第10話 疑い

 珍妙な練習も1ヶ月もすると普通になって来る。朱雀は朱雀なりに熱を入れて取り組んでいる。彩葉もそこは認めていた。軽いけどやる時はやる人なんだ。時折チラッと弾いて見せるピアノも上手いし、声もさすがは音大生だ。ちょっと過小評価し過ぎたかな。彩葉は反省した。しかし期末演奏会そのものについてはまだ疑問が残っている。下校時に彩葉は翠にぼやいた。


「何となく、何とかなるかもって思うんだけどさ、どんな成績つくんだかめっちゃ不安」

「それは判らないでもない。期末テストなんでしょ?」

「そう。コジババ…じゃなくて、小島先生の反応が怖いよー」


彩葉が大きく溜息ついたその時、


「おっかえりー!お疲れさーん!」


 大声とともに二人の肩にバーンと手が置かれた。慌てて振り返ると、そこには、やはり朱雀がいた。


「丁度オレも帰りだからさー、どっか寄道しようぜ、お二人さん!」


二人は顔を見合わせる。朱雀が強引に割り込んで来る。


「ダブルJKなんて、オレ幸せものー。それもこれから色を見るフルーティストと白衣の天使だ。勿論、オレのおごりだぜー!」


 仕方なく二人はいつも寄道するドーナツ店に朱雀を連れていった。朱雀は一人でよく喋る。小島先生のモノマネまで入って二人はお腹を抱えて笑った。暫くして朱雀がトイレに立った。


「ふう。面白いけど何とかならない?あのハイテンション」

「いいじゃん賑やかで。ああいう人、一人いると助かること多いよ」

「えー?翠はもしやタイプなの?」

「そう言う訳じゃないけど、でもハズレじゃないな…」


 翠は少し俯いた。悪くないよね、ちょっとシンパシーを感じる。でも…あの手…。翠は先程翠の肩に置かれた朱雀の左手の感触を訝しんでいた。何か普通とちょっと違う。貝原さんっていつも左手に手袋してるし、皮膚のトラブルとか抱えてるのかな。そうだったらあたしが診て、治してあげたい。


「ねえ彩葉、貝原さんってピアノも弾くんでしょ?」

「弾くよ。結構上手いの。伴奏、ピアノでいいと思うのに、なんだかんだ言ってやりたがらない」

「左手でも弾く?手袋してる方」

「うん。時々滑っちゃうとか言ってるけど、ちゃんと弾いてる」

「ふ-ん」

「なに?」

「ううん、何でもない。あたしもちょっとトイレ行って来る」


 ドーナツ店のトイレは店の奥まったところにあって、男女が通路を挟んで向かい合っている。翠が手を洗っていると、壁越しに向かいの男性用から激しく咳込む声が聞こえた。貝原さんじゃないの?むせちゃったのかな?

 翠が手を拭いてドアを開けると、通路を出て行く朱雀の背中が見えた。男性用のドアが半分開いたままになっていて洗面台が覗いている。

え? 洗面台の下に赤い点々。これって血の痕? 鼻血かな? でも咳込んでたし…。翠はそーっとドアを支えながら洗面台を覗き込む。そこには流し切れなかったと思われる赤い飛沫が点々と残っていた。やば…。


 翠は慌てて席に戻った。しかし朱雀は一足先に店を出てゆくところだった。


「彩葉!貝原さん、何か言ってた?」

「用があるから先帰るって。用があるなら誘わなければいいのにね。奢って貰って言う事じゃないけど」


 彩葉はのんびり答えた。翠は迷った。言うべきか否か、しかしあの血の痕が貝原さんって証拠はない。彩葉に不安を与えてもまずい。翠は言葉を飲み込んだ。


「そう…だよね」


 翠の中には朱雀の底抜けの明るさが、何かを誤魔化しているような、そんな影が残った。

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