静観の天使


「おう、鈴、お前もヤルか?」

 大柄の男の口元から漂う腐った魚の内臓の臭い。注射針の銀色。黒いチューブの軋む音。

 宮野鈴は首を振って微笑んだ。言葉は無い。声を失った女。

 何かが男の気に障ったらしい。怒声をあげて立ち上がった男は、宮野鈴の長い黒髪を掴んで床を引き摺った。冷たい底に散らばるビン、雑誌、吸い殻。何かに濡れた冷たい廊下に足を踏み出した男は、掴んだ長い髪を離すと、微笑みを崩さない女の顔を殴った。鈍い拳の響き。血と錆びた鉄の臭い。青紫色に顔の腫れ上がった女は、それでも笑顔を崩さなかった。前歯を無くした女。

 興味を無くしたように大きく欠伸をした男は部屋に戻った。襖から覗く薄明かり。腫れた目を細めて微笑む長い黒髪の少女。

 和服の女が暗がりに立っている。刺青の天使は廊下に横たわる宮野鈴を見下ろした。

 誘引。天使と人の狭間の存在。漂い続ける益は無いと説得する和服の女。

 シンッと凍える廊下の空気。宮野鈴は首を振った。言葉は無い。罪の報いを求めているかのような。自ら進んで罰を受けているかのような。ただ、微笑む存在。

 和服の女の首元に覗く青い墨。刺青の天使は薄明かりの漏れる襖を見つめた。漂う存在が動かぬのならば、自らが報いを遂行すべきか。

 ガラスの割れる音。男の荒い息遣い。

 スッと音もなく襖を開けた刺青の天使は、恍惚の涙を流す男の広い背中を睨んだ。



 冬休みの学校に動く影。教育改革に勤しむ教員たち。

 田中愛は仕事に熱心な教員たちに感心していた。前まで学校にいた教員たちには見られない躍動感。情熱を感じられる笑顔。彼らに素晴らしい幸を与えなければと、忙しく動き回るショートボブの天使。

 対照的に、丸メガネの天使は動かなかった。

 前髪に隠れたおでこ。ポニーテールに丸メガネ。久保玲は静観した。悪行も、善行も、静かに見守る静観の天使。

 見守る事こそが天使の役目であると、久保玲は考えていた。白髪の天使も、ショートボブの天使も、久保玲の瞳には何処か人に近い存在のように映っている。

 動かない同僚の腕を引っ張るショートボブの天使。来年の為に、田中愛は花壇の手入れをしておきたかったのだ。

 まだ早すぎるのでは、と首を傾げる丸メガネの天使。霜の降りる花壇の土は冷えて固まっている。

 それならば学校の掃除をしようと、田中愛は掃除用具入れを漁り始めた。廊下に散らばるモップに箒。

 何故だか黒猫と認識されやすいショートボブの天使。たまたま廊下を歩いていた新任の女性教員は「こらっ」と腰に手を当てると、掃除用具入れをめちゃくちゃにする黒い猫を抱き上げた。無抵抗の黒猫。静観する丸メガネの天使。

 職員室の隅で猫缶を与えられた田中愛は、立ち去る女性教員を見送ると立ち上がった。猫缶を持って校舎裏に向かうショートボブの天使。田中愛は毎日欠かさず、白い猫の世話を続けていた。

 ニャー、と弱々しく鳴く白い猫。目に見えるほどに痩せた白猫は寒空の下に体を丸めていた。その柔らかな毛並みを撫でた田中愛はそっと白い猫の前に猫缶を置く。ゆっくりと顔を上げた白い猫は、猫缶に鼻先を近づけると、ムシャムシャと口を動かし始めた。

 ほっと息を吐いて立ち上がるショートボブの天使。暫く白猫を見つめていた田中愛は、空になった猫缶を拾うと校舎に戻った。天使が報いを与えるべきは人なのである。

 ショートボブの天使は校舎を駆け回った。忙しく働き続ける田中愛と教員たち。白髪の天使の姿はない。

 指導教諭の山本恵美はパソコンの前でふぅむぅと甲高い唸り声を上げている。その丸い背中を見つめていた久保玲は、職員室を後にすると学校を出た。

 冬霧の白化粧。風の無い街を流れる冷たい空気。

 気配なく道を歩く丸メガネの天使は、道の影に蹲る家なき老人を見た。寒空に震えることを止めてしまった体。孤独な老人の消えかかった灯。老人の側に膝をついた久保玲は、そっと、その痩せた肩を抱き締めた。

 老人は薄ぼんやりと途切れ掛かった意識の中で、天使の優しい微笑みを見る。あっと涙を流した老人は目を瞑った。消える灯。孤独な老人の最期。

 老人を見送った久保玲はゆっくりと立ち上がった。目指す先に歩みを進める天使。

 久保玲は人が好きだった。悪行も、善行も、人の証であると。

 幸に喜ぶ人。不幸に嘆く人。静観する天使もまた、人の幸を喜び、人の不幸を嘆いた。

 自分に出来る事はないと久保玲は考えた。幸も不幸も、悪行も善行も、人の世に織りなされる必然なのだ、と。

 天使に道を譲るように、冬霧が横に広がる。

 人の進む道の先は分からない。人の進む道の先は決まっていない。だからこそ見守りたい。だからこそ見送りたい。

 病院には多くの天使がいた。白衣の天使と視線を交わす丸メガネの天使。久保玲が天使として生まれた場所。

 院内に満ちる苦しみ、喜び、嘆き。

 久保玲が病院を訪れる事はあまりない。長く滞在すると、何故だか体が動かなくなってしまうのだ。

 六階の病室。病気の母の側で俯く小太りの少年。多くの不幸を背負い込んだ丸い背中。

 音もなく病室に足を踏み入れる天使。久保玲は少年を見守った。

 


 山本恵美はギロリと目を細めた。

 ガマガエルのように弛んだ頬。首を埋める脂肪。ピンクの上着に覗く黄色いシャツ。

「山本です、新実さん」

「ああ、いや、済まないね、山本先生。僕は中々昔からの癖が抜けないんだ」

 新実三郎は頭を掻いた。霧がかった学校の裏門。黒いマフラーをした背の高い初老の男。

「新実さん、ここに、いったいなんの御用でございましょうか?」

「いや、なに、久しぶりに母校を見たくなってしまってね。冬休みだし、いいだろう?」

「ダメですわ、新実さん。部外者を許可なく学校に入れるわけには行けませんわ」

 山本恵美はしっしと手を前に振った。三郎は苦い、何処か寂しそうな笑みを浮かべる。

「そうか、そうか、僕はもう部外者だったね」

「そうですわ、ご理解して頂けたのならば、とっととお帰りください」

「まぁまぁ、まぁまぁ、はっは……。山本先生、学校はどうだね?」

「お帰りください、さ、早く」

「色々と噂は聞いているが、教育改革、僕は悪くないと思っているよ?」

「お帰りください」

「僕はね、嬉しかったんだ」

「お帰りください」

「貴方がまた学校に戻って来てくれた事が、すごく、嬉しかった」

「帰りなさい、と言ってるんです!」

「山本先生、いや、宮野クン。本当に、本当に済まなかった」

 バッと頭を下げる三郎。思わず取ってしまった軽率な行動に、三郎は激しく後悔した。だが、止められない。自分の行動によって、彼女はさらに深く傷付くのかもしれない。そう分かっていても、三郎は謝罪を止められなかった。

「済まなかった。お姉さんを、君を助けられなくて、本当に済まなかった」

「あああっ! かか、帰れ帰れ帰れっ!」

 顔を真っ赤に染めた山本恵美は三郎の頭に手を振り下ろした。バチンという音が冬の空に響くと、近くにいた教員たちが慌てて止めに入る。

「帰れ帰れ帰れ帰れ!」

「済まない……済まない……」

 頭を下げたまま地面に膝をつく三郎。恵美の叫び声が冬の霧を揺らした。

 

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