迷いの天使


 また、勝ち負けの話だ。

 中野翼は机に肘を付いて窓の外を見た。霧のように細い雨。寒々しい秋の空。クラスを漂う白けた空気。

 カバのようにずんぐりとした体型。薄桃色のカーディガンに身を包まれた指導教諭の山本恵美は、受け持つ古文の授業そっちのけに、実社会における勝者敗者の話を熱弁した。熱心に耳を傾ける数人の生徒。大半のクラスメイトは退屈そうに欠伸をしている。

 案の定、体育祭は生徒たちにとって失敗に終わった。

 全員が白い帽子を被った異様な光景を思い出す中野翼。熱気も感動も無い競技。失笑とため息の漏れる応援歌。学校行事が好きでは無い文学部の翼でさえ、勝ち負けの無い体育祭は呆れ果てて言葉を失ってしまう程に退屈な茶番劇だった。いくら不幸な出来事があったとはいえ、あれは無いだろうと、翼は学校に失望した。

「資本主義の現代において、貴方たちのほとんどが、いいえ、日本人の大半が、自己の体を、大切な時間を売り物にしてお金を稼がねば生きてはいけないのです。ほんの一握りの資本家を除いて、貴方たちのほとんどが、そう、ほとんどが労働者階級としてその身を資本家に捧げる事になるでしょう。言い換えるならば、奴隷です。おほほ、ちょっぴり厳しい言葉ですが、これが現実なのですよ? 当然、このワタクシも、社会の奴隷なのだと言えるでしょう」

 恵美は弛んだ頬をプルプルと震わすと、丸い両手の平を自分に向けた。脂肪に埋まった金の指輪が光る。

「では、社会における勝ち組とは誰を指すのか。資本家? ほほ、とーぜんです。ですが、彼らの大半は生まれながらにしてその地位にある方々。土地を持ち、金を生み出す媒体を持ち、莫大な資本を受け継いだ方々。一個人の努力などでは到底届かない領域におられる方々なのです。では、どーすれば我々庶民が、資本家には届かないまでも社会において勝ち組と呼ばれる地位に到達出来るか。わかる方は居ますか?」

 沈黙。欠伸。舌打ち。

 YouTube、という誰かの呟きにクスクスと笑い始める誰か。クラスに広がる失笑に、恵美は、おほんと咳払いをした。

「より良い主人を選び出す事、つまり、良い企業に就職する事です。安定した収入と福利厚生、それらが得られない庶民は、いわば負け組と呼ばれる部類に落ちこぼれる事になるでしょう」

 ギロリと生徒を見渡す恵美。恵美を睨み返すダークブロンドの吉沢由里。中野翼は阿呆らしいとため息を付いた。

 熱心に頷く数人の生徒を見つめた恵美は弛んだ頬を揺らすと、手元のノートに何かを書き込んだ。古文の授業を再開する気は無いようで、恵美は、授業が終わる瞬間まで社会における勝ち組負け組の話を延々と続けた。

 勝者と敗者。勝敗の無かった体育祭にうんざりした生徒たちは、新任教員たちが繰り返すこのフレーズに再度うんざりさせられながらも、実社会における勝ちや負けという概念を自然と意識し始めていた。

 来年度から開かれるという特進クラス。就職率の高いF高校における教育改革の一環。近くて遠い実社会という未来を想像する生徒たちの一部は、その特進クラスに入りたいと思った。そここそが漠然とした未来を明るくする唯一のルートであると。自らの頭で考えた訳ではない。無論、考えたつもりにはなってはいるのだろうが、知識と人生経験に乏しい彼らに考える術は殆ど無く、答えの無い答えに辿り着く可能性は少ない。ただただ、信じて待つ事のみが、彼らの選ばされた道であった。


 花壇で霧雨を浴びるパンジーの青紫。強いショックを受けるショートボブの天使。ひと月ぶりの学校は何処か寒々しく、静かだった。

 二週間前に終わった体育祭の名残は何処にも見当たらない。白髪の天使に連れられて行った隣町の中学校から、三つの高校を経由してやっとF高校に戻ってこれた田中愛は、昨日まで滞在していた私立高校の女生徒に貰ったミルキーを一つ、赤い袋から取り出して口に入れた。甘いミルク味のキャンディ。田中愛を誰かの妹だと勘違いしたらしい私立高校の女生徒は、何故だか涙目で微笑みながら、天使のショートボブを何度も何度も撫でた。その女生徒への報いに奔走した為に、田中愛はF高校に帰るのが遅れたのである。

 校舎に足を踏み入れる田中愛。何処かじっとりと湿ったような空気。職員室に向かう途中に保健室を覗いた田中愛は、まだ僅かに黄金色の花弁を残すマリーゴールドの鉢を見た。窓辺ですくすくと育つナラの盆栽。丸椅子に座る奥田恭子の背中は丸い。

 職員室を覗いた田中愛は、机に座って談笑する見覚えの無い大人たちに首を傾げた。まさかまた学校を間違えたのでは、と職員室を飛び出したショートボブの天使は、保健室にいた奥田恭子の存在を思い出して立ち止まる。確かにここはF高校だった。

 2年D組に向かって階段を上がる田中愛。午後の校舎は授業中のようで、廊下を歩く人は誰もいない。

 2年A組の前で膝を抱える存在。縁の無い丸メガネを掛けた天使。長い黒髪の女生徒の代わりにF高校に訪れた天使は、何かを思案するように、ジッと廊下の一点を見つめていた。立ち止まった田中愛は、丸メガネの女生徒を見つめる。首を振る丸メガネの女生徒。教員の異動は、新任の天使にとってはどうでもいい話らしい。それよりも丸メガネの女生徒はある事に懸念を抱いていた。どうにも、天使が目を掛けている2年A組の男子生徒に報いとは関係のない多くの災いが訪れ続けているのだという。

 そういう事もあるのでは、と微かに首を捻るショートボブの天使。授業の終わりを告げるチャイムが静かな学校を木霊すると、取り敢えず頷いて見せた田中愛は2年D組に足を急がせた。

 立ち上がる丸メガネの女生徒。2年A組に足を踏み入れた天使は、教室の隅で俯く小太りの男子生徒を見つめた。

 

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