大野宰相の貌

瀬戸内弁慶

 大野おおの祐憲すけのり在州ざいしゅうれいである。

 略して大野在州令、大野宰相、あるいは在州宰相とも称されるこの男は、元は出自定かならぬ浮浪児であったという。


 それがたまさか、前在州令である吉良きら頼綱よりつなの知遇を得て他家に推挙される形で士分に取り立てられ、躍進。

 その後は幾度も主人を替えながらわずか数年で時の天下人、綾辻あやつじ三久みつひさの直臣、そして家老に上り詰め、数多の謀事に関与。

 そして頼綱が謀反を起こし、鎮圧されて後に自害に至った際、その一人娘を後見とし、長じるまでという名目で在州令に任ぜられた。

 宰相とはそれにちなんだ、どちらかと言えば揶揄の意味を込めた異名であるが、三久の頭脳役や軍政の代行を数多く務めたのも多少ならず関わっている。


 その後、三久が病に斃れたので見切りをつけ、今度は自分が引き合わせた外様最大勢力の文州ぶんしゅうの令芹沢せりざわ慶村よしむらに接近。

 相諮り国政をも一手に握らんと画策せんとしている。


「そういう男を」

 今となっては誰もが知る悪漢の略歴を淡々と語り終えた後、参越さんえつ衆が頭目、弥助郎やすけろうは低く渇いた声で続けた。


「殺してほしい、という依頼が寄親の宅間たくま豊親とよちか殿より来ている」

 宅間、とは芹沢、大野両氏に並ぶ重臣である。

 綾辻三久を旗揚げより内政面より支えた最古参にして最大の援助者。また彼らが来るまでの間は謀略は政治工作でも多くを担ってきた譜代筆頭である。


「分かりました。殺すのですね」

 答える少女、鈴音はまだ十五、六。年若くも手練れ。いささかの動揺も生じさせず、一も二もなく畳より立ち上がり、青果のごとく引き締まった痩躯を翻した。


 そして障子をすっぱり開け放って目いっぱいに陽光を浴びる。

 深く呼吸し、育ての親より仰せつかった初の大任。その責任の重さを真正面から受け止め、やがてふと思い至って顧みる。


「ところで、その方ってどういう方なんです?」

「……」


 引き戻した視線の先に、金窪眼の闇をさらに濃いものとさせた弥助郎の座姿があった。この表情は知っている。叱りつける一歩手前の貌である。しかし少女忍者は首をかしげる。自分は何かしたわけでもなかろう。至極当然の問いを投げかけただけである。


「聞いておらなんだか、今の話」

「いや、顔のことです。どんな首か分からないと刈り取りようもないかと思いますが」

「……それを調べるのも任のうちだ」


 そう言われては、そうかとも思う。

 頭目とて、面識があるかなしかという程度であろうし、殿様の顔ぐらいは現地に赴けば知るものもあろう、と少女は合点をつけた。


「されど気をつけよ」

 弥助郎は言った。


「大野宰相の異名にもう一つある。『天下随一の器用者』。悪辣に人は蔑むが、文武両面において綾辻様を広くお輔けしたのもまた事実。其方は短剣の腕は立つが、物を知らぬ。なればこそ、よもこのような阿呆が刺客のわけもあるまいと相手方に油断も生じるであろう。然れども己なりに決して万事怠らず心構え、御仁に呑まれぬよう」


 何時の間にてそうであったのか。

 老忍がすでに顔を上げた時には少女の姿はなく、パタパタと忍らしからぬせわしない足音は遠い。


「…………」

 弥助郎は気鬱げな吐息とともに、またぞろ目元の闇を深くさせたのであった。


 〜〜〜


 在州には、たやすく入府することができた。

 すでに来州らいしゅう浪方なみかた信旧のぶふるおよび吉良頼綱との戦も終わり、天下は長く太平楽が続いていた。


 しかし一方で、綾辻三久の死を契機にこうして各派閥間腹の探り合い、背の刺し合いが激化し、それに比して戦国の頃より草の者の需要は増した。


 天下の銭回りを滑らかなるものとするため、そして諸勢力が過分な銭を貯め込まぬために、天下惣無事の令が敷かれて後に多くの関が撤廃され人の往来も多くはなったが、その日陰で、夜闇で、暗闘は絶え間なく繰り広げられていた。


 ゆえに現地入りしても、安堵はできない。直接ここの殿様はどのような方ですかとは聞くような愚は犯さなかった。代わり、


「大野様はどちらにお住まいでしょうか」

 と茶店の主人に尋ねた。

 事もなげに教えるには、城下を抜け、本城の内。

 ただし吉良頼綱の使っていた常御殿には名目上の当主にしてその唯一の娘祐輝ゆうきが起居し、件の新殿様は城戸側の三の丸屋敷を拠点としているらしい。


「お殿様って、いっつも天守に住んでる訳じゃなかったのか……」

 と鈴音は感心も納得もした。そりゃそうだったら上り下りが大変だろうと。


 兎にも角にも居場所が割れたことだし、その城というのに足を運ぶ。

 山間に設けられた城下町を抜けた先に、その城はあった。

 戦国の様相を色濃く残すその城にて、旗色の悪くなった旧主頼綱が自刃したが、ついぞ力攻めによる落城はなかったと、自慢と悲哀の混じった調子で茶店の小僧が語ってくれた。


 さて問題は、その堅城に如何にして潜入し、悪漢を討つかだ。

 それについてはいささか思案を巡らせてきた。

 成否を分けるのは仕掛けの要となる人物であろう。

 三の丸に通じる黒金門のあたりに身を潜めていると、果たして条件に合いそうな人物がひょろひょろと姿を見せた。


 短躯にして丸顔。年齢が詳らかでなく、眠そうな眼はどこか老犬を思わせる。だらしなくうなじに垂れた総髪など、それこそ犬か馬の尾のようだった。ぼんやりと中空を見据えたまま、側から見ていて危なっかしい足取りで、しかし迷わずその殿様のところへと向かっていく。


 首に丹色の首巻きをして、紺の羽織に木綿の袷に脚絆。見るからに旅装といった有様から察するに、大方使い走りから戻ってきて主人に復命する下男といったところだろう。そしてこの男が猫背となってひょこひょこと歩む先に、三の丸がある。


 意を決し、機を計らい、鈴音は下男の前に我が身を投げ出した。


「あの、もし」

「はいはい。なんでございましょう」

 老爺のような調子で、男は相槌を打った。

「大野宰相さまのご家中の方にございますか」

「家中といえば、家中ですけども」

 曖昧な返事である。属してはいるが、臣とさえ呼ばれるようではない卑賎の者、の意であろう。


 なおのこと好都合であった。

 ずいと身を乗り出し、鈴女は渾身の演技力をもって男に詰め寄った。


「わたくし、先に祐憲さまにお助けいただいた商家の娘でございます! 顔を見れば、お分かりいただけるかとっ」

「えぇっ?」


 男は仰天した。驚いてなお、その瞼が開き切らないあたり、眠いのではなく元来そういう顔の作りなのだろう。妙に緊張感がなく、抑揚にも乏しいあたり、そういう声質なのだろう。

 かえってなんだか拍子抜けしようになりそうな己を内々に叱咤し、道すがらに考えてきていた筋書きを語る。


 曰く、商いのために街道を渡っていたところ、賊に襲われた。

 家人も護衛も殺害され、あわや金品もろともにさらわれそうなところを、主命により通行していた大野在州さまに救われた。

 その活躍たるや、なるほど歴戦の武将というもののほどで、精悍な顔つきを鬼のごとくに険しくさせて、その太刀筋はまさに無双。並居る落ち武者くずれをばったばったと斬り倒し、ほぼおのれひとりで討ち取ってしまったという。

 そして自分たちの被害も甚大であったということもあり、まずは番所に駆け込むことを優先したので礼もする間もなく、その雲の旗の武士団は去っていった。


 ……むろん、あえて言うまでもなく完全な作り話だ。ありきたりな話であった。だが幾たびも戦場に赴いてほぼ負け知らずというこの悪大将の武名からすれば、これぐらいのことはするであろう。

 むろん、美談よりも悪名のほうが信憑性が高いことは十二分に承知している。


 だが、実際顔も知らない男のところに接近するには、まずこれが近道であろうと思った。

 顔を間近で見られればまずは御の字、警戒されれば適当に遁辞をかますか何も言わずに去れば良い。もし隙がそこに生まれるようであれば……刺し違える覚悟で討てば良い。


 その前に、この下男が信じてくれれば、の話ではあるが。

 話すたびに、男は「はぁ、はぁ」とか「そうですかそうですか」とか「なるほどなるほど」などと、相槌をくり返していた。

 まるで幼少のみぎり、遠い記憶の中で自分の身振り手振りでしゃべることに対していちいち反応して可愛がった祖母のようでさえある。聞いているのかいないのかさえ、怪しくなってくる。

 あまりに不安なもので、つい顔と声に出しそうになりつつ、直截に頼み込むことにした。


「それであのぅ、お引き合わせいただけないでしょうか。ぜひにあの時の礼を」

「はぁ、まぁ……引き合わせ、ですか」


 返答は要領を得ない。

 意味や意図が通じないほどに愚鈍なのか、可愛い娘のお願いだぞといい加減に焦れてきて、少女はさらに踏み込んだ。


「三の丸に行けば、会えるのでしょうか」

「いや、今はいないです」

「では何時頃お戻りで?」

「もうすぐだと思いますけど」

「では、どうかご城内にお留めいただきたいのですっ、待たせていただきます」

「えぇ……」

「必要ならば家事手伝いだろうと奉公でもなんでもいたしますゆえ、どうかっ、どうか一目だけでもお目にかかりたいのですっ!」

「いや、かかりたいのですって言われましても」


 丸みを帯びた頬の輪郭を、下男は指で掻く。

 それからまた、ぬぼーっと中空を見上げて後、ふたたび鈴音に目線を戻した。


「はい、まぁ……行けばとりあえずは会えますよ。確実に」

 と、先までになく断定じみた調子で言うと、歩き出した。不審げにふたりのやり取りを見守っていた番兵にぺこりと頭を下げる。

 あの、と進み出る鈴女の前で、その名の如く、蝶番や縁に黒金を用いた木戸が開け放たれた。


「じゃあ、とりあえず行きましょうか。三の丸」

 頼りになるんだかならないんだかという調子で、下男は手招きした。


 ~~~


 門を潜り、坂を上っていくと、眼下には鈴音が通ってきた城下町が望むことができた。

 山に挟まれ、堀で割られた閉鎖的な世界。

 だが城の周囲を武家屋敷。寺町や社殿には難路を越えてはるばる訪れる参詣者が小さく列を成しているのが見え、さらにその外郭部に町屋が存在していた。

 とても戦が間近とも思えぬ。悪宰相の治める地とも思えぬ。裏で圧政を敷いているのではないか。


「良い国でしょう」

 と、男は言った。

「私も先君に先立たれてしまい、最近この国に奉公に上がった者ですが、美しい景色です。……まぁ近頃はこの坂を上るのも一苦労ですけども」

 はぁ、と今度は鈴音が生返事を返す番だった。

 その鼻先に、素朴な甘さがかすめた。


「旦那屋の水飴、食べます?」

 脇に抱えた小壺より棒切れに絡ませた琥珀色の蜜のごときものを、そう言って男は差し出したが、鈴音は背を反らして答えた。


「知らない人からお菓子をもらわないようにって言われてます! 棟……父上から」

「偉いねぇ、飴あげようねぇ」

「いやだから、要りません!」


 それは残念、と肩をすくめ、男は飴を自分で舐めしゃぶった。

 こいつ、使い走りの分際で買い食いか。そう胡乱気に見返しつつも、こんな下人でも飴が買える在州の現状に少なからず娘は衝撃を覚えていた。


「最後の最後に綾辻に反旗を翻した逆賊の領、その後悪党に支配された地の産とも思えませんか」

 まるで心を読んだがごとくピタリと言い当て、鈴音の足を止めさせた。


「そ、そういう噂もあるみたいですね」

「はい。まことこの世は厄介なもんでして、分かりやすい悪人なんてそうそういないものですよ。宅間様しかり芹沢様しかり。というか譜代と外様の内訌なんてお互いをお互いに好き放題言い合ってるだけなのに、善悪をそこに持ち出すのは、なんともはや」

「ナイコウ? ……まぁ、よくわかりませんけど、おじさんから見て、大野祐憲さまとはどういう方なんですか」

「オジサン」


 市井から見た天下の大悪党とは? 凡百の民草が自分たちの支配者に抱くのは、憧憬か憎悪か。


「どうって」

 棒切れを口端に挟み込ませたままに、下男は首を傾げた。

「ふつうの男ですよ」

「ふつう」

 鈴音は間の抜けたように反芻した。一番反応に駒得る返答だった。


「私なんぞはただ必死でご主人さま方にしがみついてただけですよ。せめて自分の目の届く範囲の人間ぐらいは平穏無事でやり過ごさせて差し上げたいと思っていただけの、凡人です。なのに、それさえもどうにも上手くいきませんので」


 はぁ、とこれまた生返事。

 下人には下人なりの人生があり、悩みがある。そしてそれを気まぐれひとつ、指先一本で左右してしまうのが、この地の大野がごとき為政者なのだと、あらためて噛みしめる鈴音であった。


「おっと、おしゃべりしてたら苦もなく着きましたよっと」


 という男の言のとおり、いくつかの郭を抜けた先に、拓けた場所に出て、そこに大野祐憲の屋敷がった。

 てっきり常御殿もかくやという豪奢な屋敷を想像していたのだが、空堀と土塁、土塀に仕切られた、本来の防衛機構そのままといった塩梅の、詫びた住まいである。

 そしてその玄関口に、ひとりの男が立っていた。


「あぁ、それであの方が」

 のったりとした調子で紹介されようとした大野祐憲だったが、鈴音には教えられるまでもないことだった。

 尋常の侍ではない。剣技に長けた彼女なればこそ、その気配やたたずまい、脚の位置などが常人の及ぶべくもないことを瞬時に理解した。


 そしてその面とて同じこと。

 逆立つ獅子の毛皮のごとき髪量豊かな髷。炯々と光る猛禽の瞳は何者にも飼い慣らすことを許さない圧迫感があった。固く引き結ばれた口元。弓をつがえるがごとく引き絞られた眼差しは絶えず左右をあまねく見渡し、痩せ気味ではあるが、その裃の内に潜む眼鏡な肉体を見抜く。


 この男だ。

 この兇暴性を惜しみなく前面に威として押し出すこの武人こそが、悪宰相、大野祐憲に相違あるまい。


 そしてその益良雄の目線が、自身の下男へと向けられた。

 転瞬、くわと眦を吊り上げた男が、こちらへと駆け寄ってきた。

 さては己が敵間であることをたちまちのうちに看破したのか。懐剣を手にせんとした鈴音だったが、男はそんな彼女を素通りした。


「このへちゃむくれがぁぁぁっ!」

 狙ったのはゲッと声をあげた下男。何事かを察したように翻したその背を、飛び上がった祐憲の両脚が痛打した。ぎゃー、と緊張感のない絶叫とともに男の身体が地を滑る。

 浮き上がった飴の小壺だけは、最後の気力で死守して割らずに済んだようだ。

 

「俺には軍務しごとを押し付けておいて、貴様は飴喰いながら小娘と物見遊山気分でご帰還か!? 良いご身分になったもんだな、エエェ!?」

 痛みを総身で訴える下男の言い分などもはや聞く耳持たず、と言わんばかりに烈しく恫喝する。


(なんてヤツなの……っ)

 言葉にせずとも、鈴音の胸中に義憤めいたもんがたぎった。

 たしかに下男の分際をわきまえず主命のついでに買い食いをしていた彼に非があるが、それでもここまで折檻される謂れはあるまい。公衆の面前で足蹴にされ、面罵される謂れなど。


 これで彼女の内で大野祐典の善悪は定まった。

 悪なり。巨悪なり。

 しかも言えば、軍務だと。これはすでにして挙兵の準備をしているに相違あるまい。

 そしてその武の奢りがゆえか。祐憲の護衛は誰もおらず、いるのは自分が打ちのめした下僕独りである。


 もはやこの機をおいて討つべき好時は無し。一刻の猶予もあらず。

 即断した少女忍者は、懐剣を素早く抜きはらうと、

「悪宰相大野祐憲ッ、覚悟!」

 切っ先を水平に倒してかの悪党の首筋を横合いから貫かんとした。


「ほいっ」

「ぎゃー!」


 足を払われた。

 よりにもよって、起き上がったばかりのかの下男に。

 勢い余ってもんどり打った少女を見て、


「うわっ、なんか思ったより滑ってった」

 などと他人事のような感想を呟いた後、

「ごめんなさいね。でも、危ないし」

 と適当な感じでそう言って、男は少女の手から懐剣をもぎ取った。


「ほら、この人がよく状況を掴み切れてないうちに、今回はもうお帰りなさい」

 口ぶりからすれば、自分が刺客であるとは薄々どころでなく感づいていたらしい。そしてその言のとおり、「あ?」と大野祐憲は眉をひそめるばかりで、唐突なこの転倒の一部始終をまだ分かっていないらしい。

(情けなし)

 うう、と涙声が鈴音より漏れ出る。

 他事はいざ知らず、武芸においては天賦の才を自負していた己がまさか、こんな何でもない凡夫に文字通り足下を掬われるなど。この一事は、少女の自尊心を粉々に打ち砕くに十分すぎた。


「あっ、その前に……やっぱり飴いります?」

「うう……食べます」


 ~~~


 その晩、三の丸屋敷。

 知らぬうちに刺客に刃を向けられた男は、手酌で酒を汲み、そして静かに呑んだ。

 取るに足らない安物の濁酒ではあったが、それでも味は心なしか、数年前より良くなっている気がする。

 その味覚が忌々しくなって、みずから苛むがごとく我が舌を歯の裏に打ちつけた。


「あのへっぽこ忍者」

 と、男は供をし、一部始終を打ち明けた例の丸顔の『下男』に語りかけた。

「絶対、勘違いしてただろう」

「でしょうねぇ」

 笑っているのか眠っているのか、あるいは無我の境地だとでも言うのか。

 目を細めたまま、ちびちびと酒を口に遣っている。


「冗談ではない」

 獅子のごとき髪を持つ猛者は、ぎりと眼差しを鋭くさせた。


「なぁにが悲しくて、影武者なんぞ務めねばならんのだ!」


 吉良家一門衆筆頭、狛江こまえ綱意つなおきは酒気を地に吐き捨てて吼える。

 側にあって、『下男』……もとい本当の大野祐憲は今度こそはっきりと苦笑を表に出した


「いやぁ、でも一応私綱意殿の主君な訳ですし、そこは役務のうちと」

「黙れっ、お前みたいな存在自体がおかしいような潰れ饅頭が俺の主君な訳がなかろうがッ!」

「えぇ、ひどい……」

「いずれ頼綱様姉上より貴様が奪い去ったこの地と祐輝殿を取り戻し、吉良家再興を果たしてくれん」


 そう改めてここに己が居残る理由を表明すると、肩を落として祐憲は酒をもう一口含んだ。


「別に」

 と彼は答えた。

「綱意殿がその気ならいつでもお返ししますってば。私が後見じゃないと吉良家の存続認めないって言われましたけど、今の時期なら身を退く良い頃合いでしょう。というかそもそも為政者なんぞ私の柄じゃ……へぶ」

 その間抜けヅラを鷲掴みにし、綱意は激しく揺さぶった。

「貴様! 姉上より託されたものが簡単に他人に受け渡しして良いものだと思っているのか!?」

「えぇ、めんどくさいなこの人……」


 突き飛ばされる形で解放されて嘆く祐憲。

 だがさして困っているようには見えぬところが、この男の腹の立つところだった。

 昔から、しがない弁当屋として頼綱に近づいてきた頃からそうだった。


 何の欲もない顔をして――実際そうなのだろうが――姉や綾辻三久に取り入り、どんな難題であろうとも成し遂げて、他人が渇望する地位や場所を、何食わぬ体で手に入れてしまう『天下随一の器用者』。


 浪方信旧に指嗾されて寝返った頼綱を自死に追い込んだ時、そんな男がどのような顔をしていたのか。当時謹慎していた姉に従い捕虜となっていた綱意には知るべくもない。


 後に近しい者の話によれば、自分にも累が及びかねない立場にありながら、頼綱の助命を綾辻に必死に嘆願し、極限まで粘り、芹沢の口添えによって引き出した条件が頼綱ひとりに罪を負わせ、その他の者には一切お咎めなしというものだった。

 その多くを、祐憲は語らないしあえて綱意も暴くことはなかった。


 それでも、この者が頼綱を裏切った。姉を殺した。その娘を、国を奪った。

 せめてあの時、ついて来てくれればもっと上手いこと運んでいたはずだった。


 浪方信旧は投降の後にその手腕を惜しまれ赦されたのに、頼綱は綾辻政権における最初のの謀反人として処断された。


 そうした経緯と積み重ねの果て。

 この男に抱く感情は、このような酒などは目ではないほど信頼と不信、友情と憎悪とが複雑怪奇な醸成物となっている。

 いずれ報復してやろうと言うのは真。だがこの男を追い落とせば今度こそ己には何も残らぬのではないかという恐れが彼を縛る。


「……それで」

 おのが業魔に呑まれそうになる意識を引きずり出し、それとなく綱意は話題を替えた。


「結局どこに行っていたのだ?」

「あぁ、参越衆の調略に」


 あっけらかんと祐憲在州令は答えた。

 その侍大将は「は?」と聞き返した。

 それこそ今後敵するであろう宅間の諜報機関であり、おそらくはあの女忍を差し向けた相手であろう。

 不審を向ける綱意の横で、祐憲は両腕を持ち上げて仰向けに倒れ込んだ。


「そもそも彼らは亡き大殿が工作面を担っていた宅間様に遣わした与力であって、直接に家臣ではないのですが、どうにも最近の宅間様はそのことを忘れて酷使することしばしばだとか。そこに付け入る目がないものかと」

「だがそれも不首尾に終わった。現に奴らめは宅間に命ぜられるがまま『大野宰相』を殺さんとしたわけだからな」

「さぁてね、そこが微妙なところでして」


 無防備にだらしなく、畳の上に寝そべったまま、祐憲は言った。


「あんな子を遣わすあたりに、迷いを感じるのですよ。命令の行き違いか、試してみようかと考えたのか、それとも両方か」

「試す?」

「あの程度で死ぬようであれば、あるいは傷つけられる逆上して取引中の相手を殺すようであれば与するに値せず、とか」


 だからあえて底を見せず器量の広さや国力を見せて、生かしたまま帰したのだという。


 だが差し向けられた刺客によっては、ともすればそのまま命を奪われかねない危険な賭けであっただろう。実際にあの小娘、他はいざ知らず瞬間的に見せた突きの鋭さは見事なものだった。


「……今回の件、芹沢様の命か」

「まぁ」

「もはや戦は避けては通れぬと」

「欲を言えば中立で居させて欲しいんですがね。恩義の上でも今後の展望の上でも芹沢様につくのが筋でしょう」


 祐憲は、時期も良いことだし身を退いても良いという。だがそれはあまりに過少な自己評価であっただろう。

 自身の命さえも賭け金に含めた、胆力と判断力。諸々の理性的な思考は、落ち目の吉良家にあって欠かすべからざる資質であった。

 少なくとも、綱意に同じことはできまい。

 癪ゆえに、死んだとて賞賛などしてやるまいが。


「……今は手を貸してやる。いずれ、そっ首とともに在州と祐輝殿を取り戻してやるからな」

「いや、だから命狙われるぐらいなら返しますって」

「やかましいまた蹴るぞ」


 戦国に生まれ、そして死にぞこなったまま先人たちに取り残された二人。対照的な武将たち。

 彼らは酒を酌み交わし、酔ったその口で悪態雑言を吐き合いながら、その最後の戦の日を静かに待つのだった。


 〜〜〜


 そして数日して後、参越衆の忍び屋敷にて。


「して、首尾は如何」

「はい! 飴、美味しかったです!」

「…………」


 いっそ堂々たるまでに任務失敗を報告する養女に向けて、苦笑とも呆れともつかぬ呼気を老人は吐き、目元の陰を濃いものとした。


 そして彼らが幾つかの派閥を割りながらも大部分の一族郎党を引き連れて在州に帰順したのは、それから程なくしてのことである。

 無論美味い飴を食いたいがためではなく、政治生命がとうに旬を過ぎ、底の知れた宅間より、単身で自分たちを説き伏せんとし、その後遣わした未熟な刺客にも柔軟な対応と好条件を見せた大野祐憲に魅力を感じたためであった。


 祐輝(後の祐憲が正室)の護衛役としてあらためて出向してきた鈴音が、在州令の顔を見た際、


「……? なんで水飴のおじさんが首座にいるんです?」

 などと放言し、周囲を青ざめさせたという小喜劇が後世に伝わっている。


 件の悪宰相は、目元を笑うがごとくに細めたまま、本来の当主に在州令の座を譲ったという。

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