後見の天使


 もんぺ服の天使。新実和子が初めて殺した人は痩せた男だった。

 ボロを纏った男。痩せ細った少年が靴磨きで稼いだ僅かな財産と衣服を盗んだ男。

 当然の報いである筈だった。だが、新実和子は人に落ちた。幸か不幸か、人として死にかけたもんぺ服の少女は再び天使に落ちる。

 戦後の食えない時代は罪と厄災が横行した。新実和子は数多くの人に報いを与え、罪の罰としてその命を償わせた。

 五度、人に落ち、五度、天使に落ちた頃、新実和子はある事に気が付いた。他の天使とは違い、体が成長していたのである。かつてのもんぺ服の天使は、気が付けば、背の高い妙齢の天使へと変わっていた。

 時代の移り変わり。経済の急成長に沸き上がる人々。

 かつての哀れな少年もまた恰幅の良い健康な青年へと成長していた。目付きの鋭い青年。高い鷲鼻に硬く結ばれた唇。だが、その心は誰よりも清く美しい。幸を与えるべき人であると、自分が目を掛けてきた人であると、新実和子は片時も青年の側を離れなかった。

 やがて青年は子供を授かる。三郎。可愛らしい赤子であった。その水を弾くたおやかな白い肌を撫でた新実和子は、また、ある事に気が付いた。認知の距離が人に近づいていたのである。自分を見つめて笑う赤子。自分の指を握る赤子。新実和子は青年を振り返った。青年は何事も無いかのように開けた窓の向こうの青空を見つめている。或いは、青年は既に新実和子の存在に気付いていたのかも知れない。だが、彼はそんな素振りをほんの僅かにも見せることがなかった。

 新実和子は認知の距離を遠ざける術を学ぶ。小学校に上がる頃になってやっと三郎は、部屋の隅を見つめて笑うという奇行を止めた。

 既に数え切れない程の人を殺し、五度人に落ちていた天使。人と天使の境が分かるようになった新実和子は、幼き頃のように人に落ちる事がなくなった。孤独だった青年とその家族を見守る天使。愚かな罪を犯さぬよう。愚かな罪に巻き込まれぬよう。

 青年とその家族に厄災を与えた事はない。

 可愛らしい赤子だった三郎は立派な青年へと成長した。父の子供時代を憐んでいた三郎。子供に夢を与えられる大人になろうと教師になった三郎は、県立F高校に勤める事となる。

 三郎についてF高校に舞い降りた天使は、そこで報いを遂行するようになった。悪行に厄災を。罪に罰を。

 だが、F高校においての新実和子の報いは長くは続かなかった。とある天使が、新実和子を再び人に落としたのである。



「アンタ、幽霊だろ?」

 声が震えた。

 ダークブロンドの女生徒。吉沢由里は白い髪の老女を見上げる。感情のない鋭い一重。異様に高く反り上がった鷲鼻。硬く結ばれた唇に生気はない。

「なぁ、もうここから出ていってくれよ」

 声の震えを抑えようと、由里は手をギュッと握り締めた。寒々とした校舎に流れる静寂。白髪の天使の瞳に言葉はない。

 由里は恐怖を感じていた。彷徨う何かを見るのは初めてではない。学校を彷徨う老女の存在も知っていた。だが、由里はこの白髪の老女が恐ろしく、今まで見て見ぬふりを続けてきたのだった。人に対して何の感情も抱いていないかのような瞳。その奥に漂う憎しみと怒りの黒。人殺しの目だと、由里は本能で怯えた。

 新実和子は驚いていた。認知の距離をどれだけ遠ざけても、ダークブロンドの女生徒は視線を逸らさないのである。

 見てはいけないものを見るのもまた罪であろうか。新実和子はダークブロンドの女生徒をどう始末しようか考えた。高鳴る白髪の天使の心音。濃くなっていく白髪の老女の存在に震えながら後ずさる由里。

「由里! だから髪染めとけって言ったんだぞ!」

 静寂を突き破る大声。ビクリと肩を震わせた由里は後ろを振り返った。廊下を走る大柄の男。その後ろで息を切らすショートボブの女生徒。立ち止まった太田翔吾は短い髪を掻きながらため息をついた。

「その金髪、今は不味いだろ。マジで退学になっちまうぞ?」

 無言。髪を乱した由里は、微かに震え続ける体を抑えようと胸を抱くようにして両肩に手を当てた。再び後ろを振り返るのが怖かったのだ。

 翔吾は訝しげに首を捻る。ショートボブの天使。田中愛は廊下の奥を見つめた。

「どうした? 何かあったか?」

 由里の微かに開いた唇から見える白い歯。言葉は無い。

「おい、どうしたんだよ? ……まさか、また、日野の奴か!」

 慌てて由里に近づいた翔吾は、彼女の指ごと、その折れそうな細い肩を掴んだ。翔吾の顔を見上げる由里。田中愛はワクワクと、顔を近づけ合う二人の男女を見つめた。

 はっと、由里は目を丸める。ショートボブの女生徒の好奇心の籠った輝く瞳に気が付いた由里は、カッと頬を赤らめると翔吾の股間を蹴り上げた。ダウンする翔吾。ショートボブの天使はやれやれと肩をすくめた。

「テメェ、馴れ馴れしく触れてんじゃねーよ!」

「お、お、おま、そ、そこはやべーって……」

 蹲る翔吾の背中を踏みつけるダークブロンドの女生徒。既に白髪の老女の姿は何処にも見当たらない。田中愛はまた廊下の向こうを見つめた。



「臼田先生、今日は付き合って貰って悪かったね」

「いえいえ、私の方こそ、飲みに誘って頂いて有難うございます」

「一杯やる約束だったからね。あれから随分と時間が経ってしまったが」

 新実三郎は白いお猪口に揺れる酒を舌で味わった。和やかな喧騒の溢れる居酒屋。臼田勝郎は豪快にビールを飲み干すと、空になった三郎のお猪口に熱燗を注いだ。

「学校の方は随分と、大変なようだね」

「ええ、ですが新実先生、ご安心ください。私が何とかして見せます!」

 勝朗は、ドンッと空になったジョッキをテーブルに叩き付けた。ウルフカットのカツラが僅かにズレる。勝郎の頭を見上げた三郎は、フッと笑みを漏らす。

「難儀だねぇ」

「いえいえ、ははっ」

「生徒は笑ってくれるかい?」

「ええ、やはり面白いようで、今ではイタズラしてくれた奴に感謝していますよ」

 カツラの位置を戻す勝郎。

「そうか、そうか、それは良かった」

「ええ!」

「でもね、臼田先生、あまり頑張り過ぎるのも良くないよ。少しは肩の力を抜いた方がいい」

「もちろんですとも、こうやって酒を楽しむ事で、肩の力を抜いてるんです」

「そういう事じゃあ、無いんだよ。先生、貴方も人なんだ、たまには学校の事を忘れてしまって、別の事に精を出すのもいいんじゃ無いかね」

「別の事とは?」

「例えば、そうだね、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか?」

「それは……」

 勝郎の頭に浮かぶ若い女性の姿。思わず、船江美久との結婚生活を想像してしまった勝郎は強く頭を振った。カツラが大きくズレる。

「い、いえいえ、この私が結婚などと……」

「勝郎先生、貴方もいい歳だろう? 所帯を持ち、子を育てる事は教師としての成長にも繋がるだろうと、僕は考えているよ」

「……いえ、やはり、私には」

「何故かね、貴方にも想い人の一人や二人いるだろう? 何なら僕がセッティングをしてあげよう。僕はね、家族の中で笑う先生の姿が見たいんだ」

 三郎はグイッとお猪口を傾ける。勝郎は苦渋に顔を歪めながら、お猪口にお酒を注いだ。

「私は……私は……愛する生徒を不幸にしてしまった。そんな私が結婚などと……」

「先生、勝郎先生、その気持ちは忘れてはいけない。僕はね、後悔に苦しむのを止めなさいなどと言っているわけでは無いんだ」

「ですが……」

「僕もね、ずっと後悔し続けている事があるんだよ」

 杯が進む。空になったお猪口に注がれる酒。水面に浮かぶ蛍光灯のオレンジ。

「新実先生ほどのお方が、後悔ですか?」

「はっは、僕など、貴方の足元にも及ばないよ」

「そ、そんな事は……」

「僕もね、生徒を一人、いや二人、不幸にしてしまっているんだ」

 動きを止める勝朗。和やかな喧騒は遠くに離れ、三郎の声のみが勝郎の鼓膜を強く揺らした。

「まだ、F高校に勤め始めたばかりの頃だよ。僕は子供が好きでね、本当に皆んな可愛かった。だからね、子供同士が歪み合うなんて事を想像もしたく無かったんだ」

 コクリと頷く勝郎。

「長い黒髪が綺麗な生徒だった。活発で、聡明で、皆んなを引っ張っていくような、誰からも愛される生徒がいたんだ」

「……はい」

「いい子だったよ、こんなに完璧な子供がいるものかと、僕も思わず贔屓してしまいそうになったくらいだ。……ただね、その子には妹がいたんだが、その妹は、あまりこう言っては何だが、不器用な子でね。笑うと可愛らしいんだが、やはり姉だったその子と比べると容姿に自信が無いようだった」

「……その、姉妹が?」

「……初めは、初めは妹の方が酷いイジメにあっていたそうだ。それを止めようとした姉が次のイジメの標的となってしまったらしい。僕は、僕は、何も知らなかったんだ」

「それは……」

「それは、知らなかったでは、済まないと……? そんな事は当然僕も分かっているさ!」

 突然の大声に振り返る他の客たち。勝郎は息を呑んだ。

「……イジメの事実が発覚した頃、時既に遅く、活発で聡明で壮麗だった僕の自慢の生徒は、自らの儚く尊い命を絶ってしまっていた。笑顔の可愛らしかった妹は、失意のもとに学校を去った。それが、僕の後悔だ」

「新実先生……」

「勝郎くん」

 お猪口をテーブルに置いた三郎は勝郎の目を見つめた。それはかつての担任の瞳だった。学生時代を思い出した勝郎は、慌てて姿勢を正す。

「山本先生を頼むよ」

「……は?」

「山本恵美先生だ。貴方の力で彼女を導いてやって欲しい」

「山本先生……? ですが、あの人は……」

「頼みます、先生」

 バッと頭を下げる初老の男。勝郎は慌てて立ち上がると深々と腰を追って頭を下げ返した。

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