天使の鼓動


 時を遡ること数分前。郊外の住宅の一室。平日の午後。

 白髪の天使は視線の先で項垂れる薄毛の男を見定めていた。

 男に与えるべき報いは何か。判断に悩んだ白髪の天使は、一旦、薄毛の男を放置することに決める。

 男に背を向けて仏壇の写真を見つめる疲れた表情の女。写真に映る息子の笑顔を一晩中眺めていた女は白髪の老婆が迎え入れた男の言葉に一切返事をせず、また、後悔と悲痛に歪んだ男の顔を一瞥することもなく、見知らぬ老婆の存在に違和感を抱くこともなかった。

 怠惰の悪行。亭主と会話せぬ怠惰。息子の苦しみを見ようとせぬ怠惰。他の思いやりに振り向かぬ怠惰。日常の異変に気づかぬ怠惰……。

 悪行に対する報い。罪に対する罰。白髪の天使はゆっくりと立ち上がると、同じく、別の罪を背負った女の亭主の元へ向かおうと部屋を出た。

 短い廊下の先の玄関。音もなく土間に降りたった白髪の天使は、誰にも認知されることなく開かれた扉をスッと抜ける。否、二つの存在が玄関の前で白髪の老婆を認知していた。

 短い黒髪の女生徒と長い金髪の女生徒。立ち止まった白髪の天使は、表情のない瞳で短い黒髪の女生徒を見つめる。

 警告。可能範囲を超えて活動する天使への警告。認知されるべきではない人との過度な接触に対する警告。これから起こり得るであろう天使の意義より外れた行為に対する警告。

 短い黒髪の女生徒は体を固定したように一点を見つめて視線を合わせない。金髪の女生徒は困惑した面持ちで天使の会話を見守った。

 目線を外す白髪の天使。音もなく歩き始めた天使は、石段を降りると、道路脇にひっそりと佇む白の軽自動車に乗り込む。掛かりの悪いエンジンを何度も始動させながら、白髪の天使は、家に足を踏み入れた二つの存在を車の中から見届けた。



 ショートボブの天使。田中愛は引き戸の陰から部屋の中を覗いた。カーテンの閉じられた畳の部屋。仏壇の前に座り込む浜田豊子。机を挟んだ向いで正座して俯く臼田勝郎。

 田中愛の肩に手を置くダークブロンドの女生徒。天使に導かれるようにしてこの家にやってきた吉沢由里は、どういうわけか天使の存在を認識し続けていた。取り敢えず、不法侵入の罪は不問とするショートボブの天使。

 田中愛は先ほどから由里の視界の外に体を移動させようと、左へ右へ、横跳びを続けていた。忍者のごとく、脱兎のごとく、反復運動を繰り返すショートボブの天使。膝に手を当てて荒い呼吸を始めた田中愛の背中を由里が心配そうに撫でる。

「帰ってください」

 張り詰めた部屋の空気を震わせる豊子の声。田中愛は顔を上げる。自殺した浜田圭太の母親は痩せこけた頬をゆっくりと後ろに向けると、体を縮こませて正座する勝郎の四角い顎をギロリと睨みつけた。

「帰ってください」

「も、申し訳も、ございません……」

「帰ってくださいと、言ってるんです」

「わ、わたくしの責任で、この度は……」

「帰って!」

 豊子はわっと泣き崩れた。畳に額を擦り付けるように頭を下げた勝郎は、声を震わせながら何度も謝罪の言葉を口にすると脂汗の滲む顔を上げた。

「帰れ!」

 豊子の投げたリモコンが勝郎の額に当たる。ピクリと田中愛の眉が動いた。息子を失った母の不幸を帳消しにするような最大級の幸を考えていた天使は、勝郎の額から流れる血を止めようと部屋に足を踏み入れる。不用意に動く田中愛にバランスを崩すダークブロンドの女生徒。突然畳の上に倒れ込むようにして現れた二人の生徒に、勝郎は驚いて口を開いた。

「お、お前ら」

「……誰?」

 豊子は弱々しく首を傾げた。体を起こした由里は姿勢を正すと、仏壇の前の豊子に頭を下げる。

「その……お参りに来ました」

「圭太のお友達?」

「はい……えっと、この子が友達らしくて」

 田中愛が立ち上がるのを助けた由里は、もう一度ペコリと頭を下げた。泣く資格など無いと涙を堪えていた勝郎は、健気な生徒たちの行動に嗚咽すると、深々と仏壇に頭を下げて部屋を出ていった。勝郎の額の傷が気になるショートボブの天使。由里の善行に対する報いを約束するように彼女の手を握りしめた天使は、豊子に与えるべき報いに悩んだ。

 天使の判断能力の限界。田中愛の可能範囲は狭い。複数の対象に脳がショートしそうになった天使は、フラフラと頭を揺らして豊子の隣に腰掛けると仏壇を見上げた。田中愛を認知出来ない豊子は首を傾げて部屋を見渡す。

 新品の遊戯王カードをポケットから取り出す天使。圭太の写真の隣にそれを置いた田中愛は、音もなく手を合わせた。

 人ではない死者に対する無意味な行為。田中愛が行ったそれは職務放棄に等しい。

 ショートボブの天使は激しく動悸を始めた胸を抑えて立ち上がった。田中愛の存在を忘れて仏壇の写真をじっと見つめる由里の横を走り抜ける天使。玄関を駆け出て石段を降りた田中愛は、暑い日差しの下に蹲った。

 徐々に収まる鼓動。滝のような汗を流して立ち上がった田中愛は、フラフラと、学校に向かって歩き始める。

 



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