総統が死んだ日

 数日間の検査入院の後、モスクワ中央病院を退院したヒトラーはベルクホーフ郊外の自然豊かな場所にある彼の別荘で静養生活を送っていた。

 退院後数日間は好調が続いたが一週間ほどたったある日、ちょうどアメリカがビキニ環礁で新たなる核爆弾たる"水素爆弾"の爆発実験を成功させた。

――そして彼の身体に異変が起きた。

 閣下が極度の倦怠感を訴えたのが事の始まりだった。当初は何とか床を離れることができていたものの、みるみるうちに体は衰えていき、用を足すことでさえ容易ではなくなっていた。

「やはり具合は良くないが……君はいつも元気だな、ブロンディ」

 ヒトラーは真っ白な壁で囲まれ必要最低限のものだけが揃えられた部屋の中で一人呟いた。すると部屋の隅から一匹の犬が尻尾を振りながら彼の傍へと近づく。そしてベッドの横に置かれた小さな椅子の上に飛び乗ってヒトラーを見つめ、小さく吠えた。

「いやあ、素晴らしく忠誠心の高い犬ですね! 彼の優秀な嗅覚が閣下の才能を感じ取っているに違いありません!」

 ガチャリ、とドアが開かれ、その奥からボルマンが歩きながらそうヒトラーに話しかける。すると彼は一度頷き

「最初は犬なんて飼おうとも思わなかった。だが今となってはボルマンの提案を聞いて良かったと思っているよ」

 ブロンディの頭をわしゃわしゃと撫でながらボルマンにそう言った。

「閣下にそう言っていただけるなんて、身に余る光栄であります……」

「そういえば、モレルは今どこにいる?」

「モレル医師はただいま別室にて待機しております」

「そうか、ならいい」

 頭を撫でる手を止め、ブロンディに少し離れたところに行くようにハンドシグナルを出し、続ける

「クビェツクから手紙が来ていると聞いたのだが……持っているか?」

「ええ、ここに」

 ヒトラーが手を差し伸べ、そこにボルマンが一つの封筒を乗せる。

「また何かあれば呼ぶ。君は戻って休んでおいてくれ」

「ありがとうございます。それでは」

 手紙の封を切った彼はボルマンにそう言い、ボルマンは部屋から出て行った。

 そして、ヒトラーは渡された封筒を眺める。差出人はアウグスト・クビツェク。ヒトラーの青少年時代のほぼ唯一の親友からの手紙であった。

「最愛なる友人へ。あなたがモスクワで倒れたと聞いたときは本当に生きた心地がしませんでした。ただ、特に異常もなく疾病もないとのことで、すごく安心しました。さて、あなたが現在大変な状況に置かれていることを承知の上でですが、来月の末にリンツで小さな音楽祭を行います。体調と相談をして無理をせずに、元気であればぜひご参加ください。

 追記、僕の娘と息子は元気にしているよ。時々ではあるけれど家にも子供を連れて遊びに来てくれる。また君と一緒に、戦争に勝った時のように一緒に昔の思い出を語り明かしたいよ……お返事、いつまでも待っています」

 均整な字で丁寧に書かれたその手紙は間違いなく『親友』と言える存在でしか送ることができないものだった。

「クビェツク……どうして君はずっと律義に手紙を送ってくれるんだ? 私が返事を寄越さなくても、何度も何度も私の身体を心配して、手紙の返信を待ち続けて……音楽祭は来月末だったな……明日にでも近況報告も兼ねて参加したいと手紙を書こう……」

 そう小さく言って、起こした体を倒し、目を閉じる。そして、すっとヒトラーの意識は永遠に続く闇の中に吸い込まれた。



――部屋の中で、ブロンディが狂ったように吠えている。



「……ブロンディが騒がしい……何かあったのか?」

 不穏な何かを感じた彼は全速力でモレルのいる客間へと向かい、何度もドアをノックする。

「なんだなんだ、人が気持ちよく寝てるって言うのに……」

「そんな状況じゃない!」

 ボルマンの剣幕に事の異常性を悟ったモレルは一度中に入ったと思うと大量の医療器具が入ったカバンを抱えて

「とりあえず閣下のところへ行くぞ!」

 そう言って走り出した。部屋の中ではいまだにブロンディが狂ったように吠えている。

「もう六時間も音沙汰ないんだ!」

「それは一大事だ! 勘違いで処刑されても構わん! 言い訳すれば何とかなるかもしれんから入るぞ!」

 勢いよくドアを開け放ち彼らはヒトラーの傍へと駆け寄る。モレルはヒトラーの首元に手を置き、ボルマンは吠え狂うブロンディを必死に抑え込んだ。そして落ち着かせた後に

「モレル! 閣下は!?」

 そう聞かれたモレルは顔を落としながら

「……残念だが、もう脈はない。総統閣下は……亡くなられた」

 そう言った。

「……なんだって? 冗談ではないよな?」

 ボルマンは状況が理解できていない様子で、額には脂汗が浮き、表情は引きつっていた。

「閣下が死んだなんて……嘘だろ……? 閣下……どうか目を覚ましてください……」

「残念だが君の願いは叶えなれない……」

 モレルの無慈悲なその一言でボルマンは床に崩れ落ちた。

「閣下……閣下ァ……」

 何度も繰り返しながら床に涙を落とし続ける。その横で彼により押すように背中に手を当てるモレルも静かに涙を零していた。



 そして親衛隊本部庁舎内は突如として騒がしくなる。

「ヒムラー長官!」

 ぜえぜえと肩で息をし、目元に涙を溜めるオーレンドルフが部屋に入ってくる。

「おい……部屋に入る時はノックをしろと……」

「そのようなことを言っていられる状況ではないのです!」

「じゃあ何なんだ?」

「閣下が……総統閣下が先ほどなくなっていることが判明しました!」

「……嘘だろ?」

「いいえ、嘘ではございません」

 ガチャンと、薄く硬いものが落ち砕ける音がした。床には真白のティーカップの残骸が広がっている。

「オーレンドルフよ、ドイツ全体に戒厳令を。第一装甲師団はベルクホーフの封鎖に向かわせろ」

「了解いたしました!」

 彼はそう言って全力疾走でヒムラーの執務室から駆け出し電信室へと向かって行った。


「ヒムラー長官より緊急伝令! ヒムラー長官より緊急伝令! ドイツ全土に戒厳令を発令!第一装甲師団はベルクホーフ周辺の封鎖を命ずる! たとえナチス幹部でも確認ができるまでは誰一人通すな!」

 オーレンドルフは無線機に向かって叫び続ける。

「もう一度伝える! 本日未明、総統が死んだ!」と

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