第38話:【正太】薬売りの正体─3

 しばらく気配を探っていても、誰かが居るようには感じられなかった。

 逃げられるなら、逃げたほうがいいよね。見張られていないのだから、きっとそれで間違いない。


「ええと……」


 しかし、どこから。

 この部屋は、たぶん六畳間くらい。出口の場所を見ておけば良かった。


 流れ込む風の方向とか、分からないだろうか。耳を澄ませても、なにも聞こえない。静かな場所で聞こえる、耳の奥でサーッと鳴る音だけだ。


「せぇの。よっ、と」


 手が背中の側で縛られ、同じく脚も。たったそれだけで、地面を転がるのが難しい。まあ体育の成績は真ん中の、ふつうだったけど。


 それでも壁際までは移動できた。あれ? 上半身が起こせない。正座が出来れば、どうにかなると思うのに。

 とりあえず勢いをつけて、後ろへ反る。が、失速した。


「あっ!」


 見えない地面の、迫ってくる感覚だけはあった。手を出したくても動かせない。だから当然に、顔面から着地をする羽目になった。


「うぅぅ……」


 泣きごとを言っても仕方ない。黙っていたかったのだけど、激痛に声が漏れた。幸い、傷や鼻血にはなっていないと思う。


 普通にやったのではダメだ。どうしたらいいか、少し考える。

 その結果、多少の痛みや怪我は覚悟しなければいけない。今みたいに予想外でなければ、どうにかなる。


 まずはうつ伏せ。そこから膝を立て、壁に頭突きする。額を手の代わりに使い、段々と位置を高くしていく。

 膝立ちになれれば、後は簡単だ。正座から一気に立ち上がる要領で、膝を使って跳ねる。


「おっととと」


 勢い余って、倒れるところだった。それでは額の痛みと、流した汗で泥塗れの顔と、使った体力が水の泡になる。

 バランスを取り、両脚でジャンプ。

 いける。もの凄く疲れるけど、進むことには問題ない。壁を伝い、感触の違う箇所を探していった。


「無い……」


 四方を探り終えて、通路や扉は見つからなかった。小さな穴さえも。

 もちろん、額を擦り付けられるより上は調べられなかった。でもそんなのは、あっても辿り着けない。


 およそ一周した元の位置で、僕は倒れた。

 息が切れて、耳の辺りの血管がうるさい。心臓もバネでも付けたみたいに跳ね回るし、指先が震え始めた。


 出口が無い。

 誰も居ない。

 たった二つの事実を、どうしようもないほど理解した。疲れて動きたくないのに、視線と首だけは動かしたくなる。


「誰か、光――」


 人間の声が聞きたい。誰かの顔が見たい。

 いや、声でなくてもいい。お茶を沸かすケトルの音とか、集めた石を数える音とか、人間ならではの音でも。


 それに音以外の、なにかが知りたい。地面の砂粒でもいいから、僕の他に物が存在すると目に見たい。


「誰か、誰かあっ!」


 薬売りでもいい。戻って来て、僕を怖がらせてほしい。一人でここへ居るのに比べれば、どんな拷問だってましな気がする。

 無様に土へ頬ずりをして、黴の臭いに包まれているよりは。


 ――黴の臭い?

 そうだ、ここは黴臭い。小学校の校舎の裏にある、いつも陰になった用具倉庫。あそこもジメジメしていたけど、ここより千倍もスッキリしていた。


 黴と湿気。今の今まで気にしていなかったのに、気付いてしまうと嫌で堪らない。

 土に触れた場所から腐ってしまうようで、せめて顔だけでもと浮かせる。すぐに首が疲れて、諦めたけれど。


「アーシェさん! 助けて! 僕はここですよ!」


 耳鳴りがする。いかにもな古い電子音みたいに、きゅうんきゅうんと波打つ。

 そのつもりでなくても、意識が耳に集まった。すると今まで気付かなかった音まで聞こえ始める。


 サササと、葉っぱかなにかで土を掃く音。小人が走るみたいな、トトトトッという足音。やっぱりどこかには穴があるのか、ふうっと風の抜ける小さな音。ずっと聞こえるわけじゃなくて。今のは気のせいかなと疑うくらい不意に、短く。

 ネズミでも居るなら、触れたい。穴があるなら、探したい。僅かな希望を呼び覚ましておいて、残念でしたと小馬鹿に消える。


「誰か、誰かぁ」


 発した声も、本当に自分のか分からなくなってきた。涙で震えるせいもあって。

 泣いている自覚は無かったけど、目の周りが熱くて水の流れる感触がある。それに鼻の奥がツンとした。


「僕、なんでこんな所に居るんだろ」


 なんでもなにも、薬売りに攫われたからだ。なぜ攫われたかと言えば、アーシェさんが恨まれているから。僕がアーシェさんに呼び出されたから。


 この状況を、彼女のせいとは思わない。最初はわけが分からなかったけど、使い魔になれと言われて嬉しかった。ずっと一緒に居なくちゃいけないと言われたのが、神さまとかの救いに思えた。


「でも、日本に居れば」


 ぼそっと。勝手に口が動いた。勝手と言えば、お父さんとお母さんの顔が頭に浮かぶ。

 あそこに戻りたいとは思わない、けど。暑くても寒くても、お腹が空いても、死ぬ目には遭わなかった。


 叩かれたり、厭味を言われたり、冷たくされたり。悲しいことが多くても、逃げ出すことはできた。

 僕がその気にさえ、なっていれば。


「僕。嫌だって言ったこと、あったかな」


 日本での生活が、あまり思い出せない。学校の授業や、図書館でタブレットを触ったのはよく覚えている。

 それなのに自分の家のことが、間取りさえ曖昧だ。思い出そうとしてフッと浮かぶのは、怒鳴るお父さんと黙って見下ろすお母さんの顔。


「どんぐりころころどんぶりこぉっ。おいけにはまってさあたいへんっ!」


 唐突に、歌ってみた。静かすぎるのがいけない。だからこんなことを考えてしまうんだ。

 下手くそすぎて、選曲が子どもっぽくて、これはこれで嫌になったけど。


「くそぉ。アーシェさん、出して! 出してよ! 助けてよ!」


 腹が立って、なんでもいいから殴りつけたくなった。しかし出来なくて、壁を蹴る。パラパラと落ちる土の音が、ささやか過ぎて笑えた。

 どんなに騒いでも、悲しんでも。誰も気付かない。僕はまた、涙を堪えられなくなった。啜っても、啜っても、鼻が詰まる。


「アーシェさぁん……」


 アーシェさんが居たら、慰めてくれるだろうか。ここには顔を拭いてくれる人さえ居ない。

 よせばいいのにそんなことを考えて、居るはずのないなにかを浮かべてしまった。闇の中に、妄想の化け物が目を光らせる。ヌメヌメとした身体が、ハンカチを持って手を伸ばす。


「ひっ!」


 なにが現実で、なにが幻なのか。どこまでが自分で、どこからが闇なのか。徐々に、徐々に、あやふやになっていく。

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