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 暑い中、山を登って先生を呼びに行ったのに、先生はまだ港に来なかった。


「四谷先生、まだいらっしゃいませんね。」


 隣に座っている波山さんは時計を気にしていた。フェリーの出発の時間にはまだ間に合うのだが、待たされているという状況以上に落ち着かないものはない。私もそわそわしているが、波山さんはそれ以上に落ち着いてなかった。


「波山さん、なんか用事があるんですか。」


 あまりにも落ち着いていなかったので、僕は思い切って聞いてみた。


「すみません、家に業者が来るんですよ。それの時間が気になってしまって。」

「でしたら、僕たちのことは構わなくて結構ですよ。先生が来ないのが悪いんですし。」

「いえいえ、家近いんでまだ大丈夫です。」

「リフォームですか。」

「そんなところです。父が死んだんでガス台を変えるんです。」

「近代的ですね。」


 死者が出た家でかまどを掃除するという慣習がある地域で存在するということは聞いたことがあった。そのような信仰がこのような形で残っているというのは大変興味深かった。このような変化はロボット僧侶に通ずるものがあると思う。


 いくら待っても先生は来ないため、先にフェリーに乗ることにした。部屋の窓から港を眺めていると、いつの間にか自販機の陰に先生がいるのに気が付いた。先生は何やらコソコソとしているように見えた。よく見ると、先生は女将さんと一緒にいた。しばらくして二人は抱き合って唇を貪りあっていた。僕の頭の中には「いつ?」という疑問が浮かび上がった。

 しばらくしていると、港が騒がしくなった。波止場に船が近づいてきていたのだ。船は警察の所属だった。船からは黒服の役人たちがぞろぞろと降りてきた。恐らく、波山翁らの死亡に不審な点を見つけ、捜査に来たのだろう。

島に駐在している制服の警官が自転車でやってきた。黒服たちに何か言っているようだったが、黒服の一人が何かを見せると警官は黒服たちに道を開けた。先生と女将さんはまだ抱き合っていた。

黒服たちが港を進んでいく中、その中の一人が急に立ち止まった。他の者たちは彼をよけて進んでいく。彼は自販機の陰を見ていた。そして足早にその場所から去っていった。

先生はギリギリの時間に何食わぬ顔でやってきた。先生は柑橘系の香りを身にまとっていた。恐らく女将さんがつけていたものの匂いが移ったのだろう。


船が出港して、窓から警察の船の全体が見えるようになった。船の所属は警視庁ではなく、警察庁だった。彼らは一連の島民の不審死を調べに来ているのではなかったのだ。

島を離れると、急に現実に引き戻されたように、やらなければいけないことで頭の中がいっぱいになった。そろそろ研究室への配属についても真面目に考えなければならない時期だった。そういえばすぐそばに先輩にあたる人がいることを思い出した。


「先生ってどうやって研究室決めましたか?」

「あみだくじ。」


 先生は本に目を落としたまま即答した。


「真面目に答えてくださいよ。」


 先生は本から目を離して考え出した。


「20年も前だから覚えてないな。」

「そうですか。」


 僕は少しがっかりした。先生なら何かいいアドバイスをもらえると期待していたのが間違いだった。

 しかし、しばらくして先生はあっ、と声を上げた。


「思い出しましたか?」

「うん。」


 やはり先生は頼りになるなと思った。


「民族学の研究室が一つしかなかったから何も考えなかったよ。」


 余計に期待していた分、落胆の度合いも大きかった。先生はまた本を読みだした。よく酔わないものだ。むしろ、そんな様子を見ている僕が無駄に船酔いしてしまう。もしかしたら先生に来るはずの酔いが手違いで僕の方に来ているのではないだろうかとも思ってしまう。


***


「ジジ抜きやる?」


 船酔いでベッドに横になっているときに先生は聞いてきた。本気なのか分からなかった。


「ババ、ジジと来て、オバ、オジがないのは変だよね。」


 と言いながら先生はバッグからトランプを取り出してシャッフルしていた。僕が断ると、先生は落胆の息を吐いて本を読みだした。船の中で本を読むなど正気には思えなかった。

 僕は揺れるベッドの上で、亡くなった三人の島民のことを考えていた。彼らが死んだのは、僕たちに「オシンメサマ」のことを言った後だったことに気づいた。獣道から山上神社に帰ってきた時に見た、庚申塔に彫られていた「見ざる聞かざる言わざる」の三猿を思い出した。

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