序章2 「回顧録」

Title:Memoiren(独語翻訳/回顧録)

author:Lorenz Ryuzaki


原文独語より翻訳

translater:蜂須賀良次


作者について(翻訳者註)

 作者は2079年から太平洋統合政府に従軍していた竜崎篤志氏の孫であり、丁度最もアジア人とヨーロッパ人の対立が激しかった時期に日本人とドイツ人のハーフとして生を受けた。竜崎篤志氏の子供の中でも庶子として生まれた園崎劉生氏を親に持ち、当時としてはとても珍しいヨーロッパ人との婚約を行ったことによって、この家族は奇異の目で見られていたというのは有名な話だ。

 園崎氏は竜崎ローレンツ氏が5歳の時に第六次ポートモレスビー沖海戦で戦死し、その妻であったエレオノーラ・ミュンツァー氏もその2年後にハーベスタ要塞施設事件に連座して逮捕、その後の消息を絶っている。


 その苦境にあった竜崎ローレンツ氏を救ったのが鄭政和氏であり、その友人であった二人─グフタフ・アーベル氏とアルフレッド・ジェファーソン氏─とともに太平洋の海を駆け巡り、華々しい戦果を挙げたのは言うまでもないことであろう。

 しかし、その人柄を知るものは、今では極めて少ない。


 鄭政和氏は竜崎ローレンツ氏の事を「寡黙にして冷静。口数少なく、自己主張薄し。ただし、言うべきとはきちんという」と評したという。全くそのとおりであったのだろうが、そのために竜崎ローレンツ氏の人となりを推察するのは極めて難しい。

 鄭政和氏を含む「中興の四柱」─先程あげた四人─の中で、もっとも目立たなかったのは当時の記録を見れば明らかである。しかし、何も自己主張が少ないからと言って、決してその根幹が薄弱なわけではないのではないか?


 翻訳者として、今一度、「中興の四柱」の一角たる竜崎ローレンツ氏を見つめ直していただければ幸いである。


           ────2177年4月、ポートモレスビーにて


「回顧録」


 Ⅰ この回顧録は、私の死後に公開することを前提としていない。したがって、このような書類を(万一つにもないとは思うが)もしも見つけたのならば、できる限り速やかに然るべき方法で処分してほしい。


 Ⅱ 回顧録と題打ってこそいるが、実際は私の過去と心情を思うままに綴ったものであり、決して過去を振り返るものではなく、ただただ事実を列挙しただけのものだ。私の過去を私自身が忘れないために記したものだし、人に見せるものでもないから、読みやすい読みにくいは気にしないでほしい。


 Ⅲ 多分これを読んでいるのは私の妻だと思う─他の人が読んでいるのならば、すぐにでも懐にでも入れて、然るべき方法で処分してほしいと、前でも言っていると思う─が、これを公開してほしいとは思わない。君の知りたがっていた私の過去を赤裸々に綴っているだけだから、この様な駄文を公開してほしいとは思わないし、君と私の仲だから言えることもある。


            ─水の都要塞から、最愛なる妻へ




 昔、私は孤独だった。

 物理的な意味ではない。確かに周りに人はいたし、私もそれなりには付き合ってきたつもりだ。だが、私には人の感情というものがあまりわからない。

 ほんの数ヶ月前に医者にかかって来たが、どうやらこれは幼少期のコンプレックスが今にまで尾を引いたものらしい。だから、自己主張も少なくしてきたし、それなりにも自制してきたつもりだ。


 孤独なのは、私から避けていたのか、それとも周囲から疎まれていたのか、今でも分からない。

 今はもうない鄭政和とは、唯一の友達だった。君とはそれ以上だと、私は思っているが。


 政和は私のことを避けずに、そのままの姿で見てくれた。


 少し過去のことを話そうと思う。

 もう私の記憶も随分と衰えたものなのだが、それでもその時のことははっきりと覚えている。


 自宅に銃を持って押し入る軍人たち、それに抵抗しようと銃を持ち出した母を、彼らは強引に抑え込み、そのまま自分たちの車へと連れ去った。

 私はそれをはっきりと見ていた。

 その軍人たちは、私のことを殺そうとしていた。まだ幼かった私に向かって銃を向け、そのままなんの躊躇もなく引き金を引いた。


 その時に死んでいたら、もちろん今の私はない。


 その時に死ななかったのは、ひとえにその上官がすぐに止血を行い、そのまま軍病院へと誘拐したからだ。

 誘拐と聞いて、もしかしたら語弊を招く表現をしたな、と思うかもしれない。しかし、これは何の語弊を招く表現ではない。


 私はあのとき、実際誘拐されたのだ。


 だから、治療とは言っても、その予後は病室内に軟禁されていたし、外出も許されなかった。その上官は、自分のことを「アジアの解放者」と言って憚らず、だから貴様はアジア人とヨーロッパ人のハーフなので、半分は保護し、半分は殺しているのだと言っていた。


 その言葉に何の誤りもない。


 実際、毎日軟禁生活を送った挙げ句、週末にはその上官の部下達が私のことを殴りに、調教しに来ていた。私の人格は、この時点で崩壊していたのだと思う。

 私が解放されたのはこの軟禁生活から5年が経過した頃だった。


 ふとした物音で目が覚めると、その時にはすべてが終わっていた。

 軟禁した張本人であるその上官は胸に銃弾を何十発も撃ち込まれ死亡、他の部下も全員殺されていた。


 「君が竜崎ローレンツかい?」


 初めにその人から聞いたのはその声だった。

 私とほぼ同い年の少年兵、というのが第一印象だった。無理もない、実際彼─鄭政和─は私の二つ上、つまり高々14歳に過ぎなかった。


 にも関わらず、人格は成熟していたし、何よりも兵士としては隙きがなかった。相当な手練というのを、初めて見た気がした。


 当時大佐だった鄭政和が率いる第一主力艦隊第一戦隊は、度重なる無人化によってかなり人員が削減されていたが、それでも今のように一隻一官主義的ではなく、未だに戦隊内に海兵隊がいた。

 この海兵隊を率いて、わざわざあの施設を破壊したというのが事の顛末だった。


 だいぶ年が経ってから、どうしてそんなことをしたのか問うてみたことが一度ある。その時には既に壮年の域に達していた政和は、軽く受けて


 「別に。そこに君がいると聞いたからでもあるし、何よりもあそこがアジア解放機構のアジトだったからだ」


 と答えた。

 全く以て不思議な人だった。四柱─自分が含まれているのは本当に恥ずかしい限りだが─の他の三人もそうだが、全くと言っていいほどナショナリティーに囚われていなかったのだ。

 育ちの問題なのか、それとも他の要因なのかはわからないが、少なくとも三人はとても珍しく、そして開明的だったと思う。


 私のことを引き取ったのは、政和自身だった。


 彼は私のことを被護者としてではなく、一人の人間、それも優れた知性を持つ人として扱った。

 ついでに言うと、その時の私の軍内の席次は最下位付近だった。


 そこまで知性があるわけではない、と何度思ったか、もう覚えてはいない。


 しかし、彼にそう言っても、全く引かずにこう答えられたものだ。


 「君は竜崎の血を引く、しかも一番濃いものを、ね」


 この時、竜崎篤志の血を引く「竜崎家」の軍人はただ私一人だったらしい。実際、後々調べてみてもそうだったし、そうでなければあそこまで厚遇もされなかっただろう。

 とにかく、私は彼の期待に答えるべく相応の努力をしたつもりだし、実際それなりの戦果は立てたと思う。自慢ではなくて、実際にこの国の中で私に匹敵する戦果を立てたのは四柱だけ。


 遅れたスタートを切った割には、頑張ったと思う。


 少し自慢気になってしまったかもしれない。

 話を戻そう。私はそれなりの努力を積み重ねて、2年後には少佐にまで昇格した。


 駆逐艦長が臨時少佐(もしくは大尉)なのに対して、少佐はれっきとした軍艦である巡洋艦以上級を指揮することになる。


 初戦線となった南方海域ではその熾烈な消耗戦によって命の危機にさらされたことは何度もあったし、実際よく生き残れたものだと私自身が思う。一度など、強引な突撃を命じられた挙げ句、敵中に孤立し、そこから自分だけの手で帰ってこいということがあった。

 この時の戦果が、今では過大に伝えられて、戦艦キラーや巡洋艦の虐殺者など凄まじい文言が積み重ねられるのだが、私が確認した戦果はたかだか戦艦一隻中破確実、巡洋艦三隻撃沈、二隻撃破確実、駆逐艦三隻撃沈にすぎない。


 とはいえ南方海域戦線の終結後、私は臨時中佐へと昇進し、戦艦艦長の座に座った。当時の所属は恥ずかしいことに第一主力艦隊第一戦隊であり、明らかに政和の温情だったが。


 ともかく、その後は歴史に残る通り、私は次々に戦果を重ねて、臨時中佐から中佐、大佐と昇進。気づいたときには政和と同等の中将になっていた。

 この時には、政和のいた第一主力艦隊の他の戦隊を率いていたアーベルとジェファーソンも中将へと昇進しており、そろって軍政へと鞍替えしていた。


 別に軍政方面へ退いたからと言って、直接戦火を交えなかったわけではない。


 今でも同じように、軍政は軍令の先にあるものであり、軍令を努め余裕があり有能な将校がここに務めるものだったから、軍政しつつ軍令も行いというような状態が何年も続いた。

 結局軍令から完全に手を引いたのは私達が40代に入ってからだった。40代よりも先になれば、冷静な判断力も衰えを見せ始めるし、何よりも体と頭を酷使し続けた影響でこれ以上軍令を努めれば間違いなく今後の進退に影響すると医師に言われたがゆえの決断だった。


 その後、私達はやるべきことをした。


 皆、私達のやることが理解できないと散々言っていたし、上官である五大将(作者註)─軍令部長、軍政部長、教育艦隊総監、国防軍総監、軍総長の五つの役職のことを指す─にも反対された。

 しかし、一線級を退いたとはいえ未だにその実力は軍随一となる政和や、部下の信頼を掴むのに長けたアーベル、戦略次元での名手にして作戦次元での神とすら言われたジェファーソン、そしてそれらのバランサーと評された私の四人の権威は絶大で、五大将ですら最後には折れた。


 私達の推進したのは、「軍内での機会均等と平等」であり、それ以上でもそれ以下でもない。軍の教育を徹底的に平等主義的なものとし、さらに能力主義を年功序列主義に優先させる習慣と軍法を徹底的に刷り込んだ。


 今では、もう私達のイデオローグであった政和も、その推進実行者であったジェファーソンも、理念を現実へと昇華し、さらにそれを伝え、信頼されるのにも長けたアーベルもいないし、どのように考えて私達がこんなことをしたのかを知るものもほとんどいない。

 妻よ、あなたは分かってくれるだろうか。


 私は、幼い頃から、それこそ母が逮捕されるよりも前から、激しい欧亜間の人種の差別も、それを是正しようとするテロリストも見てきた。あの頃は、アジア人は差別されるべきではないと考えていた人が多かったからだ。

 私は、最初はそんなことが軍では起こらないようにとこのような改革を行った。


 だが、今ではどうだろうか?


 確かに、度重なる弾圧とある程度の譲歩は、アジア人とのある程度の融和を呼んだ。だが、それが果たして正しいのだろうか?

 差別とは、機会不均等に他ならない。


 最近、アジア人を見ていると、「差別されているのだから、ヨーロッパ人よりも出世が遅くて当然だから」と、差別を使った合理化を行っているのをたくさん見かける。

 差別が生む不健全とはこのことではないだろうか?


 私は、最近のアジア人は差別を解決しようとせずに、それを建前に自分自身が劣ることを認めず、ヨーロッパ人はヨーロッパ人でアジア人を貶めることで自分たちを正当化しようとしているように見える。

 それは、人間の本来持つ可能性を断つものではないのだろうか?


 私はそう思えてならない。


 差別は不健全を生み、不健全は差別を加速する。

 負の無限ループがあるようにしか思えない。


 妻よ、私は、人間の可能性を信じたい。

 いつか、この負のループに感情での見切りをつけて、根本的に解決しようとしてくれるという可能性を。


 私は、種を撒いた。


 軍内での差別は極めて限定的になるだろう。

 軍というこの組織から、市民へと伝播していくには数十年、もしかしたら百年を超えるかもしれない。でも、いつかは伝播していくと思う。

 希望的観測ではない。これは歴史がそう示している。


 でも、この種を絶やされないか、それだけが心配だ。


 種さえ絶やされなければ、いつは解決するだろう。

 妻よ、もしも、もしも軍が自らの手で種を絶やそうとしたならば、注意してほしい。幸い、私達の息子は優秀だ。


 客観的に見てもそうだ。


 だから、息子は気づくと思う。

 でも、息子は勇気が足りない。思い切りが足らない。


 妻よ、君は軍について門外漢だと言っていたが、だがその勇気、思い切りの良さに私は惹かれた。

 だから、その勇気を分けてあげてほしい。


 願わくば、私達の息子が勇気を持って、種を絶やさないように努力してくれんことを。いや、願わくば、では足りないかもしれない。

 確信している、私達の息子は勇気とともに、種を絶やすまいと努力してくれることを。そして、願ってやまない。


 妻よ、私の寿命ももう短い。


 私は君に会いたいが、もう時間がないようだ。

 水の都要塞まで戻るのに二週間はかかる。でも、医者によると、もう私の命はそこまで持たないらしい。


 だから、私は今、最後の出撃をするために軍港にいる。


 遺言で君を縛りたくはない。だが、それでも。

 君が、私と理想を共にしてくれるのならば。


 私の伝えたことを、息子にしてはくれないだろうか?


 最後の挨拶となったが、あとはある人の詩をおいて去ることにする。

 1904年、日露戦争に息子が出征するのを見送る与謝野晶子が詠んだとされる詩をここに記す。


 ああ、弟よ、君を泣く、

  君死にたまふことなかれ。

  末に生れし君なれば

  親のなさけは勝りしも、

  親は刃(やいば)をにぎらせて

  人を殺せと敎へしや、

  人を殺して死ねよとて

  廿四(にじふし)までを育てしや。


  堺の街のあきびとの

  老舗(しにせ)を誇るあるじにて、

  親の名を繼ぐ君なれば、

  君死にたまふことなかれ。

  旅順の城はほろぶとも、

  ほろびずとても、何事ぞ、

  君は知らじな、あきびとの

  家の習ひに無きことを。


  君死にたまふことなかれ。

  すめらみことは、戰ひに

  おほみづからは出でまさね、

  互(かたみ)に人の血を流し、

  獸の道に死ねよとは、

  死ぬるを人の譽れとは、

  おほみこころの深ければ

  もとより如何で思(おぼ)されん。


  ああ、弟よ、戰ひに

  君死にたまふことなかれ。

  過ぎにし秋を父君に

  おくれたまへる母君は、

  歎きのなかに、いたましく、

  我子を召され、家を守(も)り、

  安しと聞ける大御代(おほみよ)も

  母の白髮(しらが)は増さりゆく。


  暖簾(のれん)のかげに伏して泣く

  あえかに若き新妻を

  君忘るるや、思へるや。

  十月(とつき)も添はで別れたる

  少女(をとめ)ごころを思ひみよ。

  この世ひとりの君ならで

  ああまた誰を頼むべき。

  君死にたまふことなかれ。


          ──息子よ、妻よ。私のように、天命を全うせずに死なないでくれたまえ。それを、私は切に願う─


           ──2102年4月、ブルネイ泊地より、愛する妻と子へ

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