って来なくても、じきに帰る……わ」
用意した言葉の先に詰まった。こんなではショタァのことを言えない。
でも仕方がないじゃないと、自分に言いわけする。誰だって目を疑い、ほんの少し前の出来事を反芻するはず。
「それ」
「それ、とはかわいそうに。これほど可愛らしいお嬢さんを捕まえて。まさか死体と勘違いしているのかな? それなら大丈夫だ、かすり傷程度は、目を瞑ってもらわなければならないが」
服をあちこち破いて、はちきれんばかりの筋肉が丸見えになっている。自身と恋人とが瀕死の憂き目に遭っても、女好きは治らないらしい。
「よほど怖ろしかったんだろう。意識はあるが、返事をしてもらえない。お嬢さん、降ろしてもいいかな?」
ヨルンは女性を横抱きにしていた。ローブのように纏った黒い布には、目立った傷もない。
ただし顔は見えなかった。ガタガタと全身を震わせ、地面に降ろそうとした太い腕へ縋りつく。
「この通りだ。どうにかならないか?」
肩を竦め、困ったという顔を作る吸血鬼。とてもそうは見えないけど。
「あの。ヨルンさんが助けてくれたんですね、でもどうやって」
殺そうと。いや、殺した気のあたしが、なんと声をかければいいのか。迷う時間を、ショタァが埋めてくれるようだ。
気負いなくヨルンに寄っていく背中が、とても頼もしい。
「ああ、高い所に居たからな。しかし俺の跳躍力は、なかなかのものだ。ちょうど高台の上だったし、後からあとから足場もせり上がってきた」
「あの、いえ、そうではなく。いやそれも相当に凄いんですけど。魔法に、その。飲み込まれたんじゃ?」
あぐらをかいたヨルンの脇から、ショタァは覗き込む。抱えられた女性は筋肉の胸板に顔を埋め、気付いてもいない。
「食われたさ。腕と脚が、二回ずつくらい持っていかれた。しかしさっきのは物理的な威力ばかりでな、あの牙が炎とかならまずかったが」
「へ、へえ……」
衣服の破れた部分を示し、ヨルンは笑う。誰かをバカにした感じでなく、ただ愉快そうに。
「ヨルン。ありがとう、お礼を言っておくわ」
「これはこれは。余計な真似をしたと叱られないか、ビクビクしていた」
「そのほうがお好みならそうするわ」
冗談を言う気分じゃなかった。でもそんなことでも言っていなければ、決心が揺るぎそうだった。
ショタァが間を持たせてくれて、ようやく決められたのに。
「ベス。返事をしなくてもいいから、聞いていてね」
呼びかけても、反応はない。ぎゅっと身を強張らせたのが、そうとも言える。
迷っていたのは、ベスと話すか否か。話さないなら、このまま放って帰ればいい。恐怖が癒えるには、しばらくかかるだろうし。それがちょうどいい、お仕置きにもなるはず。
「これからあんたの恐怖を消すわ。感情だけで、記憶なんかには手を出さない」
でもあたしは、今すぐに話すことを選んだ。話して、なにか行き違いでも見付けられたら、解消したいと思った。
「いい? 触れるわ、あんたの首よ。ちょっと強く撫でるけど、それ以上はしない。誓うわ」
声の大きさ、強さはこれでいいだろうか。躊躇い、戸惑いながら触れる。びりびりと痺れるような細かな震えが、指先に伝わった。
「退け、嘆きの精霊よ。去れ、心に冬を呼ぶ者よ。生気を欲するなら、代わりを与えよう。これを持って、何処かへ立ち去れ。ハアッ!」
ぐっと指を押し込む。ちょっと強めのマッサージだ。
というのも喩えでなく、事実。あたしに精霊と意志を疎通する術はない。恐怖を消す魔法なんて知らない。これは単なる暗示をかけただけ。
「ベス? これで怖さが薄れていくはずよ。あたしはあんたを見限ってはいないの。どうしてあんなことをしたか、あんたと話したかったの。信じてくれるでしょ?」
ひと言ずつを、ゆっくりと聞かせた。もう手は離したのだけど、ベスの震えが収まっていくのが見えた。
何度か痙攣のように強く震えたけど。それも止むと、ベスは自分の足を地面に触れさせた。
立とうとしてふらついたのを、ヨルンが支える。女誑しの吸血鬼は破れたシャツをベスの座る地面に敷き、自身は場所を譲った。
「私、憎かったんです」
すとんと尻もちをついて、すぐに告白があった。
顔は概ねあたしのほうを向いているけど、視線は合わない。ちょっと俯いたまま、ベスは訥々と語った。
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