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仲の良い友人や講義を受けている授業の先生には耳の状態を伝えているものの、突然音が聞こえなくなったからといって、急激に生活が変化する事はなかった。

元より人の動きを観察するのが好きで、表情から気持ちを汲み取ったり、周りの空気を読むのは得意な方だったので、今のところは大きく困る事もない。


友人たちは私と話す時には顔をこちらに向けて口をはっきり動かしてくれるし、僅かずつではあるけれど読唇術も出来るようになってきた。

喉やお腹の強張り方で、自分が大体どのくらいの音量で話しているかの察しもつけられるので、何かを伝えたくなったら今まで通りに話し掛ける。

相手が何と言ったのかどうしてもわからない時には、スマホのメッセージアプリも使った。


音が消えたのは確かにかなりのショックだ。

朔楽ほどではないにしても、私も音楽を聴くのは好きだったから。

夕方になると鳴き始める鳥の声やトースターでパンが焼ける音、電車の走る音だったり、話し方が変だと噂の先生の物真似や紙に鉛筆を走らせる音、メイクポーチをかちゃかちゃと漁る音、そんな日常の何気ない音が好きだった。

そして何より朔楽の紡ぐ歌が好きだった。

相変わらず何の音を拾う兆しも見せない私の耳には本当に嫌になるけれど、それでも新しい日常生活に少しずつ気持ちを切り換えていった。


でも私にとってもっとショックな事が起きた。

最近、絵を描いていても全然楽しく感じられないのだ。


ずっと、ペンを握れるようになった時からずっとずっと、絵を描く事が他のどんなものよりも好きだったのに。

真っ新な紙に、ペン一本でどんな世界も描き出せる事にわくわくしていたのに。

ここ最近は課題をこなしている時も、息抜きでしていた落書きですらも楽しく思えない。

このままだと大好きな絵を嫌いになってしまいそうで怖かった。




“今日、新しく駅前通りに出来たカフェに行ってみようって話してたんだけど、歌音も行かない?”


放課後、友人の一人がそう誘ってくれる。


「ごめん、今月新しい画材とか欲しかった新刊買って既に結構散財しちゃってるからやめとく。また今度誘って」


また今度。最近の私の口癖になっていた。

絵を描く事が楽しくなくなって以来、他のいろんなものも色を失ったように興味を感じられずにいる。

白い絵の具に他の色を混ぜると、もう白には戻せなくなる。楽しい雰囲気の中に今の私が混ざったらきっと、白を侵食する絵の具になってしまうだろう。

友人たちは、私を心配して気分転換させてくれようとしている。それはわかっている。

けれど今は、何をしても楽しい気分にはなれない。だって一番好きな絵が楽しくないのだから。




〈歌音、帰ってる?時間あるならちょっと散歩に付き合って!〉


自分の部屋に入ってすぐに、今度は朔楽から連絡が入った。

朔楽には絵が楽しく思えなくなった事を話していなかったけれど、さすがの長い付き合いというべきか。ずっと隣で過ごしてきた幼馴染みなだけあって、すれ違う程度に顔を合わせただけで私の気持ちを察してしまったらしい。

でもそれを言うならこっちだって同じだ。

朔楽の考えていそうな事くらい簡単に想像がつく。


〈さっき帰ったとこ。最近ちょっとどうにも出来ない嫌な事があったから、たぶんそれが顔に出ちゃってただけ。元気付けようとか変な気回さなくていいからね。何日かしたら立ち直れると思うから〉


送信ボタンを押して、ベッドに寝転がりながら深く息を吐き出す。

つまらない気分のまま周りに合わせるのもしんどいけれど、心配の気持ちからせっかく誘ってくれるあれこれを断るのも同じくらいにしんどい。

早くこの沈んだ気持ちを捨てて、前を向けたらいいのに。

そうしたらきっと、また前みたいにどんな事も楽しく感じられるのに。

二度目の溜め息を吐きかけた時、急に部屋のドアが開いた。


「ちょっと、入る時はノックしてよ!」


起き上がって反射的にそう言ってから、今の私はノックをされても気付けない事に気付く。

開いたドアの先に立っていたのは、ギターケースを抱えた朔楽だった。


「え、何でいるの。さっき送ったメッセージ見た?っていうか勝手に入って来ないでよ。ねぇ、聞こえてる?」


朔楽は私の呼び掛けを無視してすぐ目の前まで来たかと思えば、行くぞ、と一言だけ口を動かして私の腕を掴んでそのまま外へ連れ出した。


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