第39話 私の色

 それほど時間があるわけではない。大学受験と卒業演奏会に向けて、彩葉は特訓を開始した。入試の課題曲はフルートのポピュラーな練習曲集であるアンデルセンのエチュードから4曲が指定されている。これまでもコジババに散々躾けられてきた曲たちだった。そして自由課題にはバッハのフルートソナタBWV1030。卒業演奏会の曲でもあるので副科実技の時間も使って瑠璃と合わせる。入試の副科ピアノは、指定曲の中で今月から弾いているシンフォニアの1番を選んだ。瑠璃の作戦はまんまと嵌った訳だ。彩葉の毎日は音楽漬けとなった。


 一方の翠も猛勉強中だった。幸い看護学科も医学科も入試科目は一緒だ。しかし小論文の内容は異なるだろう。放課後、彩葉が練習室に籠る間、翠は図書室に籠った。


 そして閉館時間に図書室を追い出された翠が、音楽科の練習室に彩葉を迎えに行くのが日常化していた。練習室には瑠璃も週に3日程顔を見せている。三人は帰り道、いつものドーナツ店で一休みしたり、ハイツ・ラルクアンシェルに帰る瑠璃の夕食に付き合ったりしていた。

 

+++


 期末テストが終わって間もなく冬休みという日、午後から雪が舞っている。暗くて判らないがうっすら積もっているかも知れない。そんな外の様子と同じく彩葉は気が滅入っていた。ずっとやっているのに思ったような音が響いてゆかない。同じフレーズを何回も繰り返して吹いてみても、吹けば吹く程、自分が何を吹きたかったのか判らなくなっていた。


「どうしたイロハ」

「思う音が出ないんです」

「考え過ぎずにやった方がいいんじゃない?気持ちがそのまま音になるからさ、とても硬くなってる」

「硬い…ですか。どの音も釣られて駄目になっちゃう」


 彩葉は窓の方を振り向き外を見つめた。街灯に照らされた雪が風に踊るのが見える。


カチャ。


 そこへスクバを抱えた翠が入って来た。瑠璃と目が合った翠は軽く頭を下げる。しかし目に入った彩葉の背中は気軽に声をかける事を躊躇わせた。瑠璃も立ち上がり、彩葉に並ぶ。


「やっぱ黄色が見えないのが駄目なのかな…」


 哀し気に彩葉が呟いた。翠は胸を打たれた。上手く行かないんだ。音楽のことには気安く口を挟めないけど、落ち込んでいるのは良く判る。瑠璃が声を掛ける。


「朱雀が言ったろ。音には音の色があるって。実際の色とは違うんだよ」

「でも、ミは黄色なんです。黄色が見えないとやっぱ心が入ってないって言うのか、完全じゃない気がするんです。オーディエンスの方へぶわーって飛んでいくって朱雀先生も言ってました。私の音はすぐに落っこちて届かない。明るい幸せの黄色にならないんです」

「色は揃わなくてもいいんだよ」

「でもそれじゃ普通の人からは変に見えて変に聴こえると思います。私が今見てるように、雪も落葉も同じ色って不自然だと思うんです。あいつの音には何かがないって気がつきます」


 翠はドキドキして見守った。彩葉の哀しみが部屋中に拡がる。音だけの話じゃないんだ。若月音大も受けることにしたって、明るく笑っていた彩葉が、今はモノクロームに見える。あたしは瑠璃姉さんにもお父さんにも引っ張ってもらってぐいぐい加速しているのに、彩葉は失速している。きっと目のために。今は治しようがない色覚のために。また励まさなくちゃ。


『あたしがみんなと同じように、正しい色を見えるようにしてあげるから』


翠の言葉が出かかったその時、瑠璃が優しく彩葉の肩を抱いた。


「イロハ、いいんだよ人と違って。見え方が違ったっていいんだよ。だって正しい色なんてないんだもん」


 彩葉は小首をかしげ、翠もはっとなった。


「見え方なんてみんな違うし、それはその人にしか判らない。彩葉だって私たちが見えない色が見えているかも知れないんだ。だから人がどう思うかなんて、どう聴こえるかなんて気にするな。彩葉が見える音だけで吹いてくれ」


 見え方なんてみんな違う…。翠の心にずしんと重い弾が打ち込まれた。彩葉の色覚異常の謎を突き止めるのは、それはそれで意味があるだろう。同じような症状の人の役に立つかもしれない。だけど、その人の色はその人にしか判らない。個性と言っても構わない。正しい色ってなんだろう。その人が見えている色は、決して間違った色じゃないんだ…。


 翠は大学病院での夜勤実習時に先輩看護師の万智さんが言ってくれたことを思い出した。


『患者さんって診察室に入る時ってドキドキじゃない?ドクターと向かい合って、何言われるかな、自分は何か間違ったかなとか。だから私は診察室にいる時は、なるべく患者さんの斜め後ろに患者さんと同じ向きで立つのよ。家族みたいにね。ドクターが何を言っても私がついてますよ、私が支えますよって。病棟でもね、ドクターは敵ではないんだけど、ちょっと怖い存在だよね。だけど看護師はいつも患者さんの味方だよ、同じ向きで病気や怪我と向かい合いましょって、そう心掛けてる。治療はドクターにしか出来ないけど、看護師にしか出来ない事だってあるのよ』


万智さんはそう言ってた。


 あたしがやりたかったのは、そう言う事じゃなかったのか。中学からずっと彩葉に付き添ったように、朱雀さんが入院した時のように、治すとかやっつけるとかじゃなくて、あなたが少しでも晴れやかになれるように、同じ向きを向いて一緒に歩くことじゃなかったのか。


 翠の心に一転、モノクロームの影が射し込んだ。

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