堕落の天使


「私、昔の記憶が無いの」

「えっと……記憶喪失ってやつかい?」

「うん、そうだと思う」

 秋風の届かないホテルの一室。細かな水滴の光る素肌。白いベットの上で長い黒髪を艶やかに乱した女。宮野鈴は寂しさに歪む唇を横に広げて微笑むと、隣に腰掛ける細身の男に抱き付いた。男は、まだ幼なげな彼女の桃色の唇に顔を近づけて、そっと口づけをする。温かな吐息。湿った肌。男の名前を宮野鈴は知らない。

「じゃあ僕、仕事に行くからさ、スズちゃんはここでゆっくりしててよ」

 シャワーを浴びる為に立ち上がる男。宙ぶらりんになった両腕を剥き出しの太ももに落とした宮野鈴は、ギュッと細い指を握りしめた。湧き上がる感情の渦。コントロールの効かない心。それでも宮野鈴は、寂しさも悲しさも決して表には出すまいと、内側の冷えた体をベットの上に丸めた。山の木々を濡らす雨のような、何処か遠くに響くシャワーの音が寒々しい。

「はい、プレゼント」

 黒いスーツに身を包んだ男。細い箱を宮野鈴に手渡した男はニッコリと微笑んだ。曖昧に微笑み返す宮野鈴。箱をゆっくりと開いた彼女は、黄金色に光る万年筆に目を丸めた。

「綺麗……」

「スズちゃん、金色が好きなんだよね?」

「うん、ありがと」

 微笑み合う二人。職場に向かう男を見送った宮野鈴は、黄金色の万年筆をポケットの中で握り締めて部屋を出た。清掃に勤しむ黒の三角巾を被った女性に頭を下げる宮野鈴。部屋で待っていれば男は帰って来るのかもしれない。だが、宮野鈴は待つ事が出来なかった。誰かの温もりを。孤独感を癒す誰かの微笑みを。

 冷たい秋風の吹き抜ける街。宮野鈴は誰かに貰った白のタートルニットに脆く壊れそうな白い肌を隠した。何処かで見たマリーゴールドの温かな黄色。思い出せない誰かの、土に塗れた手のひら。

 宮野鈴は秋空の下に足を急がせた。美しい花を誰かと眺めたい、と。

「おい!」

 喉の焼けたような男の怒鳴り声。人けのない路地に響く音。

 振り返った宮野鈴は、背の高い無精髭の男を見上げた。いつかの夜に体を交わらせた男。名前の知らない誰か。

「探したぞ、スズ! お前、何処に行ってたんだ!」

「あの……」

「おい、俺が買ってやった服はどうした? お、お前、まさか他に男がいるんじゃないだろうな?」

 男と過ごした時間は三日ほどだった。宮野鈴と同じ、感情の起伏が激しい男。孤独感を癒してくれる誰かを必死に求め続ける男。

「どうなんだよ! そ、その服は何だ!」

「……その、これは、寒くなってきたからって」

「寒くなってきたから? お、お前、やっぱり他に男が居たんだな?」

「……はい」

 赤茶色に染まる男の顔。血走った男の目に怯えた宮野鈴は後ずさった。

「お前っ! お、お、俺は、お前の事がっ」

 拳を振り上げる男。地面に殴り倒された宮野鈴は、腰にのしかかった男からどうにか逃れようと、必死に身を捩った。男の太い指が宮野鈴の細い喉を包む。

「なぁ……スズ。俺、やっと仕事見つけたんだよ。お前と二人で暮らす準備も始めてるんだ。だから、だからさ、俺と結婚してくれ!」

「や……やめで……」

「な、何でだよ! 俺なら孤独なお前を幸せに出来る! 絶対に二人で幸せになれる! だから、だから……」

 男の指の力が強くなると、宮野鈴の口から泡が漏れ始める。男は涙を流して笑った。怒りと悲しみと喜び。自らの殻に籠る男は感情をコントロールする術を知らない。

 路地に人は居なかった。一つの存在が地面に絡み合う二つの存在を見つめている。

 白髪の老婆は虫の息となった存在に冷たい視線を送った。宮野鈴の瞳がゆっくりと閉じていく。

 人に落ちた天使。完全な人とは言えない存在。落ちた天使は命の灯が消えると共に存在が消滅する。

 宮野鈴の意識が消失した事を確認した白髪の老婆は、二人に背を向けた。無精髭の男は母親を殺している。無論、白髪の老婆が導いた結果ではあるが、罪は罪であった。積み重なった怠惰と無知の悪行に対する報いを遂行する白髪の天使。宮野鈴の衣服を剥がし始めた男を横目に、新実和子は公衆電話の受話器を握った。


 白髪の老婆が去った直後、宮野鈴は微かに目を開いた。寒さと痛みに震える体。ただ、恐怖と悲しみは無い。代わりに湧き上がる初めての感情。

 激しい怒りに全身の毛を逆立てた宮野鈴は、破かれた衣服の隅に転がる黄金色の万年筆を掴んだ。悪行に対する報いを、罪に対する罰を考えた訳ではない。完全な人では無い存在は、最後の力を振り絞ると、涙を流して笑う男の首に万年筆を振り下ろした。


 

 

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