第十四話「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」
◇
史上最悪のスメルズ・ライク・ティーン・スピリットだったと思う。
やった本人が言うんだから、多分間違いない。
殆どの人は、「まずそれ何?」って首を傾げることだろう。
そのスメルズなんちゃらは九十年代のアメリカで一世を風靡したニルヴァーナというバンドの代表曲だ。どういう曲なのかと言われれば、一言には説明が難しいけど。ロックを全く聞かない人が聞けば「暗い」「怖い」「ヘビメタとかそういうやつ?」そんな感想で終わってしまうかもしれない、爆薬みたいに激しい曲。――グランジはへヴィメタルとは全然違うけど。
とにかく問題なのは、そんな曲を馬鹿な中学生が文化祭でやってしまったことだ。
2010年、ロックなんてもう聞いてる奴の方が珍しい時代。流行ってた当時ならいざ知らず、ニルヴァーナを知ってる奴なんて同級生には誰も居なかった。
誰も知らないような曲を、楽器始めたての初心者が文化祭でやればどうなるのか。
そんなの、少し考えれば分かる事だ。
でも、あのころの俺は本当に馬鹿でどうしようもない奴だったから。
ニルヴァーナもあの曲も大好きで、カート・コバーンに本気で憧れていたから。
……それに、気づけなかった。むしろ誰も知らないなら自分がその知らしめてやればいいなんて馬鹿なことを考えて、俺は意気揚々と文化祭のステージに上がった。
その後の事は、今でも思い出すだけで胃が締め付けられる。
しーんと静まり返った体育館は一生忘れられそうもない。
あの曲は、演奏する分には簡単だから初心者向きの楽曲として知られる。実際、楽器始めて二か月そこらの俺達でもある程度演奏は形になった。でもそれはあくまで楽器だけの話であって、あの壮絶なしゃがれ声でシャウトするボーカルの難易度は尋常じゃない。そこが、ライブ失敗の最大の要因だった。
ゲロライダー。あの日から俺はそう呼ばれるようになった。
歌う事自体には自信はあった。昔から歌うのは好きだったし、声変わりしてからも特に不自由はしなかった。合唱の時、音楽の先生に名指しで褒められた事もある。
ただ、カート・コバーンのあの声に憧れていた当時の俺は、それを必死に出そうとして喉を無理やり締め上げ、聞くに堪えないダミ声でサビを叫んでいた。いや、あれはもうダミ声なんてものじゃない。人をただただ不快にさせるだけのゲロ声だった。
ああ。この曲が嫌いだと言っていたカートは。
それを見事なまでにぶち壊した哀れな俺を笑ってくれるだろうか。
俺はといえば、笑えなかった。
ひょっとしたらこの曲が流行っていた当時はそんな痛いライブをしてしまう中高生はザラに居てよくある笑い話にもなったんだろうが。そこは現代。ご丁寧にも親切な誰かが俺のゲロ声ライブの様子を動画に撮っていてくれてさらにご丁寧にも動画サイトにアップしてくれていた。
【これはひどい】中学の文化祭でニルヴァーナ演奏してみた【ゲロライダー】
検索すれば今でも出て来る。
ボソボソと何を言っているのか分からない英語。サビになれば犬を絞めたような叫び声。歪みが効きすぎたギターの音は潰れていて、前髪が長い中学生が狂ったように頭を振っている。一体どこの馬鹿だこれは。カート・コバーンに謝れと言いたい。
でも、悲しい事にそれは俺だった。俺そのものだった。
再生回数は五千とちょい。低評価は五十以上でコメント欄には罵詈雑言の嵐。
何度も出した削除依頼申請は受理されなかった。上げた奴が消さない限りもうネットの片隅にずっと俺のその恥ずかしい姿が残り続けるだろう。
でもまだ終わりじゃない。むしろここからが本番だった。文化祭の翌日、当然俺はみんなに笑い者にされるようになった。最初の内は俺も笑って誤魔化していたけど、段々とその弄りはエスカレートしていって、ある時同学年の奴がこう言った。
『ロックとかダセーよな』『ニルヴァーナとかキモいよな』
許せなかった。
俺のことはともかく、俺の好きなものを馬鹿にされたことが。
ロックはダサくない。俺がダサかっただけだ。ニルヴァーナはキモくない。俺がキモかっただけだ。そんなことを言っても無駄だった。俺が口を開けば開くほど口論は加速して雰囲気が悪くなる。そしてついに俺はそいつらと殴り合いの大喧嘩をした。
そして、ここからが最高に笑える話。
その喧嘩をした相手ってのが、卒業まで俺に嫌がらせを続けた連中ってのが。
俺が小学校の時に仲が良かった、一緒に野球をやっていた仲間達だった。
◇
「――先輩? 大丈夫ですか、先輩」
その声を聞いて、ようやく現実に引き戻される。眼の前には黄色い吐瀉物で染まった便器。ああ、なんで、こんなことに。さっきのが全部、夢だったらいいのに。
だけど聞き違いじゃない。
校内放送から今も繰り返し流れてる。俺の昔のゲロ声が。
「く、そ……」
口元を拭い、水を流して扉を開ける。
響をいつまでも心配させるわけにはいかない。
「先輩。……顔、真っ青ですよ。保健室行った方が、」
「いや、大丈夫」
「……この流れてる曲って、もしかして」
「ああ。一応、ニルヴァーナのスメルズ。俺が中学んときにやったやつ。……下手糞すぎて分かんねえだろ。はは」
洗面所で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔は、ぞっとするくらい血の気が引いていた。
「……高宮」
トイレから出ると、入口に五十嵐が立っていた。
「五十嵐、……悪い、何か急に気持ち悪くなったっていうか、昼飯食いすぎたのかな、はは」
何か言いたげな顔をして、五十嵐は俺を見る。見透かされてるんだろうな、色々。
曲はようやく止むと、ピンポンパンポーンと音が鳴り、放送部員の声が響く。
『お送りしたのは二年B組の、高宮太志くんのリクエストでスメルズ・ライク・ティーン・スピリットでした。なお、苦情等は本人へ直接お願いします。以上、放送部でした』
終わり際、聞き覚えのある笑い声と教師の怒鳴り声が同時に響いていた。
判りきっていたことだけど、あれを流したのは。
「……坂上か。兄貴の方はマジで終わってるな」
五十嵐が毒づく。――坂上雅也。顔が広いあいつなら放送部にも知り合いが居るのだろう。あいつは俺と同じ中学で一個上だったから、あのライブの件は当然知ってる。まさか音源まで引っ張ってくるとは思わなかったが。
「気にすんなよ。こんな真似していい気になってる雑魚のことなんか」
「……ああ」
分かってる。そこまで気にしちゃいない。ただ、――あの人にあんなひどい演奏を聞かせてしまったことが。一番腹立たしかった。
◇
放課後は雨が降りだしていた。雨の時は流石に五十嵐宅の練習場も使えないから、休みにしている。まっすぐ帰るつもりだったが、放課後に一成からカラオケ行かないかと電話で誘いがあったので俺達は四人でカラオケボックスに行くことになった。
「――♪」
カラオケボックスの一室。マイクを握っているのは五十嵐で、ステレオポニーの曲を歌っている。歌声が意外と可愛らしい。あと普通に上手い。俺はといえば、部屋に入ってきてからウーロン茶をちびちび飲んでいるだけだった。
「いいぞー香月ちゃん! ヒューヒュー!」
「っ……うるせえぞバカ。……ほら高宮、お前もなんか歌えよ。選べないんならアタシが適当に入れてやろうか?」
五十嵐が隣に座り、マイクを差し出してくる。
「ん、ああ。いいよ気にしなくて。ただちょっと俺、なんか喉がイガイガしてて、今はあんま歌う気分じゃないっつうか、……」
「そっか。……体調悪いんなら、もう帰っとくか?」
「いやいいよ全然。それにほら、いつも俺基本的に一人でカラオケ来てっからさ、今日はみんなの歌聞けてこれでも意外と楽しいのよ。だから気にせず歌ってくれ」
「……わかった」
「うん。……よしじゃあ次の曲に迷ってる五十嵐さんのためにAKBの会いたかったでも入れてあげよう何かスゲー面白そう」
「やめろ」
阻止された。割とマジで聞いてみたいのに。
「それより高宮、今日オリジナル曲持ってくるって話、あれ、どうなった」
「ん? ああ。一応持ってきましたよ。USBとCDあるけど、どっちにする?」
「じゃあUSB。……あ。でもこれ今すぐには聞けねえのか……」
「いや別にそんな急がんでも。……どうしてもってなら一応これにも入ってるけど」
バッグの中から携帯音楽プレイヤーを取り出す。
「じゃあそれ貸して。吉井のファンモン聞き飽きたし、それ聞いてるわ」
「あ、先輩。あとでオレも聞いてみたいです」
「じゃあCDは響に渡しとく。一成は……まあいいや」
「えーっなんでぇ!? おれにも聞かせてよ!」
まあそれは後々。六曲あるうちの一曲目を選び、五十嵐に音楽プレイヤーを手渡す。昼間ほどではないけど、胃が少し萎縮するのを感じた。いざとなるとやっぱり緊張する。自分の曲が他人にはどう聞こえるのか。ちゃんと、受け入れられるのか。
「……」
イヤホンを耳に突っ込んだ五十嵐は、何も言わない。ずっと目を瞑っていた。
一曲目が終わると一時停止ボタンを押してこっちを見る。
「これ、本当にお前が作ったのか」
「え、うん。あ、もしかして何かに似てた? 何か気づかずパクってたり?」
「いや、……全然聞いたことない曲だ、けど。お前、これ……」
五十嵐は視線を落とす。なにか言葉を探しているようだった。
まあ自分でもどうかと思うくらい暗い曲だし、きっとコメントしづらいんだろう。
「……ちょっと俺、ドリンクバー行ってくるんで。適当に聞いててください」
逃げるように個室を出る。じっと目の前で反応を待つのは向こうとしても気を遣うだろうし、何より、俺が耐えられそうになかった。
「……」
誰も居ない廊下。一人になると、世界が異様に静かに感じられる。
不安はない。むしろ、さっきよりも随分と気持ちが落ち着く。
ああ。……結局、俺はこうだ。本来、俺はこっち側の人間なのだ。
独りでいるほうが落ち着く。そういう、――暗くて寂しい人間。
ずっと、仮面を被っている。「アホでタフでポジティブな奴」っていう仮面を。
昔は、小学生の頃は――それが俺の本当の顔だった。剥がれる事のない皮膚だった。だけど今は違う。こうして、その場しのぎに突っ立っているのが本当の俺だ。
先輩にビビって声が出なくなったり、自分の曲を聴かせる勇気がなかったり、トラウマを掘り起こされたくらいで、ゲロ吐いちまうような情けない奴。
今こうして部屋に戻れずにいるのは、自分の本当の素顔を、俺についてきてくれているあいつらに見られたくないからだった。
一成の優しさが痛い。五十嵐の勘繰ってくる眼が怖い。響に愛想を尽かされないかいつも不安になる。そう。信頼すべき仲間にさえ、俺は本当は怯えている。
なぜならそれを一度――俺は最悪の形で失ったから。
「ギャハハハハ」
突然、廊下に下品な笑い声が響く。振り向くと、騒がしい個室から坊主頭の奴が一人出てきたところだった。丸めた頭と立派な体格、日焼けをした肌から見るに恐らくは野球部だろう。両手にはコップが握られている。――そろそろ俺も戻るか。
氷を詰め、ウーロン茶を注ぎ、場所を譲る。
そんなふとした拍子に、坊主頭の奴と目があう。
「――、え?」
目を疑った。呆然と俺は、目の前のそいつと顔を見合わせる。
「――高宮?」
「――と、も」
慌てて口を抑える。何で、よりにもよってこんなところでお前に出会っちまう。
智也。坂上智也。坂上雅也の弟で、小学校時代の俺の野球仲間。中学校時代に俺が大喧嘩をした相手であり――俺に嫌がらせをしてたグループのリーダーだった奴だ。
息が詰まる。嫌な思い出が否応なく脳裏に蘇る。
視線を切り、俺は別人の振りをしようとした。
「……いや、人違い、」
「はー! トイレトイレ……って、あれ。タカミー何やって……え!?」
しかし最悪のタイミングで一成が個室から現れる。
「トモヤン!? トモヤンだよねえ!」
「吉井? ……じゃあやっぱ、お前」
もう誤魔化しようがなかった。
心の仮面を被り直し、俺は薄っぺらい笑みを口元に浮かべる。
「よ、よお。久しぶりだな、坂上」
「わー! ほんとすげー久しぶり! 高校入ってから会うの初めてじゃない!? トモヤン確か野球強いとこ入ったんだよね! うわー。何か急にがっしりしちゃって、別人みた……!?」
寄ってきた吉井のボディタッチを智也は冷たく払いのける。
「触んな。気やすく話しかけんじゃねえ」
「ご、……ごめんごめん! 肩、大事だもんね!」
智也の鋭い目が交互に俺達を睨む。
「……茶髪か。揃いも揃ってふざけた頭しやがって。気楽でいいだろうな、軽音楽部ってのは。兄貴から聞いたぜ。高校でも誰にも相手にされてないってよ。中学であんだけ恥晒したくせに、よくあんなくだらねえもん続けられるよな。やり直せるとでも思ってたのかよ、ゲロライダーが」
――落ち着け。聞き流せ。平静を保て。安い挑発になんか乗るな。
「と、トモヤン。タカミーは……」
「お前もお前だよ、吉井。学校も違うくせに、いつまでこんな奴の金魚の糞やってんだ? こんな自分のことしか頭にない奴によ。大方また付き合わせられてんだろ? こいつの『俺と愉快な仲間達』に」
つい反射的に、身体が動いていた。
しかし胸倉を掴みにいった腕を逆に掴まれて、ぎりぎりと締め上げられる。
「なんだよ。やんのか? 軽音楽部。ほっそい腕しやがって」
「……ッぐ、く」
物凄い力だった。まるで振り払えないどころか、そのまま折られそうに骨が軋む。
浅黒い肌、筋張った体つき。俺より頭半分ほども大きい背丈。もうまるで敵わなかった。当たり前だ。俺がちゃらけてる間にも、こいつはずっと鍛え続けてきたんだろうから。
「……? おい、何やってんだお前ら」
「あ、か、香月ちゃん!」
「カズ、……!?」
廊下に出てきた五十嵐を見て、智也は俺の腕を振り払う。
「お前、……五十嵐か?」
「ああ? ……お前、トモ、」
「おいゴラ智也ァ! 遅ェぞ! ジュースも持ってこれねえのかテメェは!」
五十嵐のすぐ横の扉が開き、智也よりも更に体格のいい坊主頭が顔を覗かせる。
「……すみません! すぐ行きます!」
すると智也は手早くコップにジュースを入れ、部屋へと戻っていった。
「……なんか、すごいおっかなそうな先輩だったね」
「……は。高校じゃあいつがいじめられっ子か。皮肉なもんだな」
一成が心配そうな声を上げ、五十嵐は吐き捨てるように毒づく。
「おい、高宮。何ぼーっとしてんだ」
「え? ……ああ」
「……あいつにまた何か言われたのか?」
「いや、別になんも。……さ、部屋戻ろうぜ」
へらへらと笑いながら俺は二人の前を横切った。
智也の言った言葉と、掴まれた腕の痛みを、どうしようもなく噛みしめながら。
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