天使の苦痛


 吉沢由里の右ストレートが太田翔吾の頬を貫いた。

 机を薙ぎ倒す翔吾の広い背中。声を失うクラスメイト。巻き添えを食らって倒れるショートボブの天使。

「テメェに言われる筋合いはねーよ!」

 ロングのダークブロンド。鋭く怒鳴った由里は細長い中指を立てると足を踏み鳴らしながら教室を出ていった。ざわめくクラスメイト。体を起こした翔吾は廊下に目を細める。存在を認知され難い女生徒が翔吾の真下でもがく。

「あ、大丈夫?」

 やっと田中愛の存在に気が付いた女生徒の一人が腕を伸ばした。その手を掴んだショートボブの天使は善行に対する報いを約束するかのように、女生徒の頭を撫でた。

 昼休みの喧騒を取り戻す教室。腫れてきた翔吾の頬を笑う友人。翔吾は特に気にした様子もない。最近、夜の学校で体育館の二階のカーテンが一人でに開閉しているらしい。たわいもない怪談話に花を咲かせる翔吾たち。会話が落ち着くと、廊下に出た翔吾は由里の行方を探し始めた。

 廊下で足を引き摺るショートボブの天使。壁に手をつきながら階段を下りた田中愛は職員室に向かった。生徒の自殺により追い込まれた臼田勝郎を見つめる天使。職員室に入ろうとした田中愛は、廊下の先にダークブロンドの女生徒を見た。

 悪行に対する報い。罪と同等の罰。

 先ほどの喧嘩の事情を知らない田中愛は、取り敢えず、一方的な暴力に対する罰として小さな拳を握りしめた。痛めた足を引き摺りながら由里の背後に迫る天使。田中愛の渾身の右ストレートを由里は軽々と受け止めた。そのまま倒れ込んできた小柄な天使を、由里はギュッと抱き締める。

「ちょっと、どうしたの?」

 首を傾げる由里の腕の中でもがく天使。捻った足に走る苦痛。荒い息をする見覚えのない女生徒の異変に気が付いた由里は、その体を抱き上げた。

「足、怪我してるのね? うふふ、大丈夫よ、保健室行こうね?」

 目を細めて微笑む由里の桃色の唇。普段の荒々しい彼女とは違う口調と表情に田中愛は戸惑う。天使の小さな体を、赤子をあやすように抱きかかえた由里は、廊下を歩き出した。

「由里、何してんだ!」

 翔吾の怒鳴り声が廊下に響く。軽く舌打ちをする由里。振り返った彼女は、天使を抱きかかえたまま中指を立てた。

「うるせーっつってんだろ、コラ」

「由里、いい加減にしろ。その子をどうするつもりだ?」

「どうもしねーよ、テメェ、何様だ?」

「叔母さんに頼まれてんだよ、お前がまた、その、女同士で、その、変な事をしないか、見張ってろってな!」

「あの、ババア。つーか、おい、変な事ってなんだよ?」

「し、知るか! いいからその子を離せ!」

 状況が掴めないショートボブの天使。翔吾の無事を確認した天使は、取り敢えず、先ほどの暴力に対する報いは必要ないだろうと判断した。勝郎のいる職員室に戻ろうと、彼女の腕の中で体を動かした田中愛は足の痛みに呻いた。

「おい、大丈夫か?」

「怪我してんだよ、この子」

「そ、そうなのか?」

 慌てて近寄る翔吾。彼に背を向けた由里は廊下を急いだ。

 保健室の奥田恭子の笑顔。善行に対する報いとして届けられた花の並ぶ明るい部屋。次の幸は盆栽にしようと頷くショートボブの天使。一人頷く小柄な女生徒の真剣な表情に由里の頬が緩む。

 恭子に頭を下げた田中愛は、由里と共に廊下に出た。

「そっか、田中さん、同じクラスだったんだ?」

 微笑む由里。記憶にないクラスメイトに困惑する翔吾。また、言い合いを始めた二人から、そっと離れる天使。

 職員室にいない勝郎。車がない事を確認した田中愛は、足を引き摺って校門に向かった。

 その腕を掴む誰かの手。

「君、一年生? 足怪我してるね、まだ授業中だけど、早退かな?」

 微笑む由里のダークブロンドが風に揺れる。田中愛の存在を忘れた女生徒。稀に、ほんの僅かな時間のみ、天使を認識出来る存在。

 田中愛は無言で腕を振った。やれやれと肩をすくめる由里。

「そんなに慌てて、何処か行きたいの? 送ってあげようか?」

 振り解けない腕力。天使は諦めたように動きを止めると、コクリと頷く。目を細めて微笑む由里。駐輪場に向かうと、自転車に跨った。

 青空の下で風を切る自転車。天使の告げた行先に向かう由里の表情は厳しい。

 自転車を降りた二人の見上げる家。由里の善行の報いに、彼女の瞳を見つめてそっと頭を撫でた田中愛は、浜田圭太の家の前に停まる勝郎の車を見た。

 犯していない罪。善行に対する不幸。

 固まる由里に背を向けた天使は、不幸を帳消しにする幸を与えられなかった生徒の家に足を踏み入れる。

 

 

 



 

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