8月15日

1

「わざわざ来てもらったのに申し訳ありません。今日だけなんで、よろしくお願いします。」


 テーブルをはさんで、役場の波山さんが申し訳なさげに頭を下げていた。窮屈そうに縮こまっていて居心地が悪そうだった。


 9時前に旅館に来た役場の波山さんは開口一番、「申し訳ありません。」と言って頭を下げた。昨日亡くなった波山翁の葬儀は身に来ないでほしいということだった。先生はそう言われても驚いた様子は見せなかった。


「わたしの目的はあくまで文化、風習の保護です。門戸を開放しているところには行ってそれを文字として残しますが、隠すことが文化なら私はそれを隠れているものとして記録します。」

「調査のために来ていただいたのに、申し訳ございません。」

「いいんですよ。それで、今日私たちは籠っていたほうがいいですかね。下手に外に出て葬列に出くわしでもしたらことですから。」

「そうですね。そうしていただけるとありがたいです。」


 今日は朝からひどい雨だったので、朝食で先生と旅館に居ようと決めていたので、外に出るなと言われたところで予定通りのことだった。

しかし、人間はダメと言われることをしてみたくなってしまう性分なのである。僕の外出への欲求がうずいてしまった。先生と波山さんとの会話を聞きながら何かいい口実はないかと頭を巡らせていた。


「そういえばこの島の郷土史ってないんですか。」


 僕は波山さんに聞いた。


「ありますよ。たしか日本に返還された時に記念に発刊されたはずです。」

「どこかで読めたりしますかね。」

「図書館に行けば確実ですよ。」

「もしかして、飯出君、今日図書館に行くつもりかい。」


 先生が言った。


「一日中暇ですし。」


 僕は悪びれずに言った。


「大丈夫です。図書館は港の方でしょう。葬列はヤマニシの家から留衣山までの道を進みますが、ここから図書館までの道とは交わりません。」


 波山さんはそう言って太鼓判を押してくれたが、先生は心配そうな顔をして僕を見ていた。


「何でしたら僕がお送りしますよ。せっかく来ていただいた方にこんなことをお願いするのは失礼ですから、せめてもの償いに。」

「いいんですか。お忙しいんじゃ。」


 先生はまだ心配していた。


「こんな小さな島の役場が忙しいはずないじゃないですか。」

「そうですか。そこまで言うならお願いします。」

「先生はどうされますか。」

「僕は遠慮します。雨の日は本を読むのに限る。」


 じゃあ、図書館がピッタリだと、僕は思ったがそれを言う前に先生は部屋に戻ってしまった。


***


早速僕は役場の波山さんの案内で図書館へ向かった。港までの下り坂には雨水が勢いよく流れていて、足元に注意しなければいけなかった。


「こんな早くから開いているんですか。」


 波山さんに聞いた。傘にあたる雨音のせいで大声でないと聞こえなかった。


「本当は10時から何ですけどね。老人の朝は早いんで8時半には開けているんですよ。」


 この島の時間は、都会のような一秒単位のものではなかった。太陽の高さを目算し、その時の気分に沿っている、ゆったりとした時間が流れていた。

 目的の図書館は、港の波止場を一望できるような場所にあった。平屋建てのこぢんまりとした建物で、町の公民館みたいだと思った。

僕がいつも使っている大学の図書館はこれと比べ物にならないほど大きくて、外観もレンガ造りのいかめしいものであったから、目の前の建物が図書館のようには見えなかった。それでも中に入れば児童書から専門書まで一通りそろえてあって、確かに図書館だった。

すでに数人の先客がいたが、彼らは静かに本を読むわけでもなく、世間話に興じていた。司書の方も気づいてはいるようだったが、それを咎めない様子を見ると、この光景はさほど問題になっていないようだった。この建物は図書館というよりも屋根があって空調が聞いている憩いの場として島民に利用されているようだった。

しかし、歓談に興じている島民が、僕の姿を認めると押し黙ってしまった。僕に対する鋭い視線を感じたので彼らの方を見ないようにして波山さんについていった。

顔見知りしかいない島で長い間暮らしていると、外部の者に対する拒否反応が強く生じる場合が多い。町長の川凪さんが開放的で僕らを快く迎え入れてくれたとて、島民全員が歓迎ムードなわけではないことはわかっていた。

加えて、波山翁は僕らと会った日の夜に亡くなったわけだ。僕らに対する印象が悪くなるのも当然と言えば当然だろう。

波山さんは親切にも郷土史の置いてあるところまで案内してくれた。僕は波山さんにお礼を言うと彼は図書館を後にした。

「夷町制九十年史」と銘打たれた分厚い本が八巻並んでいた。すべて読むほどの時間もないのでとりあえず一巻から目次に目を通すことにした。

夷町前史として鎌倉時代の入植から始まっているそれだったが、目次を見る限りは祭祀特に「オシンメサマ」に関する項目はなかった。

時代が下り、占領期にあたる部分に気になる項目があった。「文化人類学者G.マッケンジーの調査」という項目である。私はそのページを開いた。


 文化人類学者G.マッケンジーの調査

 G.マッケンジーはアメリカの文化人類学者である。占領政策を円滑に進めるために米軍から夷島の文化の調査を依頼され1945年9月から翌年12月まで夷島の島民の生活を調査した。

「オシンメサマ」とは夷島の人々が古くから篤く信仰してきた神であったが、昭和初期にはその名前が忘れ去られており、マッケンジーがその信仰形態から同定したものである。


 私はその記述に目を見張った。この部分の記述によれば、この島の家々に祀られている神像を「オシンメサマ」と名付けたのはG.マッケンジーである。R.ベネディクトの「菊と刀」が、日本人の実態と即していないと批判されているように、当時のアメリカ人による日本文化の研究は未達なところが否めない。そのことも考慮すると、「オシンメサマ」もG.マッケンジーという男が誤って名付けた可能性が出てきた。

欧米コンプレックスは今の日本人も抱いている。戦後の離島の住民ならなおさらだろう。外人の先生が言ったことは鉄よりも固い真実と捉えられ、島民全員がそれを信じだしても不思議ではない。

島民がいまだに「オシンメサマ」の祟りを恐れて丁重に祀っている様子を見ると、祭祀の方法がこの80年足らずで簡略化されているとは考えにくい。つまり、マッケンジーも僕と同じものを見ているはずだ。そう考えると、この島の「オシンメサマ」の祀り方は、東北での「オシンメサマ」の祀り方とは大きく異なる。

類似点は祀らなくなると祟られることと、神像が木でできていることくらいだ。しかし、祟りが起きるのも、木でできた神像を崇めるのもオシンメサマに限ったことではない。そもそも、東北のオシンメサマは男女一組で祀られる。つまり、この島で崇められているカミが「オシンメサマ」という名前であるということはマッケンジーのホラである公算が大きい。

同時に、あの神像が「オシンメサマ」ではないとは言えないとも思った。東北と夷島のオシンメサマがその根を同じとするというのはマッケンジーの思い違いであることは確かであろう。しかしながら、この島の人々が70年以上もあの神像を「オシンメサマ」と呼んで祀っている以上は、あの神像は「オシンメサマ」でないとは言い難いのではなかろうか。

そもそも東北、特に福島県で祀られている男女一組の神像を「オシンメサマ」だとするのは、信仰している人々がそう呼んでいるからだ。そのロジックからいえば、あの不気味な神像も「オシンメサマ」なのである。


「熱心に何を読んでいるんだい。」


 急に横から若い男に声を掛けられた。振り向くと、色白の好青年といった感じの男が立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る