叫ぶ者


 天使のショートボブが風の無い校舎に揺れる。天使の白い肌に煌めく汗が流れる。

 ドスドスと廊下を走る大人たち。止まった空気を打ち破る熱気。広い背中にしがみ付く存在に臼田勝郎は気が付かない。

 廊下を走るな、と田中愛は顔を赤らめた。夏風に靡く白いタオルのようなショートボブの天使。何処からか聞こえてくる猫の鳴き声に、勝郎の背中を追う新実三郎はキョロキョロと静かな廊下を見渡した。

 上下に揺れる弛んだ頬。太った中年女性の跳躍。二階の廊下を抜けて旧校舎に飛び込んだ山本恵美は、徐々に走る速度を落としていった。美術室の前でガクリと膝を付く中年女性。込み上げてくる吐き気。酸欠に歪む視界。

 その場で荒い呼吸を繰り返した恵美は、何とか木製の壁に手をついて立ち上がると、フラフラと揺れる足を前に動かした。

 死んだ筈の姉の微笑みは夢か現か。確かにその目で見た長い黒髪の女生徒の瞳の光に恵美は縋り付いた。

 踏み出すと軋む膝の骨。濡れた布団が如く重い手足。胸を締め付ける血の激流。

 痛みは現実のものだった。苦しみは妄想の類ではなかった。肉体的な苦しみが、妄想を打ち消す痛みが、恵美の理性を呼び戻し、溢れ出る感情を萎縮させていった。

 死んだ人が居るわけ無いじゃないの……。

 生徒のいない旧校舎に響く荒い呼吸。

 いい歳して、子供みたいに騒いで、馬鹿みたい……。

 太った体を支える廊下の軋み。

 もう十分よ、もう疲れたわ……。

 古い校舎に轟く男の大声。

「山本先生!」

 振り返った恵美の瞳に映る大柄の男。風に靡くウルフカットのカツラ。背中に黒猫を背負った臼田勝郎の大きな足がドタドタと木製の廊下を踏み鳴らす。

「だっ……だっ……大丈夫ですかっ、山本先生……」

 肩で息をする大男。膝に手をついて呼吸を整える勝郎。そのズレたカツラをいそいそと直し始めた毛並みの良い黒猫に、恵美は眉を顰めた。

「宮野クン!」

 初老の男の声。微笑みを浮かべた新実三郎がゆっくりと恵美に歩み寄る。その後ろに続く白い髪の老人。白髪を後ろに撫で付けた大場浩二は、廊下にへたり込む中年女性を見下ろすと、優しげに目を細めた。

「なんだよ、恵美ちゃん、元気そうじゃねぇか」

 シワの寄った堀の深い顔。ニヤリと口角を上げる白髪の老人。ゴオッと瞳に憎しみの炎を宿した恵美は、浩二の目を睨み返した。

「帰れ!」

「まぁ、ちょっと落ち着けや。さっきは言い過ぎた、俺が悪かったよ、すまねぇな」

「帰れ!」

「なぁ恵美ちゃんよぉ、お前さん、何か勘違いしてるぜ?」

「帰れ帰れ帰れ!」

「おらぁ確かにちょっと口が悪りぃかも知んねぇがよ、これでも元刑事なんだ。それによ、恵美ちゃんのお父さんと、おらぁ親友だったんだぜ。俺はよ、お前さんのお父さんを、正人を、救ってやりたかったんだ。お前さんの実家を救いたかったんだよ」

「うるさいうるさい! 帰れ! パ、パパを、パパを返してぇ!」

 再び激情を取り戻した恵美は大きな声を上げて泣き始めた。止め処なく溢れ出る涙と鼻水。収まらない感情の炎を吹き出し続ける中年女性。慌てて恵美の側に駆け寄った三郎がゆっくりとその背中を撫でる。

「おい! 貴様はもうしゃべるな! すぐにこの場から立ち去れ!」

 太い腕に血管を浮かばせた勝郎が白髪の老人を睨み下ろす。浩二はギロリとその目を睨み上げた。

「黙ってろや、若造」

 鬼の瞳。老人の眼光の鋭さに僅かにたじろいだ勝郎は言葉に詰まった。そのまま無言で睨み合う二人。やがて、恵美の声が静かな嗚咽に変わっていくと、静寂が旧校舎の空気を冷やしていった。

「大丈夫、大丈夫だよ、宮野クン」

「……ひっ……ぐっ……お、お姉ちゃん……」

「大丈夫、大丈夫」

「なぁ、よぉ、恵美ちゃん。お姉ちゃんは、鈴ちゃんは、お前さんに何を言ったんだ?」

 静かな問い。老人の声に顔を上げた恵美は歯を食いしばると、太い指の先を浩二の額に向けた。

「悪魔! お前は悪魔だって、お姉ちゃん言ってた!」

「……何だと?」

「パパを苦しめる悪魔だって! 家を乗っ取ろうとする悪魔だって! この、この、人殺し! パパを返せ!」

「……鈴ちゃんが、あの子が、そんな事を言ってたってのか?」

「人殺し! 悪魔! 帰れ! 帰れ!」

「や、山本先生! 落ち着いてください」

 太い腕を振って暴れ出した恵美に駆け寄った勝郎は、オロオロと、子供のように喚き回る中年女性の手を掴んだ。再び強まる恵美の泣き声。呆然と口を縦に開いた浩二は、かつての天真爛漫な少女の笑顔を思い返した。

 あの子が、何故だ? あの子も俺の事を嫌ってたって事か?

 記憶に残る純白の微笑み。青空に響く透き通った笑い声。好意と憧れの光が宿った漆黒の瞳。

 いや、待て、そんな素振りはほんの僅かにも見せなかった。無邪気な笑顔で、澄み切った声で、いつも純粋な瞳の色を見せてくれてたじゃねぇか……。

 そうさ、大人の俺を、刑事の俺を、子供が騙せるわきゃねぇんだ……。敵意を、悪意を、子供が隠せるわきゃねぇんだよ……。

 浩二の瞳が宙の一点を見つめたまま固まる。何かがおかしいぞ、と過去を見つめ直す老人。かつての長い黒髪の少女。思い出の中の宮野鈴の純白の光。

 それは、あまりにも純粋な白色であった。一点の曇りも無い純白の天使。記憶の中の宮野鈴は何処までも真っ白であった。その、ただ純粋なだけの光の色を思い返した浩二の白い毛がザワリと逆立つ。

 新雪の白。春の山水。初夏の晴天の青。母親のいなかった宮野鈴の漆黒の瞳。仲の良い妹が敵意を向ける相手に見せる微笑みの赤い唇。

 宮野鈴は何処迄も無邪気だった。あれほど多くの厄災が降り掛かったにも関わらずである。宮野鈴は何時迄も天真爛漫だった。風に揺れる長い黒髪。白い肌に浮かぶ赤い唇。実家が無くなろうとも、実父が亡くなろうとも、何処までも、何処までも、宮野鈴は真っ白であった。その美しさが乱れることは無かった。

「人殺し……悪魔……」

 泣き疲れて視線を下げた恵美は、それでも消えぬ憎しみの炎を吐き出そうとするかのように、ブツブツと怒りの言葉を絞り出した。恵美の丸い背中を撫で続ける三郎。子供のように取り乱した年上の女性に対して、果たしてどのような対応を取るのが正解なのかが分からなかった勝郎は、眉を顰めたままにその手を握り続ける。

 グッと目を瞑る白髪の老人。自分に対する失望と後悔。ひんやりと冷たい床に膝を付いた浩二は、ガンッと額を木製の廊下に叩き付けた。

「……すまねぇ! 恵美ちゃん、疑っちまって、本当にすまなかった!」

「人殺し……返せ……」

「俺が間違ってたのかもしんねぇ。本当に、本当に、すまなかった」

「パパを……返せ……悪魔……」

「だがよ、恵美ちゃん、これだけは信じて欲しい」

「悪魔……人殺し……」

「おらぁ、正人の大親友だった。お父さんの幼馴染だったんだよ。お前さんのお爺ちゃんの事も大好きだった。お前さんの実家の農園も大好きだった。俺ん家は貧乏だったからよ、正人ん家で、お前さんの実家の農園で食わせてもらうリンゴが、ご馳走だったんだ。本当に甘くって、真っ赤なリンゴがよぉ、空をいつもより青く見せやがったんだ……」

 廊下に額をついたまま、浩二はかつての農園を思い返した。青空に伸びる枝。瑞々しい赤い果実。親友と食べたリンゴの味。

 土下座する老人の白い頭を呆然と見つめる理恵の心に、柔らかな理性の温水が湧き始める。涙と叫びで感情の炎を吐き出した女。それでも恵美はグッと目頭に力を込めると、心に残る感情の火に薪をくべる言葉を絞り出した。

「嘘つき、パパを返せ、悪魔」

「恵美ちゃん、すまなかった……。正人を、お前さんのパパを救えなくて、本当にすまなかった……。お前さんの家を守れなくて、本当にすまなかった……。おらぁ悔しかったんだ、だからこんな老いぼれになってもまだ、忘れらんねぇでいやがる。悔しくってよ……寂しくってよ……老いぼれきってくたばっちまう前に、もう一度だけでも、あのリンゴを食べてぇなぁって、正人に会いてぇなって、夢ぇ、見ちまった……。そんで、正人の娘のおめぇさんに会いに来ちまった……。ああ、そうさ、会いに来たんだよ。そうさ、なぁ、恵美ちゃん、おめぇさんを疑ってたってのは、建前だったのかもしんねぇ。こんな老いぼれのジジイが、今更になって、昔ん事を疑うもクソもありゃしねぇのさ。……そうさ、夢ぇ、見てたんだ。何かが、奇跡みてぇな何かが起きて、もう一度だけ、正人に会えんじゃねーかって、思っちまってたんだ。……はは、馬鹿なジジイだ。老いぼれ過ぎておかしくなってたのかもな。悪りぃな、恵美ちゃん、迷惑かけちまってよ……」

 顔を上げた浩二は泣いてはいなかった。その表情はただ寂しげであった。

 痩せ細った体。白く薄い髪。最後の時に夢を見たという老人は何処までも寂しそうに微笑んだ。夢は夢のままであったのだと、現実は現実のままであったのだと、老人は諦めたように微笑んだ。

 寂しげな老人の表情を見つめる中年女性。恵美は失ってしまった姉との最後の記憶を想った。姉は死んでしまったのだという現実をやっと悟った。

 


 赤い服の天使。藤野桜は虚ろな瞳を前に向ける。

 ゆっくりと歩みを進める二人の男子生徒。太田翔吾と中野翼をスッと追い抜く赤い服の天使。藤野桜は体育館を目指して歩いた。風を動かさない歩行。空気を震わせない鼓動。

 生まれ落ちた理由は何か。

 赤い服の天使の視線の先。体育館へと続く廊下。

 この世を彷徨う理由は何か。

 薄暗い空間の底。両膝をつき顔を上げた生徒たちの涙。

 スッと体育館の薄暗闇に溶け込む赤い影。藤野桜は、体育館の中央で頭に袋を被って痙攣する女性教員の青白い胸元に視線を落とした。救いを求めるかのようにピクピクと動き続ける白い指。生温い体液が梅雨の湿気と混ざり浮かび異臭を放つ。

「黙祷」

 生徒の声。啜り泣く集団。おもむろに睡眠薬の錠剤を口に含み始める生徒たち。

「黙祷」

 虚ろな瞳。闇に浮かぶ赤い影。動かない天使の視線の先。

 藤野桜は傍観の天使であった。執行の天使としての姿は因果だったのだ。ショートボブの天使と行動を共にする過程で纏う結果となった薄い衣。一つの存在となった藤野桜の衣は音も無く地に落ちた。傍観の天使の視線の先。死にゆく人々の嘆きの瞳。啜り泣く者たちの声の細波。

 嘆く者。傍観する存在。

 男子生徒の一人が激しい嗚咽と共に錠剤を吐き出した。スッと腰を落とした藤野桜は、その一つを手に取る。溶けかけた錠剤に光る唾液。救いを求める者の光。

 錠剤を舌の先に乗せた藤野桜はそれを人差し指の腹で喉の奥に押し込んだ。味の無い錠剤。熱の無い体。耳を塞いで蹲った男子生徒の側に散らばる薬を一つ一つ口に含んでいく天使。

 生まれ落ちた理由は何か。

 震える指の先で祈りを込めるかのように袋の端を掴む男子生徒。罪に打ち震えるかのように体を痙攣させながら立ち上がる女生徒。

 この世を彷徨う理由は何か。

 遠くに灯る微かな光。誰かと誰かの叫び声。

 死の救いに躊躇いを見せる生徒たちから錠剤を掠め取った藤野桜は、口いっぱいに救いの光を詰め込むと、祈るように合わせられた両手の指で薬の山を喉の奥に押し込んだ。

 何故、自分はこの世に生まれ落ちたのか。

 何故、哀れな人々の嘆きを見つめ続けねばならぬのか。

 味の無い錠剤に求める救い。光の粒を喉の奥に押し込む赤い服の天使。

 誰かの叫びは止まらない。

 驚きと怒りに満ちた叫び。薄暗闇に続く扉から現れた光。

 叫び声を上げた太田翔吾が体育館に飛び込むと、天使のダークブロンドが暗闇の底に光を放った。

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