第29話

 前方の小枝で頬を切り、太い蔓に絡まり転がりながらも雑木林を抜けようとする。

 肺が四方八方から酸素を求める。

 野鳥たちが悲鳴をだして飛び回った。

 前しか見れないから、ぬかるみで数回転んだ。

 無数の枝がぼくの顔に無数の傷を作りだしていた。

 羽良野先生の咆哮が近づいてきた。

 ぼくは素早く思考を巡らした。


 このままだと雑木林を抜けられず。森に入ってしまう。

 何とか道路へと出て助けを呼んだ方がいいはずだ。

 あいにくとコンパスは持ってきていないから、運任せで雑木林の中から太陽を見て、西側に向かって走った。多分、森は奥にあるから南東の方にあるはず。


 枝を払いながら走っていると片側一車線の道路へと出た。

 でも、道路へ出るのは問題がある。

 羽良野先生に見つかりやすいし、追い詰められたらさすがに殺されてしまう。

 車が走って来てくれればいいんだけど、そこはぼくの幸運を一滴残らず絞らないと……。

 雑木林の外は小降りの雨からどしゃ降りとなっていた。

 道路の真ん中まで歩いて、苦しい呼吸で車を待っていると、ぼくは今になってフラフラになっていることに気が付いた。


 そうだ!

 左手と右肩!?


 見ると、血で洋服が真っ赤に染まっていた。

 すぐに、道路の雑木林から反対側の電信柱に身を潜めて、緊張しながらヨモギやドクダミなど、ガムテープで応急処置をした。

 車が一台。向こうから走って来た。

 ぼくの幸運を一滴残らず絞ったかいがあった!

 電信柱の陰から急いで走行中の車の前に行って大きく手を振った。黄色の車を停めると窓から大家族の方じゃない田中さんが顔をだした。

「ぼく! どうしたんだ? 怪我しているじゃないか?!」

 その時、雑木林から羽良野先生が現れた。

 その恐ろしい形相と凶器を見て、田中さんは真っ青になった。助手席のドアを開けて叫んだ。

「早く乗って! 早く乗って!」


 田中さんはぼくを乗せて車を急発進した。

 羽良野先生が走って追いかけてくる。


「なんだ! なんだ! あ、ぼく! 掴まって!」

 のっぺりとした丸顔が恐怖で歪む。

 田中さんは焦ってアクセルを全開にした。

「追いかけて来る! 追いかけて来る!」

 ぼくはこれ以上ないほど眠くなってきた。隣の田中さんが何か必死に前方を見つめて叫んでいたけど、ぼくは泥沼のような眠りに沈んでしまった。


 目を開けると、薬品と埃の匂いがする部屋だった。

 ぼくはベットにいた。

 病院?

 ぼくは辺りを見回した。

 あ、そうだ。

 村外れの村田診療所だ。昔、大熱をだして心配した母さんに連れてこられたことがあるんだ。

 ベットの隣には、丸っこい母さんが座った状態で眠りこけていた。

 脇の時計を見ると、今は午後の11時だ。

「助かった!」

 ぼくは自分でも解らないけど大声を張り上げていた。

 空想が一部壊れてしまったからだろう。

 ぼくは恐怖と戦うには空想しかないんだ。

 でも、大丈夫。

 まだまだ、空想はいっぱいある。

 隣の母さんが起きた。

「まあ、起きたの歩! よかった! ……大変だったわね。父さんもおじいちゃんも感心していたわ。羽良野先生から無事に逃げていたって田中さんから聞いて。犯人が羽良野先生だったって、みんな信じられないって大騒ぎしてたのよ。……あら、こんなこと子供に話してもいいのかしら? 田中さんに後で必ずお礼を言いなさいね」

 これで、ぼくの冒険は進行しやすくなった。

 

 羽良野先生に殺人未遂罪を着せられる。

 後は裏の畑の子供たちを助けなきゃ。

「リンゴ剥く? それともご飯?」

 母さんは優しくしてくれた。

「リンゴ」

 丸っこい母さんはテキパキとリンゴを剥いてくれた。

「食べ終わったら、母さん。ちょっと、下へ行ってくるわね。父さんたちに電話で話さなくちゃ。ご飯はその冷蔵庫の中にお弁当があるわ。お腹空いているでしょ」

「うん」

 ぼくはリンゴを口に頬張りながら、母さんがリュックに気が付いたのだろうかと、一瞬考えた。あのリュックの中身には止血剤とかがあるからだ。

 見つかるとどうなるのだろう?

 長い間、犯人の羽良野先生と戦っていたと思われるかも知れない。

 勇気を褒められるかも知れないし。

 無理はしちゃ駄目だと怒られるのかも知れない。

 けれども、事件はまだちっとも終わっていない。

 

 これからが、本当の調査なんだ。

 ぼくは何気なく白い包帯を見つめていたけど、痛みどころか鉈の傷による怪我からの左手と右肩に血がまったくでてないことに気が付いた。

「あれ? ぼくの傷が治っている?」

 点滴の血液がぼくに流されているかと思ったら、点滴には透明な液体が入っていた。

 輸血しなくてもよかったのかな?

 ぼくは興味本位で左手の傷を確認するために包帯を解いた。

 何ともなっていない!

 左手は傷がないばかりか痛みもまったくなかった。

 あれだけ恐ろしかったことが夢?

 そんなことはないはずだ。

 だって、ここは病院だもの。

 母さんに聞いてみよう。

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