差し伸べる者


「いてて、だから痛ぇってば!」

「そう、大丈夫そうね?」

 おほほ、と可笑しそうに頬を緩めた奥田恭子の声が保健室に白い光を灯す。パープルピンクの毛先。苦痛に顔を歪めた島原健也は、ふんっと鼻で息を吐き出すとそっと肩を下ろした。

 柔道有段者の大柄な男に締め上げられた肩の怪我は大したこと無かったようである。だが、この聖母のような見かけにもよらず乱暴な初老の養護教諭の手によって、怪我が悪化してしまったのではないかと不安になった健也は軽く肩を振ってみた。窓辺から保健室を見守るナラの盆栽。ほんの微かに揺れる青い葉先。

 廊下を走る誰かの足音が静かな保健室の空気を揺らした。勝郎たちが戻って来たのかと廊下側の壁に視線を送った恭子は、バンッ、と突然叩き開けられた保健室の扉に飛び上がって驚く。扉の前で息を乱して視線を下げる男子生徒。中野翼の粗暴さにカッとなった恭子は丸い腰に手を当てると、肩で息をする男子生徒を睨み付けた。

「コラッ! そんな扉の開け方はないでしょっ!」

「はっ……はっ……」

「もし扉の前に誰か居たらどうするの!」

「はっ……うっ……せ、せんせ……」

「大怪我させちゃう事だってあるのよ! 分かってるの、翼くん!」

「せ、せんせっ……はっ……う、ぐ……おぉ……」

「……翼くん?」

「おぉ……ぐっ、おおぇ……」

「ちょっと、大丈夫!?」

 腰を曲げて激しく嘔吐を始めた男子生徒に、恭子は慌てて駆け寄った。黄色い吐瀉物が保健室の床に飛び散る。

「……あっ……ぐぅ、うっ……せ、せんせ……」

「た、大変! 翼くん、落ち着いて、深く息を吸って? 大丈夫だからね?」

「せ、せんせ……うっ……、た、体育館が……」

「どうしたの? ほら、息を吸って、吐いて、吸って。大丈夫? 体育館が、どうしたの?」

「はっ……はっ……。し、死んで……だ、誰か……し、死んでて……うっ……」

「……は?」

「し、死んでて……皆んな、薬、飲んでて……うっ、うっ……だ、誰か、死んでます……死んで……うっ……体育館で……」

 膝から崩れ落ちた翼は涙を流して嗚咽を始めた。呆然と翼の黒い髪を見下ろす初老の女性。一瞬の静寂。飛び上がるようにして立ち上がった島原健也は、扉の前で蹲る翼を蹴り飛ばして保健室から転がり出ると駆け出した。

 廊下に尻餅をついたまま嗚咽を続ける翼。はっと目を見開いた恭子はダッと廊下に飛び出ると翼の肩を掴んで激しく揺すった。

「し、死んでるって、死んでるってどういう事なの? 何があったの?」

「し、し……わ、分かりません……。く、暗くって……皆んな、な、泣いてて、く、薬、飲んで、て……」

「薬? 薬って?」

「ふ、袋……被ってて……うっ……く、暗くって……ひっ……し、死んでた……。ふ、袋、被って……倒れ、てて……う、動かなく、なって……た」

 バッと保健室の中に駆け戻った恭子は白い受話器を握ると三桁のボタンを叩き押す。焦ったような激しい口調で救助を要請した恭子は、すぐにまた廊下に飛び出ると、蹲ったまま涙を流し続ける男子生徒を揺り起こした。

「翼くん! 起きなさい! 翼くん!」

「ひっ……ひっ……」

「翼くん!」

 バシンッ、と翼の頬を叩く初老の女性。驚いたように顔を上げた翼は、しゃっくりを繰り返しながら、恭子の真っ赤に染まった頬を見つめた。

「すぐに勝郎先生たちを探してきなさい! すぐによ! 体育館に駆け付けるように伝えなさい! 出来るわよね!」

「は、はい……」

 恐怖と悲しみに震える男子生徒。翼の体をギュウッと抱き締めた恭子はその頭を優しく撫でると、祈るように親指を握り締めながら体育館に向かって足を急がせた。



 待ってろよ、楓……。

 島原健也は体育館で俯いているであろう三嶋楓を想った。長い足で廊下を蹴ると音の無い校舎を飛ぶように走る。揺れる紫色の髪。喧嘩してばかりだった幼馴染への想い。最近は会話すらもしなくなった彼女が最後に見せた笑顔を思い出す長身の男。

 動かない空気が重い。梅雨の湿気を切る手足。廊下を駆け抜けた健也は開け放たれた扉の向こうの薄暗闇の底に飛び込んだ。



 ショートボブの天使。田中愛は首を傾げた。

 旧校舎に集まった四人の大人たち。先程まで泣き叫んでいた山本恵美が次第に落ち着きを取り戻すと、その背中を優しく撫でていた新実三郎は顔を上げる。恵美の手を握り締めたままにコクコクと四角い顎を動かし続ける臼田勝郎の微笑み。白い髪を後ろに撫で付けた大場浩二は、痩せ細った自分の膝に手を置くと、のそりと立ち上がった。

 旧校舎の廊下を見つめる存在。動かない黒のポニーテール。前髪でおでこを隠した女生徒。

 丸メガネの天使。久保玲は旧校舎の様子を眺めていた。その静かな視線に田中愛は首を傾げる。職務を放棄して出て行ったのではなかったのか、とショートボブの天使は辛辣であった。

 ふっと微笑んだ丸メガネの天使は微かに首を振った。自分には大切な仕事が山ほどあるのだ、と静観の天使の瞳は何処までも澄み切っている。

 白猫は何処だ、と久保玲は尋ねた。田中愛は首を横に振る。白猫はもうここには居ない、と。

 明後日の方向に視線を向ける丸メガネの天使。執行の天使に傍観の天使の行動は読めない。田中愛は困惑したように腰に手を当てた。小柄な女生徒たちの視線の交わり。認知の外の会話に気が付いた人はいない。

「……パパは……父はどういう人でございましたか?」

 山本恵美の静かな問いに、僅かに目を丸くした大場浩二は口を横に開いた。

「いい奴だった、本当に清々しい奴だったぜ。真面目で、真っ直ぐで、俺とは正反対な好青年だったさ」

「……りんごは美味しかったですか?」

「美味かったなぁ。もう一度、食べてぇよ。正人と、お前さんの親父と一緒によ」

「そうですか」

「ああ、恵美ちゃんも一緒にな」

 静寂。温かな初夏の静けさ。

 ニッコリと微笑んだ新実三郎は、廊下の奥に佇む女生徒の存在に気が付いた。ジッとこちらを見つめる丸メガネの女生徒。見覚えのない存在。学校を彷徨う者かもしれないな、と初老の男は優しげに目を細めた。

 三郎は幽霊の存在を信じていた。遥か昔の思い出。曖昧な記憶の花。当たり前のように側にあった存在の微かな温かさを三郎は覚えていた。消えかかった夢に浮かぶ遠い存在。見えない何かの微笑み。自分を見守っていた存在の優しげな瞳の光に三郎は気が付いていた。

 丸メガネの天使。久保玲の瞳の光。何かを求めるかのような存在の視線。

 丸メガネの女生徒が視線を逸らすと、三郎はそっと腰を上げた。静かな会話を続ける二人に微笑んだ三郎は、学校を彷徨う女生徒の後を追って歩き始める。時折振り返る丸メガネの女生徒。腕を後ろに組んでニッコリと微笑む初老の男。

 静かに立ち去る三郎の後ろ姿を見送った恵美はふぅと息を吐いた。いったい自分は何を取り乱していたのだろうか。寂しげに笑う中年女性。ただ、失った記憶への想いは消えていない。

「大場さん、数々の暴言や暴力、本当に申し訳ありませんでした」

「はは、気にすんなって、恵美ちゃん。俺が悪かったんだよ、全部な。学校押しかけて、変な事言っちまって、悪かったなぁ」

「はっはっは、いやいや、丸く収まったようで本当に良かったですなぁ」

 臼田勝郎が豪快な笑い声を上げると、やっとその存在に気が付いたかのように目を見開いて驚いた恵美は隣を振り返った。手の甲に掛かる温もり。それが勝郎によるものだと気が付いた恵美はバッと腕を振り払う。

「……臼田先生、いらっしゃったのですね?」

「ええ! もちろんですとも、山本先生!」

 かつての情熱を取り戻したかのような大男。恵美はその真夏のグラウンドに漂う熱気のような暑苦しさに眉を顰めた。

「はぁ……。ワタクシはもう大丈夫ですので、臼田先生はご自分のお仕事に戻って頂けますか?」

「ご無理はいけません、山本先生、ご無理はいけませんよ。少しくらい休みましょうよ、ね?」

「……アナタの話をしているのですけれど?」

「あなたは苦しんだ。本当に、本当に、苦しんで、苦しんで……。でも、それでも、あなたは前を向いて歩いていらっしゃる。本当にすごいお人だ。私は感動しております。初めはただ頭が固いだけの唐変木かと思っておりましたが、いやぁ、知ってみればあなたは、本当に、本当にすごいお人だ」

「唐変木?」

「山本先生、実はあなたに大事なお話しがあったのです」

「ワタクシはありませんわ」

「とある素敵な女性からリハビリコーチングという仕事を誘われておりましてですね」

「聞いておりますの?」

「来年にはこの学校も閉鎖致します。私もそれを持って教職を降りようかと考えているのですが、未来ある子供たちを導く仕事だけは続けていきたいと強く願っておるのです! 残りの人生全てをかけて、悩み苦しむ子供たちに寄り添い続けていきたいのです! どうです、山本先生。もしも、あなたも教職を降りるというのであれば、一緒に、リハビリコーチングの仕事をして頂けませんか?」

「結構です」

 にべもない。山本恵美はふんっと立ち上がった。苦笑を浮かべる大柄の男。その瞳に宿る同情の光。恵美の心に浮かび上がる怒りに似た不快な感情。

 ……この男、十歳近く若いくせに頭皮に問題を抱えているようなこんな男が、まさかこのワタクシを同情しておりますの? ……気まぐれでこの学校に籍を残しといてあげたような弱者が、まさか人生の先輩であり上司でもあるワタクシを同情しておりますの?

 久しぶりに浮かび上がる卑屈な思い。弱者と見ていた者に向けられる同情の視線は限りなく不快だった。勝郎の優しげな瞳をギロリと睨み上げる中年女性。

 それは救おうとする者の光だった。差し伸べる者の微笑み。同情の視線。何処か懐かしい瞳の色。

 限りなく不快だった。惨めな自分をさらけ出す光。強者を振る舞う者が創り出した事実に対する屈辱。正しさへの不快感。

 同情に反論する言葉は難しかった。理性では敵わないのである。感情に対する感情は何か。自分を哀れむ者にぶつけられる想いは何か。その不快感を言葉にするのは限りなく難しかった。

 はぁっとため息をついて背筋を伸ばす中年女性。何処までも優しげな勝郎の微笑み。諦めたようにその瞳を見つめ返した恵美は、肩を落とすと深く息を吸った。

「ワタクシ、教職を降りるつもりはありませんわ」

「お、おお! そうでございましたか! いやはや、それは素晴らしい。流石は山本先生です!」

 豪快に笑う大男。ため息をつく中年女性。フラフラと旧校舎の廊下に現れた男子生徒に、浩二は優しげな視線を送った。

「先生ぇ、生徒だぜ?」

 口を横に広げる老人。そろそろ帰ろうか、浩二は清々しい笑みを浮かべた。旧校舎の空気を震わす熱。窓の向こうに広がる灰色の空。

 何処か様子のおかしい男子生徒。中野翼の異変に気が付いた勝郎は表情を引き締めた。

「……なんだとっ!」

 怒声が旧校舎の窓を揺らす。梅雨の湿気を震わせる音。

 踏み鳴らされる木製の廊下。足を大きく踏み出した勝郎は、グッと手を握り締めると、救いを求める者たちに向かって届かぬ咆哮を上げた。

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