第23話:【アーシェ】招かれざる客─1

 あたしの視界は、鮮血で満たされた。

 赤い噴水。懐かしい景色。人間の血を浴びるなんて、いつ以来だろう。


「なんてことを!」


 椅子から立とうとして、ヨルンはよろめく。しかし獣の形相で堪えた。床を踏みしめ、崩れ落ちたユリアを抱き上げる。


「ユリア! ユリア!」


 呼びかけに答え、唇がゆっくりと動く。もちろん声にはならない。ユリアは自分を指さし、その指をヨルンに向ける。

 愛する男と揃いになった顔色を、彼女は微笑ませた。ほんの一瞬だったけれど、たしかに。

 でもそれが限界。鋼の門扉を動かすように、瞼が閉じていく。


「なあお嬢さん。君は魔女だろう? どうにかユリアを助けてもらえないか」

「そんなことより。あんた、この子の気持ちをムダにするの?」


 自分を犠牲に、好いた男を生かす。長く生きていると、ときどきこういう人間を見かける。

 まあ、分からなくはない。他の女は良くて、自分は相手にされて来なかった。蓋を開ければ、好意を疑われていた。


 じゃあこれくらいしなければ、信用してもらえまい。こうすれば自分は、相手の唯一になれる。

 理屈としては分かるけど、見合う相手が居るものだろうか。ヨルンがどうなのかは、ユリアの価値観だ。口出しすることじゃない。

 過去。あたしにそんな相手は居なかった。


「くそっ。どうしてだ。うまい。なんでこんなにうまいんだ」


 ユリアの死を眺めながら。ヨルンは血を啜った。よく言われる吸血鬼の姿そのままに、首すじへキスするように。

 目尻からは、赤い涙。彼は彼女を喪って、今後どうするんだろう。すぐに忘れて、心置きなくを探すのか。

 人間の心を知りたくてこんな商売をしているけど、吸血鬼の心を知るのも面白いかもしれない。


「満たされた?」

「ああ。ああ! これで俺は、また何百年だって生きられる。ユリアを失くしてだ。ユリアの居ない時間を、なにに使えばいいって言うんだ!」


 気持ちはともかく。ヨルンの身体は目に見えて回復した。悲しみと怒りの同居した眼光が黄金に輝き、肌はさめざめと白い。朱に染まった腕は隆々と脈打ち、軽くなったユリアを支えるのに、危なげなかった。


「あたしに聞かれても知らないわ。ユリアと相談して決めなさいな」

「……お嬢さん、酷なことを言う。俺はそもそも温厚なほうだが、今は違う。君を肉塊に変え、盗賊の町を滅ぼしに行かねばならん」


 なるほど、単純な結末らしい。この男は感情のまま自我を失い、吸血鬼の力を憎しみに費やすだろう。

 そうなれば人間が滅びるか、打ち倒すだけの何者かに滅ぼされるか。どちらにしても破滅へまっしぐらの、化け物が生まれるということ。


「あたしを殺す気? 構わないけど、依頼を果たせなくなるわ」

「依頼? まさか――」

「そうよ。ユリアはまだ死んでいない。あたしなら起こせるわ」


 怒れる獣が、紳士へ立ち戻る。太い眉を下げ、声を震わせ、食いしばった歯の間から、懇願の呻きを発する。


「頼む。ユリアが生きてくれるなら、他のなにを失ってもいい」

「請け負ったわ」


 テーブルの上へ寝かせるよう言うと、ヨルンはその通りにした。皿が薙ぎ払われて壊れたけど、後で請求すればいい。


「来なさい、我が下僕。大地の炎」


 厨房の棚から。それに一階の整理箱から。裏の納屋から。家じゅうのルビーを呼び寄せる。

 ユリアを囲むように並べ、最も大きな石をあたしの手に。


「命の結晶。輪廻の卵。涸れた血潮を、もう一度満たしなさい。消えかけた炬火に力を与えなさい!」


 光を含むと、内で揺れる深い赤。あたしの魔力を通せば、それは本物の炎に変わる。人間の魂がある場所。ユリアの胸の上へ翳すと、ひと際大きく揺らめいた。


 そっと、油を垂らすように。胸へ落としても、炎がなかなか入っていかない。死が近ければ近いほど、この魔法は難しい。

 でも、あたしならやれる。消えないように。ゆっくり、手早く、両手で蓋をする要領で押し込んでいく。


「終わったわ」


 すっかりと収めて、少し眺める。身体が拒絶して吐き出すことがあるのだけど、それも無かった。テーブルに囲んだ炎も、順に吸い込まれた。

 成功だ。ユリアは弱々しいながら、落ち着いた呼吸を始める。


「ユリアは……」

「疲れて眠っている状態よ。何日かすれば、元通り。おかげで集めたルビーを使い切る羽目になったわ」


 お金なんてどうでもいい。あれば便利、というくらい。たとえばこういうとき、お金のせいにしておけば面倒な感情を求められなくて済む。


「なんと礼を言えばいいか。いや、代金だな。今は報いるだけの持ち合わせがない。ユリアが回復したら、すぐに取ってくる。それまで待ってくれ」

「ええ、信じるわ」


 ヨルンはあたしの手を握り、支払いを約束した。じっと見つめるので、女誑しを発病したかと思ったけど違った。彼はすぐにユリアを抱え、大部屋へ戻っていった。


「あ。ベッドのある部屋に替えてあげたほうが良かったかな。ねえショタァ?」


 扉が閉まってすぐに気付いたけど、慌てて追いかけるほどではないはず。夕食のときか、明日でもいい。


「ショタァ?」


 呼んでも返事がなかった。見送っていた目を彼に向けると、まだ椅子に座ったままだ。

 ユリアが喉を裂いたとき、たぶんこの格好だったんだと思う。ナイフとフォークを持ったまま、硬直している。


「驚いたよね。大丈夫?」


 ショタァの居た世界は、獣を狩ることさえないと聞いた。生きる為に血を見る必要がない。そんな場所で育った、まだ九歳の男の子。レーの解体にも、最初は近寄れなかった。


 彼にもしものことがあったら、あたしはどう感じるんだろう。ユリアのように、自分を犠牲にしてでも救いたいと思うのか。ヨルンのように、自我を失うほどの衝撃を受けるのか。

 いくら想像しても、実際にそうなってみなければ分からない。


「ねえショタァ、本当に大丈夫?」

「あっはいっ」


 良かった、返事をしてくれた。あたしを見上げ、ヨルンの出て行った扉を見つめる。呆然としていただけで、起きたことは見届けたらしい。


「ええと、あの――」

「びっくりしちゃったんでしょ。なにか言いたいなら聞くけど、慌てなくていいわ」

「その、すみません」


 彼が謝ることなど、なにも無い。使い魔として役に立てないと悩んでいるみたいだけど。あたしはショタァを可愛いと思ってて、傍に居るだけで癒やされる。


「いいってば」


 頭を撫でようとして、血塗れなのを思い出した。湯場を汚すのも嫌なので、裏の畑へ下りた。

 甕から魔法で水を持ち上げ、頭の上で解放する。心地いい重みが、嫌な空気と血糊を押し流してくれた。


「お姉さま!」


 ローブを脱いで絞っていたら、上から声が落ちてきた。見上げるまでもないけれど、返事はしてあげなきゃ。

 手を上げて、箒に跨った後輩魔女に向けて振る。


「ベス。遊びに来てくれたの?」

「お約束しましたのに、すっぽかしてしまったので」


 ふわふわと、淑やかに地面へ降りる。前に見たときより、かなり上達した。

 今日も赤いワンピースと、フリルのエプロン。色彩は同じでも、少し形が違ったように思う。


「今日もおしゃれね」

「お姉さまこそ。今晩、泊めていただいてもいいですか」

「それ皮肉なの? もちろん歓迎よ」

「お姉さまはお姉さまだから、いつでも最高なんですよ」


 昔から、手放しの感じで慕ってくれる。出会ったのは五十年くらい前で、その時のベスは五十歳。ようやく一人前と呼べる頃合いだった。

 いつもべったりと腕や脚に絡みつくのが疲れるけど、悪い子ではない。


「じゃあ三階のいつもの部屋を使って」

「ありがとうございます。勝手に入らせてもらいますね」

「構わないわ」


 あれ? 今日は握手さえしないで、家に入っていった。鍵の在り処なんかも全部知っているから、案内は必要ないけど。


「そういえば二組もお客なんてね」


 珍しいこともあるもんだ。なんてぶつぶつ言いながら、ついでに下着まで洗濯した。

 けれども今日は、珍しいだけに留まらない。記録の更新がされたのは、日が暮れてからのこと。


「あら、どなたかお呼びのようですわ」

「そうね。見てくる」


 ベスを交え、三人で夕食をとっていたとき。錠をかけた表の戸が激しく叩かれた。

 不躾な人間は、あまり好きでない。大部屋の入り口を視界の端へ映しつつ、出迎えに下りた。まだ口数が戻らないけど、健気にショタァも着いてきてくれる。


「誰か! 居るだろう、扉を開けてくれ!」


 家の大きさを見れば、返事をするのにどれくらいかかるか分かるはず。野太い声が、ほとんど休みなく扉を叩き続けた。

 こういう態度をする人間には、心当たりがある。兵士とか騎士とか、腕っぷしで国に仕える輩だ。


「はいはい。聞こえてるわ」


 扉の前には、二人の男が立っていた。案の定、紋章付きの鉄環鎧リングメイルに剣を提げている。


「女。我らはニーアの衛兵隊だ。急ぎの道中だが、荷車が故障してな。修理の材料や食料を分けてもらいたい」

「高くてもいいなら」


 あたしもまだ若い。不機嫌が、ため息として出てしまう。

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