薄明

 気付いたら好きだった。キッカケなんてきっと無い。


 いつも一緒に遊んでくれて、弟みたいに可愛がってくれて、誰よりも長い時間を過ごした人。

 虫の取り方、炭酸の味。

 タバコの吸い方、お酒の味。

 俺の世界を広げてくれた人。いい意味でも、悪い意味でも。

 何でもスマートでクールで、俺のヒーロー。

 ガキの頃から俺の憧れの人だった。


 だから、貴方の隣を歩く、高いヒールを履いた女が羨ましかった。


 甘ったるい声で、貴方の腕に擦り寄って。

 綺麗に巻いた長い髪を弄りながら、可愛らしくオネダリ。


 女物の服も、高い声も、長い髪も全部俺には無いものだ。


 俺の方がずっと前から好きなのに。

 約束のドタキャンも、音信不通も、浮気だって泣き叫ばないのに。

 俺なら全部許すし、嫌いになんてならないのに。


 たまにでいいから構って欲しい。

 俺の事を忘れないで欲しい。

 都合のいい相手で充分。

 想いに蓋をしてても、貴方の隣に居場所があるならそれでいい。



 ***




「かおるちゃん、おれ、」


 シワの付いたワイシャツのボタンを閉めてくれていた手が止まる。


「気付いてた」


 ぽつりと、それでいて冷たく。

 突き放すように、ただ淡々と。

 先程の熱なんて無かったように、別人の眼をしていた。


「これで満足だろ」


 キャラメル色の髪の毛は額に張り付いたまま。

 何事もなかったようにボタンに手をかける。


「今日が最後な」


 ──サイゴ? さいご? 最後?


 カオルちゃん、貴方の言っている意味がわからないよ。なにが? どうしてよ。


「霞、もうココくるな」


 第一ボタンがとめられた。息が詰まった。

 問答無用で貴方を想う気持ちを隔てられた。


「間違ってるんだよ、ナニモカモ。俺はお前に応えられないし、正直もう構ってられない」


 恋人にするようなやさしい口付けを俺の額に落とし、目を細める。


「一回抱いたくらいでカンチガイするなよ」


 ドラマのワンシーンみたいなスローモーションが瞳に映った。

 光の無い目、鼓膜を震わす低い声。首筋を伝う汗は日が落ち切る前の黄昏の色。レースのカーテン越しに柔らかな風が吹いて、テーブルの上のレポート用紙をはぐっていた。


「俺はやっぱり、霞には勿体ない」


 俺の大好きな困ったような笑顔で、嘘みたいな甘い声で、メロドラマにありきたりなセリフをこぼす。


「今日のコトも、今までのことも全部忘れろ。おれたちは夢を見ていたんだ」


 そう、きっとこれは春の夢。

 甘くて儚い長い夢を見ていたんだ。


「カオルちゃん、ごめんね」


 か細い声だった。

 大嫌いであんなに羨ましかったアノ女と同じように泣いた。ボロボロと嗚咽混じりに涙を零した。

 声にならないコトバを紡ぎながら、所詮恋なんて惚れた方が負けなんだ、なんて馬鹿みたいなことを考えていた。


「もう、来ないから」


 ──間違いだなんて言わないで。


「今までありがとう」


 ──淡い期待すら持ってはいけないの?


 首に腕を巻き付けて、抱きしめる。

 カオルちゃんの匂い。汗と香水とタバコの匂い。


 すきよ。貴方のことが好きだった。


 頬に手を添えてそっと唇を重ねる。


「ばいばい」


 再び零れそうになる涙をぐっと堪えて、床に脱ぎ捨てられたスラックスを履く。カバンと学ランを持って、ゆっくり玄関まで歩く。

 カオルちゃんの顔が見れない。貴方は何を思っているの。何で、どうして。ぐるぐると渦巻く感情を見せないように。ポーカーフェイスはできているだろうか。


 俺の後ろを同じ速さで付いてくる。

 ぺたぺたとフローリングに二人分の足音を鳴らす。


 かかとのすり減ったローファーを履く。

 ドアノブに手をかける。


 ぎゅっと腰に手が回った。シャツ越しに愛しい人の温もりを感じた。


 突き放したのは貴方なのに。離れようと決心したのに。


 やんわりと身体から彼の腕を外す。


「さよなら」


 振り返らず、後ろ手に扉を閉めた。


 切れかかった電球が灯す階段を駆け下りる。

 上を向いたまま歩こう。

 下を向いたらコンクリートに涙がこぼれてしまうから。

 ひとりで歩く道をゆっくり踏み締めて。

 街灯の照らすこの街も忘れたくはないんだ。


 貴方の香りが夕暮れの街に溶けてしまうまでは。

 朧月が空にかかるまでは。


 お願いどうか、俺のことを忘れないで。

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