第6話:【アーシェ】伝わらぬ思い─1
若き日の夫からの恋文を、大切にしていた老婆。あの件を話した翌日、あたしにも手紙が来た。もちろん、ただの偶然だけど。
差出人は最寄りの町に住む男性らしい。でも、知らない名だ。
「あれ、お手紙ですか」
「うん。なんだかこの店に来れないから、町まで来てくれって」
「へえ、お仕事ですね。近いんです?」
おや。そう言えばショタァは、町へ行ったことが無かったっけ。昼食の片付けを終えた彼の手には、あたしの薬茶を載せたトレイがある。
毎日あたしの気分に応じて、種類を変えて出してくれるのだ。なんていじらしいんだろ。
「街道を西に、馬車だと丸一日だね」
「それ、ものすごく遠くないですか?」
「そうね。ちょうど日が暮れれば、宿に泊まる人間も居るだろうって魂胆よ」
ハッカの香りのする、緑色のお茶。気分のモヤモヤしているときにはぴったりだけど、今はそうでもない。
でもショタァは魔法が使えるわけでなし、彼なりの気遣いに悦ぶばかりのあたしだ。
「町って大きいんですか」
「さらに西へ行くと王都があるんだけど、その次くらいかな。どうして?」
「いえ。大きな町なら、結婚式をする場所なんかもあるんだろうと思って」
「あるね、あたしには用が無いけど」
危うく、また求婚されるところだった。食べてしまいたいくらいの彼に、難点を挙げるならたった一つ。
毎日欠かさず、最低一回は「結婚してください」とあたしに申し込むこと。
本当にあれだけは勘弁してほしい。言われる度、あたしがどれだけ嫌がっているか、どうして伝わらないんだろう。
毎回毎回、小憎らしい悪魔に囁かれると、うっかり承諾しそうになる。他のあれこれには察しがいいんだから、これこそ察してくれればいいのに。
「アーシェさんは形式に拘らない、と」
「そういう意味じゃない」
「冗談です。そんな見え見えのタイミングで言うはずないじゃないですか」
冗談には聞こえなかったけど、この話題を長引かせたくはない。「ふうん」と曖昧な返事に留めた。
「そんなことより、出かける準備をしなさい」
「え、町へ行くんですか。もうお昼を過ぎてるんですよ」
「問題ないから、大きなリュックを持ってきて」
そう。町までの距離くらいは、問題にもならない。考えなければいけないのは、この手紙が来たことそのものだ。
「アーシェさんのと僕のと、二つでいいんですね。こんなに買い物をするんですか?」
「するかもしれないけど。その前に、遠くからの旅人を装う為よ」
納屋へ下りたショタァは、あたしのリュックを引き摺って戻った。畳んであるのだけど、小柄な彼にはそれでも大きすぎるようだ。
予備のリュックを背負った姿がまた、なにやら頑張ってる感じがして堪らない。
「さて、じゃあ行きましょう」
「行くって、ここ二階ですけど」
人間ならば当然の疑問を、あえて聞き流す。食堂の隅に立てた箒を取り、街道を見下ろす窓を開け放した。
「箒よ箒。大地の鎖を切り払う者。あたしを意のままに、空を舞わす風になりなさい」
柄から穂先まで、魔力の通った箒をぐるんと回す。あたし自身を中心として、円を描くように。
そうすれば、ほら。もう体重を感じることはない。このまま箒を跨げば、多くの人間が想像する空飛ぶ魔女だ。
「ショタァ、おいで」
「は、はいっ」
ふわっとした感触で、まだどこか赤ん坊のようなショタァの腕。鍛えたあたしの細い腰さえ、一周に届かない。
「帯に指を絡めて、しっかり握ってるのよ」
「分かりました」
「じゃあ行くよ、いち、にの、さんっ」
軽く床を蹴り、窓を飛び出した。ちょっと曇り気味なのが残念だけど、目立たないからいいかと思い直す。
家の周りの木々は、すぐに眼下となった。どんな風に森が広がり、川がどこからどこへ流れるのか見渡せるまで昇る。
やがて湿った霧に頭を押さえつけられた。これより上に行くと、びしょびしょになってしまう。
ショタァはどうかなと振り返ると、口をぽかんと開けて地面を見ていた。
「どう、怖い?」
「いえ、とんでもない。僕、遊園地とか行ったことないんですけど、たぶんこんな感じなんですね!」
「遊園地ってなに?」
彼の世界のことはよく分からないけど、似たような経験の出来る場所があるらしい。
「もう少し速く飛んでも平気ってことね?」
「た、たぶん!」
「上等よ」
乗り心地はともかく、飛ぶ速さであたしに勝てる魔女に会ったことがない。当然にまだまだ全力なんて出さないけど、ショタァがどれくらいまで大丈夫なのか、知っておくことも必要だろう。
「無理と思ったら、すぐに言ってよ!」
「はい!」
箒に与える魔力を徐々に増す。風が強風になって、空気の壁へと変化していく。馬車ならあくびの出るほど続く街道の直線がすぐに終わり、丘を巻く緩い上り坂がどんどん後ろへ流れていった。
やがて地上は、景色一面の小麦畑に変貌する。魔法も使えない人間が、これだけの面積を大したものと思う。
持ち主が違うのだろう。区画を十も二十も飛び越え、ようやく町を目の前にする。ただ残念なことに、ほんの少し雨粒が落ち始めた。
「ここがニーアの町だよ」
「三十分くらいで着いちゃいましたね、すごいです」
町から離れた茂みに降りると、ショタァは初飛行の感想を語った。歳に似合わずいつも落ち着いた彼にしては、鼻息が荒い。
「三十分て? あんた、全然平気そうね」
「いえいえ。バスや電車より速いので、ちょっと驚きました。でもアーシェさんと一緒ならなにも怖くないんです」
まずい。今日はあたしのほうから求婚しそう。いやどうにか、ギリギリでしないけど。
「ちょっとかぁ。それなら次は、全力で行けそうね」
「うわ、まだ速く飛べるんですか」
雑談はほどほどに、旅人を装ってくたびれた格好をする。と言ってもショタァの裾をはみ出させたり、あたしの胸元をはだけたりするだけ。
「手紙の人は、どこに居るんですか?」
「なんかね、乗合馬車の集金人なんだって」
特に身分を問われることもない、形だけの門を通る。町の中央へ続く、石畳の馬車道を進んだ。煉瓦積みの家々が、濡れそぼって茶色に染まる。
しばらく。ぶつかったのは、大広場だ。強くなりそうな雨を警戒して、露店が少しずつ片付けられ始めていた。
細い丸太を立て、帆布を屋根に。商品を入れた木箱も、一つ一つ軽くはない。このまま雨はやまないのか。客足は途絶えるのか。判断を踏んばっている露店が、まだまだ列を成している。
その中の誰か、と言われたら探すのが面倒だった。でも今回は、乗合馬車の待合場所へ行けばいい。
果たして、集金人らしき男は居た。
「ねえ。あなたがエトヴィン?」
紐で吊った、茶色の木綿ズボン。最初は白かっただろう、長袖のシャツ。ズボンの切れ端を被っているのか、見間違えた帽子。
継ぎ接ぎだらけの服を着た、みすぼらしい若者。二十歳は超えているだろう。グレーの髪を整えれば、それなりに見られた顔になるはず。
「ええ、そうです。あなたがアーシェさんですね。私のことは、エトと呼んでください」
集金のバッグが濡れないよう腹に抱え、自分はずぶ濡れのエトは、なかなかに爽やかな笑顔を見せた。
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